Ambivalent

ユージーン

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at intervals

50.Remembered blood taste,Remembered parent taste

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 胃の中は空になった。それでも沙耶の吐き気は治らなかった。身体の震えも止まらない。それが決してアルコールが原因ではないことは、沙耶が一番わかっていた。
 胃液を吐き、忌々しく唾を吐き捨てた。胃がフラフープみたいにぐるぐる回っている。トイレットペーパーを鷲掴みすると、唇の血を拭き取った。
「クソ……」
 個室にうずくまって、乱れた呼吸を整える。口に血が入った瞬間、鉄の味を舌で感じた瞬間に、が鮮明に蘇ってきた。遠い昔のことなのに、血が口に入ると、戻らされたみたいに感じてしまう。
「大丈夫ですか?」
 ノックとともに声がした。霧峰あんじゅの声だった。
「綾塚さん、あの……大丈夫ですか?」
「大丈夫だ……」
 沙耶は弱々しく答えるともう一度、唇の血を拭き取る。血は、もう止まっている。ほんの少し血が出たくらいでここまで自分に影響を与えるなんて、本当に不思議で忌々しかった。
 扉を開けると、不安そうに見つめてくるあんじゅが立っていた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫」
 そう答えて、沙耶は手を洗う。だが、鏡に映った顔は、言葉とは程遠いほどひどいものだった。
「やっぱり、お酒ダメだったんですか?」
 あんじゅの言うことは的外れだったが、あの場から見たら誰もがそう思うのが普通だろう。飲み過ぎて吐いた、と。そうでないことは、沙耶自身が一番わかっている。
「……違う」
 苦手だと言えばそれで終わるが、沙耶はそう答える気にならなかった。理由はわからないが、その嘘をつくことにあまり乗り気ではない。
「酒じゃない」
 外に出ると、待ち人用の椅子があったので、沙耶は身体を投げ出す。
「血が口に入るのが嫌なんだ。思い出すから」
「思い出す?」
「……ああ」
 吐き気が治まり、沙耶は深呼吸をする。自分がひどく汗をかいていることに、今さらながら気がついた。天井を仰ぎ見ると、薄暗い蛍光灯の光が厭に眩しく思えた。
「吸血鬼」
「え?」
 口から零れるように出た言葉。だが、その先はない。文を作って主語にしたいのか、意味なくその単語を呟いたのか、自分でもよくわからなかった。
「……お水、もらってきましょうか?」
 あんじゅの気遣いに、沙耶は上を向いたまま首を振る。
「あの、大丈夫ですか?」
「もう平気だ」
 そうは言うが、戻る気にはなれなかった。しばらく一人になりたい。そう思ってはいるものの、心配そうに見つめてくるあんじゅを、払う気にはならなかった。
「霧峰は私のことをどう思っている?」
「え? え、あの……」
「正直に答えてくれていい。別に怒りはしない」
 唐突な質問に、あんじゅが困惑する。質問の意図は、沙耶自身もよくわかってはいなかった。
「あの……それって、どういう意味でですか?」
「どういう意味?」
「印象的なことですか? それとも、その……」
 あんじゅな言葉尻を濁らせた。
「ああ……その、印象とか雰囲気だ」
 の意味でないことを理解すると、あんじゅは考える素振りを見せた。
「悩むことか?」
「いえ、あの……」
「正直に言えばいい。ちなみに、私の印象は冷酷だとか、そんなものばかりだ」
 あんじゅは困惑した表情を見せる。
「えっと……そうですね。私は綾塚さんのこと、強いと思ってます」
「……なんだそれは」
 思わず沙耶は笑みをこぼす。そんなことを言われるなんて予想もしていなかった。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
「いや、なんとなくだ。でも、冷酷とかそういう部分、多少は思ってはいるだろう?」
「えっ、あ……はい」
 あんじゅは気まずそうに言う。
「吸血鬼を倒している時、笑っているので」
 沙耶は特に返さなかった。あんじゅもなにも言わない。
「吸血鬼について、お前はどう思っている?」
「え?」
「クラスメートを殺した連中だ。連中をお前はどういう目で見ている?」
 突然の質問にあんじゅは困惑する。それは、ある意味では沙耶の予想通りだった。
「吸血鬼を恨んだり、憎しみを持ったりはしていないのか?」
 稲ノ宮旅館で起きたことは未曾有の大惨事だった。記事で見る限りの情報だが、沙耶はそう記憶している。大勢の被害を出したその事件、その生き残りが沙耶の目の前にいる。彼女は吸血鬼をどう思っているのだろうか。見知った者たちを同族に変えた吸血鬼を。吸血鬼化した友人や同級生を撃ち殺すことになった、その原因の吸血鬼たちに、抱く思いはなんなのだろうか。沙耶はそれが気になった。
「私は……」
 あんじゅが視線を落とす。そこから先は、言葉が出てくることはなかった。その様子がどこか痛ましく、沙耶はまるで自分が意地悪な質問を投げたように感じてしまった。
「すまない、今言ったことは忘れてくれ」
 沙耶は詫びの言葉を述べる。
「……訊いてもいいですか?」
「なんだ?」
「どうして、綾塚さんは吸血鬼が嫌いなんですか?」
 嫌い。あんじゅの問いは決めつけられたものだったが、それは決して間違ってはいない。そもそも好きならば、この職には就いていないだろう。
「昔話をしてもいいか?」
 沙耶は小さく言う。はい、とあんじゅが答えた。
「私の両親は……医者だった。世界中で、傷ついた患者を助けていた。患者は主に吸血鬼だった」
「吸血鬼の……医者?」
「ああ。私の両親は人間だがな。吸血鬼には、表立った医療機関は政府公認のところしかない。やつらだって不死身じゃないからな。怪我したり、病気になることもある。隠れ潜む吸血鬼たちは法外な闇医者や薬、莫大な費用での手術や違法な細胞再生治療で生き長らえるしかないんだ」
 吸血鬼が、法的な医療機関を利用しようと考えるなら、吸血鬼はその身をさらけ出さなければならなくなる。そうなった場合は強制的に収容されて医療を受ける、その理不尽な選択しかない。治療後に彼らを逃してしまっても、近い未来に人を襲うのは目に見えている。そんなことを、人間は許すはずはない。自由を得たい吸血鬼たちは、口の堅い闇医者たちに頼らざるを得ないのだ。たとえ、人権や道徳を無視した対応をされようとも。
「じゃあ……闇医者ってことですか?」
「カテゴリ分けしたらそうなるが、私の両親は違う。ほとんどタダ同然で吸血鬼を治療していた」
「えっ、でもお金とかは? 医療品とか高いですよね?」
「母親の方が株とか投資でな。私にはよくわからなかったが、それでなんとかなっていたみたいだ。世界中に飛んで、いろいろなところの人間や吸血鬼を見た。それくらい儲かっていたみたいだ」
 沙耶は言って、あんじゅを見た。
「ある日、ヨーロッパの方の田舎の町に行った時だ。父の元に、怪我をした子供の吸血鬼がやってきた。女の子の吸血鬼だったよ。父が人工血液をあげると、その子の目が赤くなったよ。それは今でも覚えている」
「それって、能力種の吸血鬼ですか」
「ああ、あれが初めて見ただ。父はその子を治して、帰したよ。それが、間違いだった」
「間違い?」
 あんじゅはいぶかしむように眉をひそめた。
「数日経った日に、男たちがやってきた。女の子が呼んだんだろうな、その男たちを。きっと、その子はこう思ったんだろう。“この人たちは怪我を見てくれるいい人たちだ”と。だから、伝えたんだ、あの連中に」
 一息おいて、沙耶は続けた。
「──相手は、吸血鬼の犯罪者たちだった。人を襲ったり、なぶり殺したりしてる連中だ。だから父は治療を拒んだ。父は、わざと犯罪を犯す吸血鬼については門前払いしていたからな。そうしたら……」
 沙耶はそこで言葉に詰まった。今になって、どうして自分はこのことを他人に語っているのか、不思議に思う。
