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乳母日傘
しおりを挟むあくる朝。
「ふあぁ、今朝は寝過ごしたわなあ」
お葉が寝惚けまなこで顔にうぐいすのフンをたっぷりと塗りたくっていると、
「あのう、叔母上様、昨夜はお客様がお越しでお伝えする間がなくて――」
武家娘の美根が縁側へやってきて、来月のたぬき会に父、根太郎と弟、根之介が将軍様の護衛として参加する旨をお葉に伝えた。
昨晩は先客の玄武一家が来ていたので根太郎父子も美根に言付けて帰ったのであった。
「おやまあ、そうかえ」
お葉にとってはどうでもいい根太郎父子が出世する絶好の機会を得たことなど目出度いとも思わず、鏡に向かったまま素っ気なく返事する。
そこへ、
「奥様っ」
乳母のおタネが縁側を急ぎ足でやってきた。
「今、卵を届けてきた郷里の者からの報せで、昨夜、わしの長男の芽ノ吉の嫁に男の子が産まれましたそうで――」
おタネは桔梗屋の初代の番頭の娘で、郷里は桔梗屋のカスティラに使う卵の養鶏農家をやっている。
「まあっ、それぢゃ、あの芽ノ吉が父親に?そりゃあ目出度いわなあ」
お葉はうぐいすのフンで灰色になった手を打って大喜びした。
「それで、うちは母もおととしに亡くなって、娘のお芯はこの春に嫁いでおりますし、うちには女手がござりませぬもので、わしが帰って嫁の世話をしてやりたいんですが――」
「それはすぐにでも帰ってやったほうがええわなあ。なにしろ初産だし、大事に休ませてやらんと産後の肥立ちが悪うなれば命に係わることもあろうしなあ」
こうして、乳母のおタネは十日ほど暇を貰って郷里へ帰ることになった。
「さあ、こうしちゃおれんわなあ」
お葉は大急ぎで顔をバシャバシャ洗い流すと長い廊下を仏間へと小走りした。
「くか~」
仏間の次の間には草之介が眠っている。
いつも起きるのは昼近くなので今もまだ布団の中で高イビキだ。
カチャ、
お葉が仏間の戸棚を開けると、
(――っ)
次の間の草之介はハッと目を覚ました。
(まさか千両箱を?)
シュバッ、
咄嗟に布団をすっぽ抜けて仏間へ滑り込む。
こういう時の草之介は尋常じゃなく俊敏だ。
「おっ母さん?何をしとるんだ?千両箱は年の暮れまでは決して開けてはならんと言ったはずだがっ?」
自分がこっそりと千両箱から五百両を持ち出し、本物の小判の下に偽の小判を入れて上げ底にしたのが母、お葉にバレては一大事なのでドギマギだ。
「ああ、今朝、おタネの長男の芽ノ吉に子が産まれたそうでなあ。今からおタネが郷里へ帰るので祝いを包んでやらんとなあ」
お葉が千両箱を戸棚から出そうとすると、草之介が素早く「ああ、わしが出すよ」と割り込んだ。
「あれ、すまんわなあ」
お葉は怪しむでもなく草之介が男らしく重たい千両箱を代わって出してくれたと思ったようだ。
「ほれ、一両でいいだろう?」
草之介が千両箱から一両小判を取り出してお葉に差し出す。
「まあ、おタネは乳母日傘でお前を大事に大事に育ててくれた乳母で、芽ノ吉はお前の乳兄弟だえ。芽ノ吉も十歳の年までは桔梗屋におって兄弟同然に一緒に育ったんだえ。その芽ノ吉の初めての子の祝いにたった一両ってことがあろうかえ。――まあ、ほんの十両もあればええわなあ」
お葉にとっては十両でも『ほんの』なのである。
「むうぅん」
草之介は渋い顔をして一両小判を一枚一枚、取り出し、十両をお葉に手渡した。
「そうそう、土産に桔梗屋の菓子も持たしてやらんとなあ」
お葉は紫色の袱紗に十両を包むとパタパタと忙しげに廊下を走っていく。
ほどなくして、
ガラガラ、
ガラガラ、
おタネは桔梗屋に卵を配達してきた郷里の者の荷馬車に乗って実家へと帰っていった。
その頃、
「がぁ~」
「くぅ~」
「ふがぁ~」
「すぴ~」
サギ、お花、実之介、お枝はまだ布団の中で眠りこけていた。
普段ならとっくに起きている時分だが、昨夜は丁半博打で興奮して寝付かれなかったせいで四人揃って朝寝坊しているのだ。
すでに茶の間には朝ご飯の膳が並んでいる。
「あれ、おクキ?まだ子供等を起こさんのかえ?おクキぃ?」
お葉は誰もいない茶の間へ入ってキョロキョロと辺りを見廻した。
「はて?そういえば、昨日からおクキの姿を見ておらんような?」
昨日は突然の玄武一家の来訪でみな浮かれまくって、女中のおクキがいないことに誰も気付かなかったのだ。
「ええ、おクキ様は夕べからお帰りにならないようで」
「昨日の朝、いつもどおり錦庵へお手伝いに行ったきり」
「きっと、昨夜も我蛇丸さんのとこへお泊まりになったのでは」
台所の下女中がそう言いながらニヤニヤ顔を見交わす。
「おやまあ、ほんに仕方ないわなあ」
お葉はやれやれと苦笑いした。
桔梗屋の人々は錦庵の我蛇丸とおクキが深間の仲だと思い込んでいるので、おクキが無断外泊しても気にするでもない。
だが、しかし、今日もおクキは桔梗屋へは帰ってこないであろう。
勿論、錦庵にもいるはずがなかった。
おクキは昨日の昼七つ(午後四時頃)に錦庵を後にすると、それっきり姿をくらましてしまったのだ。
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