Ambivalent

ユージーン

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Two of us

139. New Face

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 迫りくる吸血鬼の牙がとらえたものはあんじゅの胴を繋ぐそのしなやかな首ではなく、間に割り込んできた太い腕だった。
「ぐっ……!」
 痛みをこらえる声が漏れた。その声は一番近くにいるあんじゅの耳に届く。それが柚村京のものであることがわかると、あんじゅはなにが起こったかを理解した。
「柚村さん!」
「離れろ!」
 それは、自分の腕に食らいついている飢えた吸血鬼に向けられたものではない。あんじゅは言われたとおりに、躊躇いを残したままその場から数歩だけ後ずさった。
 途端に、ドローンの無数のレーザーサイトが再び赤い光を放った
『早く彼から離れなさい、汚らしい化け物め!』
 先ほどまでの機械的な声とは違い、感情的な物言いになっていた。備え付けられたAIが侮蔑と怒りの感情を真っ先に覚えたかのように。
 女性の吸血鬼の全身が血の色とは別の赤色に染まり上がる。いくつかの照準は京が障害となっていた。
! 吸血鬼を突き放せますか? そのまま仕留めますから!』
「大丈夫だ! 撃つな! あんたが誰か知らねえけど、ドローンとタレットを今すぐ停止させろ!」
『正気ですか!? 自分を襲った吸血鬼を、あなたは庇う気なんですか!?』
「とにかく消せ!」
 直後、京の言葉に従うように赤いレーザーサイトは消え去った。
 京に食らいついていた女性の吸血鬼も次第に正気を取り戻した顔に戻る。女性は京の腕から口を離すと床に落ちたわずかな血を指ですくい取る。躊躇いがちに口に含んだ彼女はその場に崩れ落ちた。自分のした行いに対にして深く絶望しているように見えた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 女性は京の顔を見ることができずに下を向いたまま虚ろげに呟く。手錠をかけられていなければ、彼女はその両手で顔を覆って目の前の世界から一時的に逃げていただろう。
 彼女に駆け寄ろうとしたパートナーだったが、相澤にやんわりと阻止されていた。
「やっぱりあなたはの人間なんですね、柚村先輩」
 軽蔑するかような女の声がその場に流れた。
 そして近づく足音とともに、早見が現れた。その隣にもう一人、パソコンを片手に眼鏡をかけた少女が立っていた。
「お久しぶり、京くん! 退院おめでとう!」
 早見は手を挙げて久しぶりに外に出てきた仲間に声をかける。
「早見さん、お久しぶりです。長らく療養していてすみません」
「気にしなくていいわよ。いろいろあったんだもん。あんじゅちゃんに相澤くんもご苦労様。梨々香ちゃんもお久しぶり」
「どもどもぉ、おひさでぇす」
 一人一人に軽く声をかける早見。次に向かったのは吸血鬼の女性の元へ。早見は一言断りを入れて女性に口枷をはめていた。相澤に吸血鬼を任せた早見は次に男性の元に行き、事情を聞く。その間にも眼鏡をかけた女の子は早見の後ろを鴨の雛のようについていた。
 カイエがやってきたのもちょうどそのあたりだった。
「大丈夫ですか?」
 床に点々と落ちている血と、京の腕を見てカイエが言った。
「ああ……止血剤あるか?」
 京に言われてカイエは止血剤を投げ渡す。口で袋を破った京がそのまま粉末状の止血剤を部位に擦りつけた。
「カイくん、来るの遅いよぉ? お手洗い?」
「すみません」
「もしかしてぇ、抜いてた?」
「してないです」呆れつつ否定するカイエ。
 梨々香のくだらない冗談にあんじゅはコメントをせず苦笑する。落ち着いた状況にはなったが、まだ油断はできなかった。
 周辺では、ドローンが動いて周りの人々を俯瞰していた。空から落ちてくる機械の音声は遠巻きに見てくる野次馬たちの耳に、一応は届いているようだった。
「柚村さん、大丈夫ですか?」
「クソ痛え……退院早々にひでえ怪我したよ」
「京くぅん、またお見舞いに行ってあげよっかぁ?」
「大丈夫だ、こんくらい治療しなくても平気だ。向こうも例の吸血鬼じゃなかったしな」
 京の血を摂取した女性吸血鬼の目にはなんの変化もない。牙の有無もあんじゅが目視で確認していた。
 早見とカイエが男女それぞれを拘束したまま、奥に連れて行くと言ってきた。どうも乗ってきた車では荷物が多すぎて護送車の代わりにならないらしく、新たに手配する算段になったらしい。
 二人は拘束した男女とともに消え、残された眼鏡の少女はあんじゅたちの前にやってきた。
「もしかして新しい『技術班』の人ですか?」
 あんじゅが訊くと、少女は胸ポケットから名刺を取り出した。
「初めまして。里中さとなかあおいです。よろしくお願いします、霧峰先輩」
 自作されたその名刺は名前と連絡先というシンプルな構成だった。あんじゅはそれを受け取るとまじまじと見た。葵は他の三人にも名刺を手渡していた。
 里中葵は赤縁のメガネをかけていて、黒色の髪は手入れをしていないのか、痛んだまま肩まで伸びている。見た目は技術方面に特化した知性を感じさせる容貌だが、知性では彼女の独特の幼さという雰囲気は隠しきれてはない。あんじゅは彼女が義務教育を終えてからの進路をすぐに読み取った。【彼岸花】のアカデミーは早くて中学卒業後から入ることができる。
「うわぉ、美濃原の言ってたことってこれか」
