富羅鳥城の陰謀

薔薇美

文字の大きさ
上 下
278 / 295

鳴かぬ蛍が身を焦がす

しおりを挟む
 

 あくる日。

 ゴロゴロ、

「くああぁ、暇ぢゃ、暇ぢゃああああ」

 ゴロゴロ、

 サギは一人で桔梗屋の広間を端から端まで転がっていた。

「だあれもわしと遊んでくれんのぢゃああああ」

 ゴロゴロ、

 いったいどのくらいこうして転がり続けていただろう。

 みなと丁半博打のサイコロを振って遊んだ日からもう何ヶ月も経ったような気がする。

 だが、実際はほんの昨日か一昨日おとといくらいのことだ。

 まさか夕べはサギを除け者にして、我蛇丸、ハト、シメだけが猫魔の一族と茶屋で会合していたとは知る由もなかった。


 お花は秋の七草の刺繍は仕上げたが、次は鳶の刺繍に奮闘中だし、

 実之介は来月の席書会のために手習い所で居残り稽古だし、

 お枝はお栗と裏庭で泥んこ遊びである。

 いくらサギでも泥饅頭を丸めるのには飽き飽きしてしまった。

 そこへ、

「毎度、貸本屋にござります」

 貸本屋の文次が裏木戸からやってきた。

「おっ?文次?また来たのか?」

 サギは文次の声を聞き付け、裏庭の縁側へパタパタと走り出た。

 あまりに暇だったのでうっかり文次を嬉しげに出迎えてしまった。

「おうよ、サギ。暇そうぢゃのう?」

 文次はからかうように言うとサギに用はないとばかりに下女中が仕立て物をしている奥の縁側のほうへ進んでいく。

「あれ、文次さん」

 下女中五人は大喜びして文次を出迎えた。

「今日は八十吉やそきちどんが読みたがってた平賀源内の『屁放論へっぴりろん』の続編が手に入ったので持って参りました」

 文次は小僧の八十吉に渡してくれるようにと『屁放論』の本を差し出す。

「あ、わし等、ちょいと手が離せないから、お桐さん、受け取っておくれよ」

 下女中五人はお互いに目配せすると、わざとらしく針を動かし始める。

「え、ええ」

 お桐は慌てて自分の針仕事の手を止めて、文次から『屁放論』の本を受け取った。

 新品の綺麗な本だ。

 実は文次は桔梗屋を訪れる前に版元へ寄って本と錦絵を仕入れてきたのだ。

「これ、春画だよ。ほれっ」

「おやまあっ」

 下女中五人は嬉々として春画を風呂敷から引っ張り出している。

 版元から風呂敷に包んだだけで持ってきたので文次が本を取り出した時に下女中はめざとく春画を見つけたのだ。

「まあ、見てごらんよ。この美人の乳ときたらっ」

「まるで釣り鐘だよっ」

「そんなの若いうちだけさね。四十も過ぎたら乳がヘソまで垂れちゃうんだからね」

「そうさね、ブランブランだよ」

 下女中五人はゲラゲラと笑って春画に描かれた美人の乳に言いたい放題だ。

 春画は河童と美女との絡みである。

「ああ、それは一番人気でよく売れるので刷られるたびに仕入れてるんでござりますよ」

 文次は仕入れた日のうちにあっという間に売り切れるのだと強調する。

「へええ」

「そう聞くと欲しいような気になるねえ」

「ほんにさ」

 春画に大はしゃぎの下女中五人とは裏腹にお桐は一人だけ身の置き場がないように黙っている。

「……」

 春画をチラとも見ずに仕立て物を縫い進める針先から目を離さない。

「お桐さんもちょいと見てごらんよ。面白いんだから」

「ほら、河童の化け物だよっ」

 下女中がビラッとお桐の目の前に春画を突き出した。

「あ、いやっ」

 お桐は春画を決して見まいとたもとで顔を覆って飛び退き、

「あ、あの、わ、わたし、そろそろ出掛けませんと――」

 針箱をせかせかと片付けて廊下へ走り出ていった。

「あれまあ」

「いくらなんでもカマトト過ぎやしないかい?」

「春画くらいで真っ赤になっちまってさ」

「そりゃ恋する乙女なんだよ。お桐さんは」

「からかっちゃ悪いよ」

 下女中五人は口々に言って意味ありげな目付きで文次の顔を見やる。

「……」

 文次は困ったように苦笑いして春画を厚紙の紙挟みに入れて木箱の中に仕舞った。


「ふぅん」

 サギは縁側で足をブラブラさせながら横目で様子を眺めていた。

 下女中がおせっかいにもお桐と文次をくっ付けようと目論んでいることは知っている。

 しかし、そう簡単には行くまいと思っていた。

 文次に片惚れらしいお桐には気の毒なことだが、文次は忍びの者なのだ。


 カラコロ。

 下駄の音に振り向くと、

 お桐が身支度を済ませて裏庭へ下りてきた。

 風呂敷包みを抱えている。

「お桐さん、どこぞへ行くんぢゃ?」

 サギは何の気なしに呼び止める。

「ええ、あの、弟の療養先の千住へ――」

 お桐はそわそわした調子で答えた。

「あっ、そうぢゃったのう」

 サギはケロッと忘れていたが、お桐は千住で療養している弟の樺平かばへいのところへ十日にいっぺんほど行って身の回りの世話をしてくるのだ。

 今日も千住に一晩、泊まって、帰ってくるのは明日になるのだろう。

「それぢゃ、行ってまいります」

 お桐は縁側の下女中に丁寧にお辞儀すると裏木戸を足早に出ていった。

「よっと」

 サギはお桐を見送るつもりで屋根の上へピョンピョンと飛び上がる。

 眼下の通りをお桐が何かに追われるかのように小走りしていく。

(――ん?渡し舟にゃ乗らんのか?)

 サギは左右をキョロキョロした。

 船着き場のある方向とお桐の行った方向が逆なのだ。

 お桐の姿は日本橋の通りを芳町へ向かって人混みに紛れてしまう。

 千住の弟の療養先へ行くはずのお桐が何故に色町の芳町のほうへ?

(むぅん)

 サギはせぬように首を傾げた。
しおりを挟む

処理中です...