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五里霧中
しおりを挟む「ああ、美味かった。よくぞ町人になりにけり。この美味い秋刀魚を味わえんとは武家というのは気の毒なものよ」
又吉は猫のように綺麗に秋刀魚を食べ終えると、自分で火鉢から鉄瓶を取って茶を注ぎ、食後の茶を満足げに啜った。
秋刀魚を食べるようになったのは江戸中期からだが、武家では秋刀魚の形が刀に似ているので験が悪いと食べないのだった。
「ふんっ、俺は帰るぜっ」
虎也はむしゃくしゃとして座敷を出ていった。
(まったく、どいつもこいつも気に食わねえっ)
結局、秋刀魚の晩ご飯に箸も付けず、むしゃくしゃと道端の石を蹴りながら日本橋の通りを速足で進んでいく。
丁子屋から自分の住まう長屋まではすぐ近くなのだが、むしゃくしゃとした勢いのまま足が止まらない。
カチョン、
カチョン、
「火の用心~」
折も折、桔梗屋の手代、銀次郎を先頭に小僧四人が日課の火の用心の夜廻りに出掛けていくところである。
「――」
その声にも姿にも気付くこともなく虎也は火の用心の夜廻りの一行と速足ですれ違った。
(竜胆の奴、将軍様暗殺計画の刺客なんぞ、正気か?)
(すぐに馬鹿なことはやめろと止めねえと)
気が急いて竜胆がいるという桔梗屋へ向かい掛けるが、
(いや、待てよ?)
ハタと足が止まった。
(ひょっとして竜胆の奴、俺への当て付けか?)
(俺に止めてもらおうと期待して?)
(さすがにいざとなれば猫のとらじろうより自分のほうが大事だろうと高を括っていやがるのか?)
そうに違いないと決め付ける。
(誰がその手に乗るか)
(おめおめと真に受けて止めになんぞ行ったら、奴の思う壺ぢゃねえか)
(生憎だが、猫のとらじろうのほうが大事だからな)
踵を返し、速足で進み出す。
カチョン、
カチョン、
「火の用心~」
先ほどすれ違ったばかりの桔梗屋の夜廻りの一行を追い越していく。
また気付くこともなく虎也は速足で進んでいった。
それにしても、どうも手元がいつもより軽い。
(――あ、いけねえ。竹竿っ)
虎也はいつも持ち歩いている竹竿を丁子屋の裏庭に立て掛けたまま忘れてきたことに気付き、慌てて引き返した。
「こちらの竹竿でしょうか?」
もう丁子屋は店仕舞いした後なので裏木戸から声を掛けると、奉公人の年若い娘が出てきて竹竿を渡してくれた。
黒襟掛けの紺地の縞の着物に赤い襷掛け、友禅柄の前掛けをし、素朴で可愛ゆらしい娘だが、虎也は自分こそ木石漢なので娘の容姿は気にも留めない。
「ん?新しい女中か?」
「いえ、子守りのお節と申します。もう八年も前からご奉公しております」
「ああ、子守りか」
虎也は丁子屋の奥のことなどは知らぬので子守り娘を見たのは初めてだった。
父、又吉は妻のお桂にもうじき八人目の子が産まれる子沢山なので古株の乳母の下に子守り娘ニ人を雇っていた。
その時、
「お忠、お節、旦那様がお呼びだえ」
台所の水口から女中が声を掛けて、子守り娘は虎也にペコリとして戻っていった。
(親父、子守り娘に何の用があって?)
忍びの習い性か、虎也は裏庭の植え込みに身を隠し、又吉のいる座敷の中を窺った。
ほどなくして、座敷に子守り娘二人がやってきた。
「旦那様、お呼びでしょうか?」
「ああ、虎也が一つも箸を付けずに帰ってしまったのでな。これ、お前達で食べてしまいなさい」
又吉はことさら優しい口調で言って秋刀魚の箱膳を指し示す。
「まあ、そんな、もったいない」
「旦那様と同じ晩ご飯をあたし等なんぞがいただけません」
子守り娘二人はまだまだ食べ盛りの十七歳と十九歳で涎を垂らさんばかりにしながらも思慮深くブンブンと首を振る。
「いいから、いいから。ほれ、お櫃にお代わりのご飯もたっぷり残っておる。すっかり平らげてしまって早く片付けとくれ」
又吉は遠慮する子守り娘二人に温厚な笑みを見せると気を利かせてさっさと座敷を出ていく。
旦那様の姿が長い廊下の奥へ消えると子守り娘二人はたちまち「わあっ」と歓声を上げて箱膳に飛び付いた。
「ホントにこちらの旦那様は仏様みたいだね」
「奥様だってお優しくて子守りのあたし等なんぞにもお子様方と同じオヤツを下さるよ」
「弟の仁助だって、こちらの旦那様の口利きで漢方医の羊庵先生のお弟子にしてもらえたんだから」
「あたし等姉妹弟の恩人だよ」
子守り娘二人とその弟は幼い頃に両親を流行り病で亡くしていた。
「あたし等のことは丁子屋で世話するから何も心配いらないって旦那様が約束して下すって」
「それで、お父っさんとおっ母さんは安堵して笑顔で息を引き取ったんだ」
姉妹は誰にともなく語るようにして秋刀魚の身をほぐしながら、くすんと鼻を啜った。
「丁子屋に置いてもらえなかったら路頭に迷ってたね」
「子守り奉公しながら手習い所にも通わせてもらって」
「仁助は今年の秋の席書会が最後だ」
「今度も仁助が一席に決まってるよ。手習い所に通わせてもらったご恩に報いるためにって熱心に稽古してるんだから」
日本橋でも指折りの佐内町の手習い所で毎年、春と秋に行われる席書会でいつも一席に選ばれる優秀な弟の仁助のことを思うと姉妹は誇らしさで胸がいっぱいになる。
(ふん、みんな親父の表の善人ヅラに騙されやがって)
虎也はいまいましげに子守り娘二人の会話を聞いていた。
薬種問屋、丁子屋の旦那、又吉は常日頃から病人のいる家で困り事があれば人助けに尽力し、日本橋では慈悲深い仏様のような旦那として崇め立てられているのだ。
虎也はやれやれと竹竿を肩に担いで丁子屋の裏木戸を出ていった。
(どうも親父は陰謀の悪事も人助けで帳消しになると思っている節があるんぢゃねえかな?)
また日本橋の通りへ出ると丁子屋を振り返って首を傾げる。
そう、古来から悪者に何故か天罰が下らないのは、人助けも同じだけ行っている場合が往々にしてあるからとしか思えないのだ。
そのまま自分の長屋へ帰ろうとしたが、
(待てよ?)
また足を止めた。
(俺が竜胆の奴にムカついて止めに行かねえとすると親父の思う壺なんぢゃねえか?)
(しかし、止めに行けば竜胆の思う壺だし)
虎也はまんまと思う壺に嵌まるのは恥辱だという自尊心から誰かの手の内には決して乗りたくないのだ。
ただ、日頃、考えることをしないだけにどうしたらいいのか分からない。
(ううむ――)
虎也は悶々として日本橋の通りを五里霧中に進んでいった。
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