僕たちはまだ人間のまま 2

ヒャク

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第60話「信じて」

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この男が全てになるのだと思った。

『メイ』

高くもなく、低くもなく、自然と馴染むように耳障りの良い優しい声が彼の特徴だった。
聞いていると、気分はふわふわと穏やかになり、催眠術でもかけられたのかと言うほどに身体から力が抜けていく。

『大丈夫だよ。俺がやるから、メイは心配しないで』

儚い印象と違って、力強く前を歩く男だった。
熱くなる性格で、たまに人とぶつかる。
恐ろしいくらいに真っ直ぐで、驚く程に彼の性格や魂と感じるものは、芽依の性格や魂と感じるものによく馴染んだ。
だからこそ芽依は、この男と自分は共にあるべきなのだと思った。

『芽依がいてくれるなら、俺、めっちゃ強くなれるよ』
『ふはっ!何言ってんだよ!』
『本当だって』

そんな記憶が何歳の2人で、いつのものだったかは忘れたが、確か、雨の降っていた夜に話した気がする。

『だからこれからもよろしく、芽依』

佐渡ジェンは川、あるいは海のようだ。
涼しげで、清らかで、何かにぶつかりながらも流れて行く。
上手い具合に隙間を見つけて染み込んで行く。
芽依は彼のそう言う人間性が好きで、性格の柔軟さや周りへの配慮、対応の仕方に憧れ、良く見習っていた。
ジェンを尊敬できる男だと思っていた。
そして何より、彼の強さに憧れた。
石や岩、地面を削り少しずつ広く、深くなる川のような。
全てを飲み込み、包む、海のようなその強さに。

「何で嫌いにならないの、そいつのこと」

鷹夜の表情からは色が消えていた。
冷え切って硬く、少し怒っているようにも見える。
彼の表情筋は本来ならよく動くのに。
それは芽依も知っているし本人も自覚しているだろう。
何と言っても感情ジェットコースターで、飽きない程にぐるぐると表情も顔色も変わるのだから。
しかし今はいつもと違って、ただ引き結ばれた唇と動かない頬。
冷たい視線で、鷹夜ではないような顔をしている。
その表情が怖い訳ではなかったが、芽依は一瞬、呼吸ができなくなっていた。

「ッ、、き、」

何を言われているんだろうか。
彼の頭の中では大洪水が起きている。
「そいつ」とは誰の事かを考えるためにある程度の自分と鷹夜の共通の知人の顔がまずぐるぐると頭の中を回り、次に「嫌いにならないの?」についての理由を頭に浮かんでいる顔たちのそれぞれの人間から抜粋して、「何で」に当てはまるかどうかを測った。

「?、、?、」

測ったところで出はしなかった。
鷹夜が誰の話をしているのかも、どうして自分が誰かに怒らないといけないのかも芽依には理解ができなかった。

「芽依」

それを察したかのように、鷹夜は少し低い声で彼を呼んだ。
いつの間にか逃げていた芽依の視線は、その声で泳ぐのをやめ、恐る恐る鷹夜へと戻っていく。
バチン、と視線が絡まった。

「ぁ、いや、」

何故だか、背中を冷や汗が流れて行く。

「芽依」
「あの、」
「逃げんな」
「ッん、」

ゴグンッ

芽依の喉から、唾を飲む変な音がした。

「何で。佐渡ジェンに。怒らないの」

鷹夜は彼を逃さず、そして質問を明確にするため、彼でも理解できるようにとわざと区切って述べてやる。
見る見る強張っていく芽依の表情。
そして、ビクビクッ、と彼の右の口の端が震えた。

「、、、」
「だ、、って、」

はあッ、と激しく息を吐き、すぐに大量の酸素を肺に引き込む。
芽依は鷹夜と見つめ合いながら、脳内に懐かしい銀色の髪を思い出していた。

「嫌いに、なって、、怒って、いぃの?」
「え?」

その答えはあまりにも優しくて、あまりにも無垢だった。

「俺が、何かしたから、、俺が、ジェンに、嫌われるようなこと、したから、BrightesTは、終わったんだよ?」
「芽依、ジェンくんに何かしたの?」
「し、してない、したつもりはない。けど、」

でないと、理由がない。
蚊が鳴くような小さな声でそう言うと、芽依は俯いてまた泣きそうになってしまった。
鷹夜は彼の握り締められた拳が太ももの上で震えるのを見てから、彼の言葉を思い出すように頭の中で復唱する。
「俺が何かしたから終わってしまった」「していないし、したつもりもない」。

(一体、どう言う子だったんだろう。テレビの向こう側でしか知らないし、芽依の話でこんな人だったのかなと考えるしかない。全て黙って急に目の前から消える冷たい奴だと俺は思ってしまうんだけど、、芽依は、違うからなあ)

いつもなら自分が言われる側だろうけれど、今回ばかりは鷹夜から芽依に言いたくなった。
「このお人好しの馬鹿」と。
しかしここまで追い詰められている芽依にそんな言葉をかけるわけにもいかず、肩を力を抜いてから、鷹夜はラグの上を少し膝で歩いて、芽依のすぐ目の前に来た。
邪魔なローテーブルを押してズズ、と動かすと、カタカタと空っぽになったコーヒーの缶が揺れる。

「ぁ、」
「バカ」
「ん」

泣くな、と芽依の目元を拭うと、溢れていなかった涙が少し袖に付いた。

「何も言わずに目の前から消えたやつの肩、いつまで持つんだよ」

毒だと思うものは吐き出した方がいい。
正しい吐き出し方を知らないのなら、今ここで教えて、終わらせてあげた方が芽依が楽になる。
事実、佐渡ジェンがしでかした行動によって、多少なり芽依の中身は不安や甘えで歪んでしまっているのだから。
鷹夜が安心させるように彼の頬に手を添えると、芽依は耐え切れず、またボロボロと泣き出し始めるのだった。

「っ、、だって、俺のせいだって、だから、ぁ、謝んなきゃ、って」

涙で視界が滲み、歪んで、鷹夜の顔がよく見えない。
見えないけれど、怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
黙って芽依が言いたいことを聞いて受け止める気でいるのだ、と流石の芽依でも察しがついた。

「俺のせいで、ッ」

頬を撫でる手が優しい。
温かくて、安心する。
ほんの少し、鷹夜の整髪料の匂いが鼻先で揺れる。

(どうして、置いていかれたんだろう)

芽依とジェンは2人で何でも乗り越えてきた。
どうしようもなく売れなかったときも支え合って、笑っていような!、と言い合った。
彼らが共に過ごした数年間は、全てが輝いていた。
曇りのない、影のない、ただひたすらに眩しい時間だった。

「俺のせいで全部ダメになったんじゃないの?」

銀色の髪は風に靡いている。
佐渡ジェンはずっと、振り向いてはくれない。

「俺が、何か、したんじゃないの、?」

芽依の心の奥底にあったのは、ありのままを受け入れてもらえない恐怖だった。
何も悪い事をした記憶がないのに、昨日まで笑い合っていたのに、忽然と目の前から姿を消したジェンのことを考えて、ずっと自分の性格や態度に問題があると思っていた。
日常生活を送るだけでも害がある、自然体でいてはいけないのだと。
それすら、人から嫌われるのだと。
だからこそ無理をして、無理をしてはいっぱいいっぱいになって人に当たった。
そばにいてくれるか。
裏切らないか。
それを確かめるために、散々に周りにワガママを言って困らせては、離れて行かない友人たちを見て安心し、満足してきた。
そうしないと不安で胸が潰れて、死んでしまいそうだったからだ。

「俺の、せいで、ッ、ジェンは俺が、嫌いになったから、嫌になったから、だから、!」

だから離れて行った。
そうじゃないの、?

「今のまんまの芽依が好きだよ」

ぼたん、と大粒の涙が両の瞳からこぼれ落ちると、視界がはっきりとして、やたらとくっきりと鷹夜の顔が見えた。

「で、でも」

目の前にいるその人は、美しい人だった。
自分より背が低くて、たまに感情ジェットコースターで、体調管理が甘くて、いつまで経ってもセックスに辿り着けないけれど、それでも、誰より優しくて、美しくて、そしてこの人は大人だ。
少し乱暴に頬が擦られて、涙が拭かれる。
鷹夜の親指の腹はまた濡れてしまっただろうけれど、そんなこともお構いなしで彼は弱ったように、ふはっ、と小さく声を漏らし、ニッと笑って芽依を見た。

