272 / 312
薬種問屋の旦那
しおりを挟むあくる日。
「ご免なすって」
虎也は日本橋本町の薬種問屋を訪れた。
日本橋本町は日本一高い羊羮で有名な菓子司の鈴木越後もあるが薬種問屋の多く集まる町である。
「おや、虎也さん。どうぞ、奥へ。旦那様はお出掛けにござりますが、追っ付けお戻りになられましょう」
一番番頭が愛想良く出迎え、女中が虎也を奥の客間へ案内する。
この薬種問屋は日本橋本町で一番大きい丁子屋。
その丁子屋の旦那とは誰あろう虎也の父、又吉である。
又吉は十歳でこの丁子屋に小僧として奉公へ上がって、とんとん拍子に番頭まで出世し、十年前に丁子屋の娘婿になると、まもなく先代が亡くなったので首尾良く旦那の座に収まった。
又吉に芸妓のお虎との間に虎也という子がいることも丁子屋のみなが承知している。
前述のとおり商家の奉公人は十九歳で手代になると大人の遊興が許されるので芸妓との間に子がいても何ら不思議はないのだ。
(――むん、桂皮のニオイか)
冷え性に効く桂皮(シナモンのこと)の入った薬湯を沸かしているらしく芳ばしいニオイが漂ってくる。
虎也はクセの強いニオイにちょっと顔をしかめた。
晩には芳町の茶屋の恵比寿へ行くので移り香でここへ来たことを知られたくはない。
そこへ、
「虎也さ~ん、いらっしゃ~い」
明るい間延びした声が障子の向こうから響いた。
お茶を持ってきたのは丁子屋の娘で、又吉の女房のお桂だ。
「こないだ、来たんでしょ~?あたしに顔も見せずに帰っちゃって水臭いぢゃないの~」
まだ二十四歳という若さで虎也と五歳しか変わらない。
お桂はポンポンの大きな腹をしている。
「――あ、赤子が?」
虎也は(またか)という顔でお桂の大きな腹に目を留めた。
お桂が又吉と夫婦になったのは十四歳の時で産みも産んだりすでに七人の子供がいる。
この時代の庶民は十三歳から婚姻が出来るし、娘は初潮が始まれば嫁入りの資格を得たも同然なのだ。
「そう、八人目~。来月の初めにも産まれるんだけど~、なるたけ動かないとお産が重くなるから~」
お桂は女中ではなく自分でお茶を運んできた言い訳のような口振りだ。
(来月の初め?寄りによって、たぬき会のある時期に産まれるとは――)
虎也はますます父、又吉に将軍様の暗殺という無謀な計略などやめさせなくてはと意を強くした。
「お腹が目立ってきてから出掛けらんないでしょ~?退屈で堪んないの~」
お桂は大店の箱入り娘らしい甘えん坊な口調であるが、いかんせん、その器量はお多福であった。
へちゃむくれを絵に描いたようなお多福で身重ということを割り引いてもぼってりした鈍重な女だ。
「虎也さん、こないだの山算屋の火事で目を傷めなすったって~?」
「はあ――」
「あたしゃ火事場を窓から見ようとしてな~、おっ母さんにこっぴどく叱られたんだえ~」
「ほお――」
「身重の時に火事を見るといかんて言うけど何でだろ~?虎也さん、火消の纒持ちだし~、聞いたことないかえ~?」
「さあ――」
「火ぃ見たらいかんのなら釜戸で飯炊きもしたらいかんと思わんかえ~?」
「まあ――」
虎也は二文字だけの返事の使い分けでお桂のどうでもいいおしゃべりに付き合っていた。
器量自慢の鼻持ちならぬ性悪の猫魔の女と違ってお多福で屈託なく気立ての良いお桂でも、ことごとく女は苦手である。
だが、常日頃から気軽に丁子屋へ出入りする関係を保つことは、なにより大事だ。
虎也はつい先日も又吉の留守に訪れて、こっそりと眠り茸を頂戴したのだ。
眠り茸は毎年、秋になると間者のお縞が富羅鳥山から採ってきて又吉に渡していた。
ほどなくして、
「おお、虎也、いったいどうした風の吹き廻しだ?」
帰宅した又吉が客間へ入ってきた。
昨日、羽衣屋で虎也に将軍様の暗殺計略を聞かせたばかりだというのに久々に逢ったかのようにトボケた芝居をする。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり
もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。
海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。
無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。
連合航空艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年のロンドン海軍軍縮条約を機に海軍内では新時代の軍備についての議論が活発に行われるようになった。その中で生れたのが”航空艦隊主義”だった。この考えは当初、一部の中堅将校や青年将校が唱えていたものだが途中からいわゆる海軍左派である山本五十六や米内光政がこの考えを支持し始めて実現のためにの政治力を駆使し始めた。この航空艦隊主義と言うものは”重巡以上の大型艦を全て空母に改装する”というかなり極端なものだった。それでも1936年の条約失効を持って日本海軍は航空艦隊主義に傾注していくことになる。
デモ版と言っては何ですが、こんなものも書く予定があるんだなぁ程度に思ってい頂けると幸いです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
出撃!特殊戦略潜水艦隊
ノデミチ
歴史・時代
海の狩人、潜水艦。
大国アメリカと短期決戦を挑む為に、連合艦隊司令山本五十六の肝入りで創設された秘匿潜水艦。
戦略潜水戦艦 伊号第500型潜水艦〜2隻。
潜水空母 伊号第400型潜水艦〜4隻。
広大な太平洋を舞台に大暴れする連合艦隊の秘密兵器。
一度書いてみたかったIF戦記物。
この機会に挑戦してみます。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
架空戦記 旭日旗の元に
葉山宗次郎
歴史・時代
国力で遙かに勝るアメリカを相手にするべく日本は様々な手を打ってきた。各地で善戦してきたが、国力の差の前には敗退を重ねる。
そして決戦と挑んだマリアナ沖海戦に敗北。日本は終わりかと思われた。
だが、それでも起死回生のチャンスを、日本を存続させるために男達は奮闘する。
カクヨムでも投稿しています
日本には1942年当時世界最強の機動部隊があった!
明日ハレル
歴史・時代
第2次世界大戦に突入した日本帝国に生き残る道はあったのか?模索して行きたいと思います。
当時6隻の空母を集中使用した南雲機動部隊は航空機300余機を持つ世界最強の戦力でした。
ただ彼らにもレーダーを持たない、空母の直掩機との無線連絡が出来ない、ダメージコントロールが未熟である。制空権の確保という理論が判っていない、空母戦術への理解が無い等多くの問題があります。
空母が誕生して戦術的な物を求めても無理があるでしょう。ただどの様に強力な攻撃部隊を持っていても敵地上空での制空権が確保できなけれな、簡単に言えば攻撃隊を守れなけれな無駄だと言う事です。
空母部隊が対峙した場合敵側の直掩機を強力な戦闘機部隊を攻撃の前の送って一掃する手もあります。
日本のゼロ戦は優秀ですが、悪迄軽戦闘機であり大馬力のPー47やF4U等が出てくれば苦戦は免れません。
この為旧式ですが96式陸攻で使われた金星エンジンをチューンナップし、金星3型エンジン1350馬力に再生させこれを積んだ戦闘機、爆撃機、攻撃機、偵察機を陸海軍共通で戦う。
共通と言う所が大事で国力の小さい日本には試作機も絞って開発すべきで、陸海軍別々に開発する余裕は無いのです。
その他数多くの改良点はありますが、本文で少しづつ紹介して行きましょう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる