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Two of us
144. Livin' on a Prayer
しおりを挟む黛ほたるは、帰ってくるなり身にまとっていた服を乱暴に脱ぎ捨てた。外は残暑がまだ残っており、汗で体がべたべたする。それが苛立ちに拍車をかけた。
そのまま自分の部屋に向かうと、下着姿のままベッドに身を投げ出す。いつもならば、帰ってくればそれなりに心は落ち着くはずだった。だが今日はそれはない、後遺症のようにじくじくと胸が痛む。その原因──なにが気に食わないといえば、全てだった。カイエも、霧峰あんじゅも、あの男も、それに──。
記憶の奥底に埋めたものが掘り返されていく。胸糞悪いそれは、自分が思考停止していた世界一のバカだったときの出来事だった。
今も覚えている。忘れることはない。
わたしの役割は一生その身を──身体を捧げることだ、とあのときは思っていた。そうすれば、幸せだし、愛してもらえる。なにも考えずにいれば、なにも見ずにいれば、苦しむことはないんだ、と。今ではそんな考えにも唾を吐きたくなる。
「うぜぇ……消えろ、消えろよ……クズ野郎……」
思考に溺れる前に抵抗する。ずぶずぶと沈んで、ネガティヴになるのはごめんだった。
ほたるは起き上がると、カバンに最低限の荷物をまとめた。最悪の状況を考えて、逃げる準備はしておかなければならなかった。次に家の敷居をまたぐのが、カイエだとは限らないから。
くそっ、喉が渇いた。
メガネをかけたほたるは、台所に向かい、冷蔵庫を開ける。そしてペットボトルの容器に入れてあるものを飲みほすと、壁にもたれかかった。なにをするわけでも、考えるわけでもなく、じっと、ずっと。
やがて、外が暗くなり、窓から射し込む月明かりに照らされる。玄関の扉が開けられたのは、そのときだった。
警戒しつつ、ほたるは玄関を覗きこむ。見えたのは、ギプスを付けて松葉杖を持ったカイエだった。
「それ、どうした?」
ほたるは訊きつつも、ある予想を立てた。あの女──ショートカットヘアのクソ同僚が撃ったのではないか、と。ゴミ箱に放り込む価値しかない道徳心と正義に動かされて、引き金を引いたのではないか、と。だが、カイエが無事に(語弊があるが)帰ってきたことを考えれば、その可能性はない。つまり、このバカは──。
「自分で撃ったのかよ」
「少しだけ手伝ってもらったさ」
カイエは靴を脱ぐと、そのままリビングに向かった。ソファに座りこむと、今までの疲労を吐き出すように思いきり息を吐く。
「少しってなんだよそれ」
「肩の方は自分で撃った。その方が向こうも引き金を引きやすいと思った」
「はあ……?」
呆れた、信じられない。こいつは本当に──
「クソバカだな、おまえ。病院に行ってこい」
「行ってきたさ。細胞再生治療と経過待ちで四、五日は現場に出て仕事できそうにない」
「明日は脳みそ見てもらえ。自業自得だ、家でニートでもしてろ」
「まあ、疑われたりはしなかったよ。霧峰さんとも話した。あの感じなら、当分は誰かに話すことはないだろう」
「根拠ねえくせに、よく言えるよな」
そんな言葉とは裏腹にほたるは、少しばかり安心した。カイエの言葉には力がこもっていた。それは、ほたるをいつも安心させてくれる。今も昔も、きっとこれからも。
厄介の芽は摘まれたと、考えていいのだろう。荷造りが徒労に終わって、本当によかった。
「殺す方が楽だろ」それは半分本心だった。
「彼女は、悪い人じゃない」
「善人かどうかの問題じゃねえよ」
「もうやめよう、無事に終わったんだ」
カイエは肩をすくめる。ほたる自身も、今日は当たりが強かったことに自覚はあった。だけど、カイエにはもう少し警戒心を持ってほしい。いつか、取り返しのつかないことになれば、共倒れだ。それに最近、向こう側に浸かり過ぎだ。
カイエはテーブルに置いてあったインカムに「ラジオ」と言った。BGMがリビングに流れ始めた。パーソナリティの声ではなく、聞こえてきたのは洋楽だった。古い──トミーとジーナの名前が出てくる、とても古い歌。耳に残るその曲は、ほたるの好きな曲だった。
「なんて言いかけたんだ?」
カイエは、曲のサビのメロディに飲み込まれないように声を張った。
「なにが?」
「車から降りた後に、言ったろ。言葉濁したけど霧峰さんに……彼女になんて言おうとしたんだ?」
「……貢ぎ物だよ。それか生贄か……とにかくなんでもいいさ、そんな類の言葉だ」
ほたるはカイエを見て、それから窓の外の景色を見る。不夜城のように明かりが灯り始めた夜の都内が映る。きらびやかな光景が網膜に張り付くが、胸の内は別のことを考えていた。ちっとも色あせてくれない昔のことを。
「ほたる」
「なに?」
「おまえ、仕事の途中から機嫌悪かったよな。送ろうとしてたあの二人に、ムカついてたろ」
ご名答、とは言わなかった。ほたるは口を紡ぐ。否定しない沈黙が答えだ。
「なにが気に食わなかったんだ?」
「あの二人、子どもができるかどうかで悩んでただろ。そんな幸せなことで頭悩ましてるのが、ムカついたんだよ」
そう、幸せなんだ。そんなくだらないことが悩みの種だなんてことは。
「できるわけねえだろ。人間と吸血鬼がいくらヤっても、子どもなんか産まれやしねえんだよ」
目の前にその二人がいるかのように、ほたるは少しだけ声を荒げる。今日はやけに感情的になってしまう。不安定なまま、まったく落ち着かない。
「わたしはそれを、嫌ってほど知らされたんだから」
「ほたる……」
「何も言うな、慰めたら殺すからな」
虚無感のあとに苛立ちが再び熱を帯びてきた。喉がひりひりと痛む。「最悪だ」なにがきたかを理解するより先にその言葉が浮かんでくる。
「カイエ……」
またこの時間だよ、クソッタレ。ほたるは胸の中に自身への悪態をぶちまける。
ほたるの身になにが起きているのかをわかっているカイエは、そのままほたるを手引きしてソファに座らせた。
「首にするか?」
「……隠しようがねえだろ、アホ」
軽口を叩く気力はまだある。あと三分もすれば、その余裕もなくなるだろう。
「それに……間違ってもわたしと同じになってほしくねえ。それだけは、わたしが嫌だ」
カイエが黙って袖をめくると、ほたるはその腕に噛みついた。歯をたてて傷口から溢れ出す熱い血を、一心不乱に喉に流しこむ。潮が引くように喉の渇きは収まっていく、でも一時的だ。甘美と幸福感が頭の中で何度も弾け飛ぶ。もっともっと、本能が要求してくる。
リビングにある全身鏡は、迷信とは違って吸血鬼の姿を全面に映しだしていた。赤色に侵食されたその眼も、例外なく。
白のカーペットに、ぽたぽたとカイエの血が滴り落ちて、シミを作った。
「買い換えたばかりだってのにな……」
「……いいよ、捨てちまえ。それに、長くは居ないだろ」
もう何度目だろうか。カイエだけの血を吸って今まで生きてこれた。正確には、それだけではないのだが、カイエ意外の人間が与えてくれた血には、忌まわしい記憶しか残っていない。
吸血鬼にとって世界一幸福を感じるこの瞬間が、ほたるにとって世界一嫌いな時間だった。
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