「信じてよ。前も言っただろ?格好悪い芽依も、好きだよって」
「ッ、!」
「可愛いよ」

自分もこの男につられて感情がジェットコースターのように上がったり下がったりするようになってしまったのだろうか。
あんまりにも優しい顔でそう言われて、先程まで泣いていたのに、芽依はカッと自分の顔が熱くなるのを感じた。

「芽依。信じて、俺のこと」
「、、、」
「きっと誰よりもお前のダメなところたくさん見てるけど、嫌いになんてなってないだろ。大好きだよ。お前のまんまでいてくれるなら、ずーっと好きだ」
「、、、」
「怖がんないで」

頬を包む手が温かい。
グン、とまた近づいた鷹夜とのこの距離感が久々で、余計にドキドキする。
正座をする芽依の膝を跨いでその上に鷹夜が乗ると、コツン、と額が合わせられた。

(近い、、鷹夜くんの匂いだ)

その瞬間、信じられない勢いで芽依は自分の中の「不安」が消えていくのを感じた。
いつも胸にあったグツグツと煮えるドス黒い塊が、ふっと軽くなっていくのだ。

(鷹夜くんだ。あったかい、どうしよう、)

好きだ。
どうしようもなく、好きだ。

「た、かや、く、」
「ね。俺を信じてよ、芽依」

もっと名前を呼んで欲しい。
誰かに呼んでもらうだけで、こんなに満たされるなんて知らなかった。

(あ、、何か、全部、どうでもいいや)

銀色の髪の男は永遠振り返ってはくれないけれど、でも、この人がそばにいる。
それがどんなに心強いことか、もう芽依は痛いほど知っている。

「芽依。芽依は誰からも好かれるわけじゃないかもしれない。芽依のこと嫌いな人も、苦手な人もいるかもしれない。それで離れていった人もいると思う」
「うん」
「でも、今、芽依の周りにいる人たちを見ようよ。離れていった人のこといつまでも考えてたって、仕方ないって俺は思う。そう言うご縁だったんだな、って。俺だって、プロポーズした女の子にその場でフられてめちゃくちゃ凹んだけど、そう言う縁だったんだって納得した。納得できたんだよ。今、芽依が俺のそばにいてくれるから」
「、、、」

ああ、そうか。
頭の中の嵐が止み、フッと静寂が訪れている。
鷹夜の言葉は芽依の頭によく響き、そして心に温かい何かを流し込んでくれた。

「芽依は俺の特別だよ。愛してる。他の色んな人にも愛されて、ちゃんと必要とされてる。それを分かってくれよ。自分を許して良いんだよ。何も悪いことしてないんだから胸を張って生きてりゃいいんだよ」

永遠続いていた不安が嘘のように、胸の中で薄れて消えていくのが分かる。
芽依はこのときハッキリと理解した。
雨宮鷹夜の強さは、佐渡ジェンの強さとは違うのだ。
いなくなったら終わってしまう、と言う感覚にはさせないのだ。

(俺を、守ってくれてたジェンと違う、、)

自分を守れる強さを与えてくれる。
雨宮鷹夜の強さは、芽依が芽依自身を信じ、自分自身を守ろうと肯定することを教えてくれる。

「格好悪い馬鹿なことたくさんして笑おうよ」

誰かがいなくなったら、と考えれば不安になるばかりだ。
親が死んだら。友達に嫌われたら。恋人と別れたら。
けれど不確定なものしかないのだから、せめて、信じ続けて強くなろう。
絆を強くしていこう。
重たい話が苦手であっても、向き合って話し合わない限りは終わらない不安や不満がある。
だったら誠心誠意、目の前にいる1番大切な人と、きちんと心を向かい合わせて、通わせていこう。

(多分、ジェンは俺に言えなかったんだ。それくらいには俺たちは遠くて、すれ違ってしまってたんだ)

芽依は鷹夜を見上げて目を細めた。
眉間に皺はなくて、穏やかな視線の彼を愛しそうに見つめた。
今目の前にいて、必死に自分と話してくれる彼を心の底からきちんと「愛そう」と誓った。

「俺とさ、2人で」
「、、うん。鷹夜くんと2人で、ずっとアホなことしてたい」
「ふはっ、いいね!」

ニッと笑い合うと、可愛らしく、ちゅ、と久しぶりに唇が重なった。

(ああ、この人みたいに、真っ直ぐこの人を愛したい)
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