「奴らは、私を人質にした。首に噛みついて、心臓を突き刺すと脅した。そして自分の娘が吸血鬼になって復活するのを見ていろ、と」
「そんな……」
「父と母は仕方なしに治療したよ、その吸血鬼たちを。そいつら全員を治療したあとで、奴らは父を縛り付け、無理やり血を抜いた。父の血は瓶詰めにされて、私は、母にすがりついて怯えながらそれを見ていた」
「誰も……助けなかったんですか? 他の、治療待ちの吸血鬼は?」
 あんじゅの問いに、沙耶はかぶりを振った。
「誰も助けはしなかったよ。それどころか、血の臭いの誘惑に負けた患者が、父に噛みついた。父は彼らを治そうとしていたのに。気弱な患者たちが、血を得た瞬間に一斉に獣になった。その瞬間に理解したよ。彼らに必要なのは治療を施すことではなく、血液なのだと。なによりも人間の血が望みなのだと」
 あんじゅは黙って聞いている。沙耶はすでに、誰に対してこのことを話しているのかわからず、ひとりごちるような口調になっていった。
「父は吸血鬼化する前に頭を撃たれて死んだよ。飛ばされた脳漿のうしょうが私の頬に張り付いたのは覚えている。その後に連中が目をつけたのは、私と母親だった。倉庫に連れて行かれ、私と母は、離れ離れにされた。私は、監禁されてそのまま何日も過ごした。空腹と喉の渇きでおかしくなりそうな時に、やっと食事が来たよ。腐ったパンと、液体の入った瓶。瓶に貼られたラベルにはこう書いてあった。《your parent blood》と」
 parent。意味を理解したのか、あんじゅが驚愕に目を見開いたのが見えた。
「ちょっと待ってください……じゃあ……」
「私は拒否したさ。でも連中はそれを許さなかった。無理やり口を開いて、流し込んだ。血の生臭い味が口の中に広がって、でも吐けなかった。喉が渇いていて、いくばくかは受け入れたよ……両親の血を。それからも、飲み物はほとんど血だった。両親の血なのか、知らない誰かの血なのかはわからなかったが」
 沙耶は穏和に笑ってみせた。笑うような内容でもないのに。
「それが原因で、口で血の味を感じたりすると思い出すんだ。赤ワインみたいな色の飲み物を口に含むのもあまり好きじゃない」
「だから、吐瀉としゃしたんですね」
「そうだ」言って沙耶は息を吐いた。
「そのあと、吸血鬼狩りの捜査官たちによって私は助け出されたよ。その時に、ボロ雑巾のような母とも再会した。すでに事切れていたが」
 沙耶はどこか遠くを見るように、天井を仰ぎ見た。
「それが、私が吸血鬼を憎む理由だよ。あの時は吸血鬼を殺したくてたまらなかった。でも、幼い私にはそれが出来なかった。今は出来なかったことが出来る。それが復讐する人物じゃないにしても、同じ吸血鬼なら誰だっていい。それで私は満たされる。だから、つい笑ってしまうんだ」
 そう、誰だっていいのだ。吸血鬼ならば。その瞬間にも気分は晴れる。例え錯覚だとしても、殺してその灰を見れば自分は満たされていく。もう届かなくて、戻れなくて、だからこそ沙耶の中に終わりはなかった。
「一つ質問してもいいですか?」
 堅い声であんじゅが訊く。
「なんだ?」
「室積さんを殺したに、綾塚さんは笑ったんですか?」
 唐突な質問に、沙耶は迷った。どうだったか覚えていない。
「いや、その時は──」
 沙耶は言葉を止める。あの時はどうだったのだろうか。あの時点で、室積隊長はすでに人間ではなくなっていた。吸血鬼という存在、室積正種という存在。両者が同じ意味合いを持つようになった。そうなっても、それが沙耶の手を緩める理由にはならなかった。
「…………」
 それだったら、どうして自分は隊長の最期の言葉を訊いたのだろうか。他の吸血鬼には、決して訊くことはない、最期の言葉、最期の願いを。
「──覚えていない」
 ごまかしたように言ったが、実際にあの時に笑っていたのかは、沙耶自身もよくわかっていなかった。
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