 相澤が口をぽかんと開けたまま葵の方を見た。その目は葵の両腕に向けられている。京と梨々香、そしてあんじゅも葵の腕には注目せざるを得なかった。
「えっと、すごいですねそれ……」
 一見すれば、葵は押しに弱い大人しそうな女の子に見える。だが、半袖姿の葵の両腕には所狭しとタトゥーが彫ってあった。それらは、わかりやすく症状を見せる病魔のように袖の中にまで侵食している。タトゥーの中身は宗教画のような色合いからラテン語で書かれたものまで様々だった。これら全て解説付きで説明されれば、である葵の人生観をもっと深く知れるようになるだろう。
「よろしくおねがいします、葵さん。霧峰あんじゅです」
「知ってます。早見さんの隊の人間は事細かに経歴を読ませていただきましたから」一言呼吸を整えてから葵は続けた。「稲ノ宮旅館の吸血鬼襲撃事件から逃れた最後の生存者、霧峰あんじゅ。当時中学生とは思えない射撃能力を活かして、地獄から抜け出した……それがあなですよね、霧峰先輩」
 葵の語調には先輩という概念の他にどこか敬う気持ちが込められていた。
 次に葵は、椅子に腰掛けてる京に目を向けた。腕の血はもう止まっていた。
「あなたのことも調べましたよ、柚村先輩。優秀な吸血鬼テロ対策の捜査官の父親と、国立吸血鬼研究所の役員を務める母親。あなたは吸血鬼という今の社会の問題に、昔から囲まれていたようですね」
 葵はあんじゅのときと同じ口調に、小さな棘を混ぜていた。
「そして、先日の【舞首】の事件で唯一逃亡している吸血鬼──元【彼岸花】の『戦術班』、永遠宮千尋を教えていた。余談ですがお酒と彼女の誘惑に負けて──」
「おい、それ以上言うなよ」
「一度だけ肉体関係に。それが直接的か間接的かはわかりませんが、あなたは永遠宮千尋に同情的な目を向けています。着任したてで、しかも研修生の私に言われてすごく腹が立っているとは思いますが、優秀なあなたが吸血鬼に同情するような姿は見たくない、そう私は思ってます、以上です」
 京の言葉を無視して続けた葵。それを含めた後半の言葉を直接京に伝えなければ気が済まないとでも言いたげだった。
 早見が戻ってきて、葵は一礼した後で上司の元へと駆け寄っていった。
  梨々香が京の肩を叩いた。
「なんだよ?」
「いやあ、なぁんか……京くん目をつけられてるって感じだねぇ」
「おまえがいた方が気は楽だったよ。つーか、経歴書ってどこまでプライバシー書かれてんだ、ほんとに」
「ところで、柚村さん」
 話がひと段落したタイミングであんじゅは声をかけた。
「どうした?」
「葵さんの言ってたこと本当なんですか?」
「……一応聞くけどどの部分だ?」
「はい?」
「そりゃ、聞くべきことは一つさ。お酒に酔ってことだよなあ、あんじゅちゃん」
 相澤に向かって京が露骨にしかめ面を作った。梨々香の方もにやにやと笑みを浮かべる。
「ち、違います! お母さんが国立吸血鬼研究所の役員だってところです! ていうか、その手のことを知りたいのは相澤さんだけでしょう!?」
「梨々香も、気になるぅ。京くんがどうやってちーちゃんに落とされたのか」
「霧峰、とりあえず本当のことだ。んで、おまえらは二度とコンビで来るな、ウザい」
 えー、と相澤と梨々香は不満げに声を揃えた。
 十分後、【彼岸花】の職員が現れて現場検証が行われている間、相澤と梨々香は京からなんとかして詳細を引き出そうとあの手この手を使って京をもてなしていた。なびくこともなく、京は一度も口を滑らせなかった。唯一心が動きかけたのは、春先に京が破壊したセダンの修理費を半額以下に下げると梨々香が言ったときだけだった。
 やりとりを眺めていると早見とカイエ、そして葵が戻ってきた。早見とカイエは現場の検証に携わり、葵は一度ぐるりと周りを見渡すと、あんじゅの元へとやってきた。
「どうも、霧峰先輩」
「葵さん、お疲れ様です」
「さん付けはいりませんよ。私はまだアカデミーの研修生の身なので」
「やっぱりそうなんですね」
「はい。他のクラスの人間より一足先に現場を見て環境に触れるというか……自分で言うのは引けますが、一応成績は良いので」
 成績優秀者が卒業する前に現場に駆り出されることは、あんじゅも聞いたことがある。
「ところで、先輩。あの吸血鬼たちって恋人同士だったんですか?」
「わかりません。でもそうかと……」
「だったら不幸ですね。でもなんで逃げようとしたんですかね? 男の人が通報するなり、無理なら殺せばいいのに」
 葵は同情を混ぜつつも信じられないと言うような目をしていた。葵が吸血鬼やそれに肩を持つ人間に対してどういった感情を抱いているかは、もはや決定的だった。
「物騒なこというねえ、葵ちゃん」
 京との交渉を諦めた相澤があんじゅたちの方にやってきた。
「吸血鬼を放っておくほうが物騒だと私は思います。彼らが我が物顔で外を闊歩するようになれば、それこそ人類存続の危機です。生かすにしてもその人件費や設備費は決して安くはない。優秀な技術を持っているか、かつ人類に友好的な吸血鬼以外は、例外なく殺すべきです」
 堂々と言い放った葵の発言には強い意志と、またも吸血鬼に対する敵意が込められていた。
「ところで、あなたはどなたですか? 【彼岸花】の人?」
「あんじゅちゃんの恋人の相澤蓮です」
「ああ、なるほど」
「やめてください。冗談なので信じないで」
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