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江戸の冬には
しおりを挟む「そいぢゃ、この冬、田舎へ行ったら芽ノ吉の赤ん坊が見られるわな」
「赤子の名はまだ決まってないのかい?」
「あたい、あかちゃん、みてみたいわな」
遅めの朝ご飯の茶の間では乳母のおタネの初孫の話題で持ちきりであった。
みな、おタネの長男の芽ノ吉とやらとは親しいらしい。
「へええ、桔梗屋の家族は冬には田舎へ行くんぢゃな?」
サギが納豆をネチャネチャと混ぜながら訊ねる。
「うん。おっ母さんとあたし等とおタネとおクキだけだわな。毎年、このあたりの商家では冬には田舎へ行くんだわな」
お花はケロッと当然のように答える。
「そうのすけあにさんはいかんわな」
お枝が言い足す。
五歳のお枝はまだ漢字を知らないので平仮名で分かりづらいが「草之介兄さんは行かんわな」と言ったのだ。
だいたいの江戸の裕福な大店では火事のとくに多い霜月から如月あたりまで妻子を田舎へ疎開させるのが習わしであった。
桔梗屋でも明和の大火で疎開した時に田舎に立派な別荘を建てており、普段はおタネの実家が別荘の管理を任されている。
「ほおお、そいぢゃ、毎年毎年、冬には年を跨いで田舎におるんぢゃな?」
サギは江戸の人々の万全を期す火事の備えに感心した。
「うん。どうせ冬にはカスティラを売らんし、店だって冬は暇なんだわな」
「へ?何で冬はカスティラを売らんのぢゃ?」
「だって、冬には鶏が卵を産まんもの。卵がなけりゃ桔梗屋のカスティラは作れんわな」
そう、昔の自然に飼われている鶏は寒い冬は卵を産まないのである。
「ほおお、産みたての卵ぢゃないとカスティラは美味うないんぢゃのう」
昔は卵の殻に油を塗っておがくずの中に埋めて長期保存する方法もあったそうだが、どうしたって新鮮じゃないので桔梗屋では使わなかった。
「けどなあ、今年は芽ノ吉の嫁のお核には赤ん坊がおるし、わたし等が別荘へ行って世話を掛けるのも気が引けるわなあ」
お葉は頬に手を当てて思案顔した。
「そのうえ今年は娘のお芯が嫁に行ってしまっておらんのだえ」
掃除、炊事、洗濯など、お葉もお花も何一つ出来やしない。
大店では家事をするのは下女中であり、奥様やお嬢様は言うに及ばず、乳母のおタネ、上女中のおクキも掃除、洗濯、炊事などはまったくしないのだ。
「おクキは錦庵を手伝っておるんだから家事だって出来るわな」
お花は気楽に言った。
今年もいつもの冬と変わらず、自分、おっ母さん、実之介、お枝、乳母のおタネ、上女中のおクキで田舎に疎開するものと信じて疑わなかった。
(ううん。今年はいつもと変わってサギも一緒に行くんだわな)
(年の暮れには村の若い衆が来て餅を搗いてくれて、搗きたての餅を食べるんだわな)
(田舎では正月に出稼ぎの若い衆が帰ってきて、村祭りで賑やかなんだえ、歌ったり踊ったり、サギも大喜びだわな)
お花は早くも正月がウキウキと待ち遠しく、そう独り決めしていた。
一方、
その頃、錦庵では、
「いぃ~?我蛇丸はまだ帰らんのか?」
貸本屋の文次がシカシカと楊枝を使って歯磨きしながら調理場を覗き込んでいた。
「おう、初めての茶屋遊びでお泊まりとはのう」
「あの我蛇丸が一人前になったものよのう」
ハトとシメは我蛇丸がいない分、店の仕込みに二人だけでドタバタと忙しい。
パーン!
パーン!
シメの力任せな蕎麦打ちで調理場に舞い上がる白い粉を「げほ、げほっ」と文次が咳き込みながら手拭いで扇ぐ。
「あぎゃあ、あぎゃあ」
奥の座敷から赤子の泣き声が聞こえてきた。
「おっ、いかん。雉丸が目を覚ました。文次、ちょいと雉丸の守りを頼む。おクキどんもまだ来とらんのぢゃ」
ハトがあたふたと雉丸を抱いてきて文次におぶらせる。
「何?おクキどんが来とらん?」
「ああ、いつもならとっくに手伝いに来ておる時分なんぢゃがのう」
にわかに文次もハトも怪しむような顔を見合わせた。
「はっ、まさかっ?」
いきなりシメが大声を上げるや、
「おクキどんは日本橋一帯に情報網を持っておる早耳ぢゃっ。もしや、夕べの我蛇丸の茶屋遊びを嗅ぎ付け、嫉妬に怒り心頭で手伝いに来ないつもりかも知れんっ」
まるで見当ハズレなことを言った。
「そうぢゃ。こないだ、おクキどんは上等な着物を着てきて、熊蜂姐さんからの頂き物ぢゃと言うておった。おクキどんのことぢゃ芳町にも情報網を張り巡らしておるんぢゃわ」
いまだにおクキが『金鳥』を盗んだとはシメは疑ってもみないのだ。
そこへ、
「はあ、はあ、遅うなってすまんっ」
朝帰りの我蛇丸が息せきって店へ駆け込んできた。
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