Ambivalent

ユージーン

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apoptosis

85.The opposite

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 雪が降り積もったような真っ白な医務室は、誰も踏みこんだことのない聖域のように思えた。吸血鬼の侵入すら防いでくれるような、仕掛けでも施されているように。美穂がそう感じたのは人が使った形跡が一切見当たらなかったからだ。医務室はまだ機能しておらず、造り立ての壁の塗料の臭いが室内を漂って占領していた。
 美穂は扉をロックして、ガラス窓から外の様子を窺う。出会い頭の吸血鬼は、誰だろうと葬った。吸血鬼たちは吸血衝動で正気を失っており、話し合いにすら応じない。どんなに高価そうなドレスやスーツを身につけていても、理性を失った吸血鬼たちは、野蛮な獣ように思えた。
 厄介なことに吸血鬼はな者たちだけではない。銃火器を備えた吸血鬼も少なからず見えた。武器を奪おうかとも美穂は考えた。小さな拳銃よりは頼りになる。
 周辺に吸血鬼の姿が見えないことをもう一度確認すると、美穂は振り返った。
「怪我の具合はどうなの?」
 窺う声は二人に届けた。一人は止血剤と包帯を手にして苦戦している筧明日菜。もう一人は、明日菜の手当てを受けている、内田うちだと名乗った【舞首】スタッフの男性。
「血は止まりました。とりあえず大丈夫だと思います」
 手当てを終えた明日菜の声は、危機的状況にも関わらず明朗だった。誰かに貢献できていることを喜んでいるようだ。その明るさは、張り詰めた空気を和らげてくれた。
「助かったよ……死ぬかと思った」
 内田は安堵して言う。不器用な明日菜の包帯が傷口を隠していた。
「それで、なにがあったの?」
「わかんねえ……いつの間にか吸血鬼がたくさんいたんだ。俺はエントランスから逃げようとしたけど……警備システムが働いてて……入り口の機銃ドローンが無差別に発砲してくるから、引き返したんだ」
「システムが作動してるのに、なんで中の吸血鬼に対処できてないのよ」
「内側にあるのはシャッターくらいだ。そもそも金持ちの吸血鬼は野蛮な暴動は起こさないさ。ここには可能な限りの娯楽があるからな。カジノやバー、それにエステサロンまで。人間じゃなくて吸血鬼用の」
 うんざりした調子で内田は言う。小言を聞き流した美穂は医務室の設備を見渡す。医務室には最新の医療機器が揃えられている。ここも金持ち吸血鬼専用の場所なのだろう。
「あの、窓はないんですか? そこから外に出れるかも」思いつきにはにかむ明日菜だが、内田の表情はなおも険しい。
「ないよ。中庭側は見えるけど、外側を見る窓はない」
 【舞首】の中庭はドーナツの穴のようになっており、そこの四方は建物の外壁に囲まれている構造になっている。
「それに、中庭って言うけど、厳密にはまだ建物の中なんだ。上部に強化ガラスが数枚ほど設置されてる、透明な屋根だよ。外の空気は吸えない」
 外からの応援に中庭からのヘリ降下を考えていた美穂だが、その期待は消えた。外界から遮断されていることに変わりはない。いっそのこと、ドローンもガラスも破壊して強引に侵入してしまえばいいのに。そんなことを思っていると、明日菜が近づいてきた。
「美穂さん、少し座って休んだらどうですか?」
「けど……」
「見張るくらいなら私にもできますよ」
 美穂の言葉を遮り、明日菜は頼もしい顔を見せてくれる。そうね、と美穂は頷くと、ソファに腰掛けた。ほんの少しだけ緊張から身体が解放された気がした。
「噛まれると……みんなああいうふうになるんですね」
「正確に言うなら……噛まれた後に死ぬと、吸血鬼にね」
「じゃあ、一度でも噛まれた人は死んだらみんな吸血鬼になるんですか?」
「いえ、噛まれてから長く時間が経っていれば……そのまま死ぬわ」
「そうですか……」
 明日菜はそう言うと、複雑な表情になり下を向いた。たどり着くまでに遭遇した人たちに、なにが起こったのかを想像しているのだろう。その想像の裏側には所長である父親の姿があるはずだ。でなければ、目に涙を浮かべるくらい不安な気持ちを抱くはずがない。父親と仲違いをしていても、本当に嫌っているわけではないのだ。
「私の仕事は、あなたを守ること。必ずお父さんのところに送り届けるから。お父さん……筧所長も無事にしているわ」
 “きっと”なんて予想の範疇にしかないものを美穂は自分の言葉にねじ込みたくなかった。そして、自分の胸にも強く言い聞かせる。隊の人間は、一人も欠けてはいないことを。
「……美穂さんが私の護衛で本当に良かったです」
 面と向かってそう言われて、美穂は気恥ずかしくなり顔をそらす。それを明日菜に指摘されて、ますます顔が赤くなるのを感じた。すると、内田が口を開いた。
「二人ともお取込み中悪いけど……本当にあの筧明日菜なのか?」
 内田は、半信半疑な口振りで明日菜に訊いてきた。
「ええ。ここが防音なら、唄って踊って証明してみせますよ」
「そりゃいいね。俺の友達がえらく熱く語るから、一度ライブ観てみたかったんだ」
「ふふふ、この事件が終わったら、二人とも私のライブに招待しますよ」
「ははっ、そりゃいいな、楽しみだ。アイドルに傷の手当てしてもらった客なんて俺が初めてかもな」
 噛みつかれたことなど忘れているように、内田が笑う。明日菜も、自分の手当ての甲斐があって内田が元気を取り戻していることに喜んでいた。
 美穂は天井を見る。これからの考えを巡らせてみるが、打開案はない。入り口のところに備え付けられていた受話器から、応援が呼べればいいのに、なんてくだらないことを考えてしまった。
(アホらしい……)
 とりあえず、もうしばらくはこの場所に留まっておいた方がいいだろう。




 ○



「ダメだ……はぁ」
 あんじゅは、ため息をつく。美穂の姿をカメラで捉え、内線から連絡をとろうと考えたのだが、何度試しても医務室には繋がらなかった。仕方なく、あんじゅは美穂たちとコンタクトをとる作業を中断する。
「あの……く、鵠さん……たちは?」
 同じく画像を見ていた真樹夫に訊かれて、あんじゅはかぶりを振った。
「ダメでした。でも、無事は確認できました。それと所長さんの娘と、スタッフ一名は無事です」
 美穂の生存を確認できて、真樹夫の表情は少しばかり明るくなる。いつも美穂に煙たがられているものの、やはり彼女が生きていることは、真樹夫も嬉しいのだろう。
「警備は解除できそうですか?」
「む、難しい……厳重で……ファイヤーウォールがいくつも……」
 真樹夫は私物のパソコンから入り口の警備システムの解除を試みているが、まだ成果は出てないらしい。銃器タレットを停止させれば、正面から応援が突入することは可能だ。
「霧峰……さん。で、できる?」
 真樹夫に言われて、あんじゅはパソコンを覗きこむ。セキリュティはやはり厳重で、一目見て自分の範囲外なのがわかった。
「……ゴメンなさい」
 あんじゅは、真樹夫に詫びる。『技術班』としてでなく、『戦術班』として採用した。着任初日に室積むろずみ隊長に言わたことを思い返す。その判断が適切だったことに改めて気づかされた。
「すみません……役立たずで」
「えっ!? いや、えっ……でも、その……他の人よりかは……できてる……から」
 口下手だが、励ましてくれる真樹夫の言葉をあんじゅは素直に受け取るべきか迷った。自分が『技術班』の仕事をしても貢献できていないような気がした。射撃と情報分析の能力を比べて、自分がどちらに優れているのかは、はっきりとわかる。
「お取り込み中悪いが、いいか? こっちで気になる映像を見つけた」
 不意に、伊羽警備主任が声をかけてきた。
「映像ですか?」
「ああ、さっき映像を調べていたら見つけた。ほんの十分前のだ。これは君らのとこの仲間だろ?」
 監視カメラの映像から複数の人質たちが連れて行かれるのが見えた。その中には早見とカイエがいて、そして永遠宮千尋の姿も確認できる。
「こ、これっ……ま、まさか……」
「私たちの正体が判明したってことでしょうか?」
 吸血鬼たちに身元が割れた。それは捜査官にとって最悪の展開だ。普段は吸血鬼を追う狩人が、今は囚われの身となっている。吸血鬼たちはきっと
「助けないと」
 出口に向かおうとしたあんじゅだが、伊羽が立ち塞がった。
「どいてください」
「ダメだ、外の監視カメラを見ろ。君が出たらこの部屋に吸血鬼がなだれ込んでくる。私たちを危険に晒す気か?」
「でも行かないと……! 私の仲間が殺されます!
 もうそんなことはごめんだった。室積体長、真田宗谷、寺本凛、そして、クラスメイト。あんじゅは全ての出来事の近くにいた。そして無力に立て籠もっている今も。
「助けるにしてもまず武器がないだろ」
 伊羽に指摘され、あんじゅは立てかけてあった消防用の斧をとる。切り落とした吸血鬼の血はもう固まっていた。斧を手にしても、伊羽が道を空けることも険しい顔を崩すことはなかった。
「あ、あの……!」
 真樹夫に呼ばれ、あんじゅは彼の方を向いた。不安そうな顔で真樹夫は画面を指差している。モニターは武器庫の前の監視カメラの映像で、誰かが武器庫の扉を力任せに蹴っている。その人物は氷姫幸宏だった。
「えっ……と、ぼ、僕……警備システムの解除がある……から。彼の対応……お願いします」
 真樹夫に言われ、あんじゅは斧を置く。二、三回深呼吸をして自分を落ち着かせた。気持ちを整理できたところで、あんじゅは持ち場に戻った。
「ゴメンなさい」
「えっ!? えっ、だ、大丈夫……それより、早く電話に」
「はい」
 内線が使用できることを確認すると、あんじゅは武器庫前に繋がる受話器をとった。
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