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生殺しの蛇は
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「――うぅっ」
松千代は裏庭へ走り出ると、井戸端によよよと泣き崩れた。
お座敷ではおちゃらかして剽軽に振る舞っていても器量のことを馬鹿にされて二十歳の女子が傷付かぬ訳がない。
熊蜂姐さん、蜂蜜、小梅と最上級の器量の上玉の中で、中の下くらいの器量の松千代はいつも心の内で引け目を感じていた。
そこへ、
「松千代ちゃん、熊蜂姐さんときたら、あんまりだねえ」
お縞がやってきた。
錦庵の裏長屋を出たお縞はさっさと蜜乃家の裏長屋へ引っ越してきていたのだ。
「あれっ、お縞姐さん、ひゃあ、みっともない」
柄にもなく泣いていたのがこっ恥ずかしく松千代はすぐにおどけてみせる。
「もお、無理しなくていいんだよ。いくら身内だって腹に据えかねることもあるよねえ。あたしにゃ、ようく分かるよ」
お縞は裏長屋の縁側に腰を下ろした。
「そりゃ、お縞姐さんは身内の富羅鳥を裏切って猫魔の間者してるくらいなんだから。何があったか知らんけどさ。よっぽど腹に据えかねることがあったんだろ?」
松千代はもう泣いてなどなかったかのように興味津々という顔でお縞の横へ座った。
「――何があったか、聞いてくれるかい?」
お縞は思わせ振りに松千代の顔を覗き込む。
「う、うんっ。勿論さ」
松千代は期待いっぱいに頷く。
「あたしゃね、我蛇丸の父親、富羅鳥の大膳の許婚だったんだよ――」
お縞は自分が間者になるに至った積年の恨み辛みを語り始めた。
それは、二十年前の秋のこと。
お縞は父母を早くに亡くし、蟒蛇の里を出て富羅鳥山の忍びの隠れ里でお鴇と大膳と同じ屋根の下で暮らしていた。
大膳とお縞は幼い頃から親同士が決めた許婚。
来春、大膳が二十歳、お縞が十五歳になれば晴れて祝言を上げるはずであった。
「ところが、あの泥棒猫のお玉が富羅鳥山で落とし穴に落っこちたのさ」
お縞の目は憎しみにギラリと光る。
「大膳は十九にもなって、てんで初でさ。お玉の足の怪我の手当てなんかしてやるうちに、お玉にコロッとたぶらかされちまったんだ。これは、あたしの妬みでそう思った訳ぢゃないよ」
ゴクリとお縞の喉が鳴る。
「あたしゃ、見ちまったのさ」
ある日の夕方、
お縞が表で落ち葉を掃いていると、お玉のいる小屋の窓の格子からヒュンッと何やら黒い影が飛び出し、地べたを疾風の如く走ってきた。
お縞も蟒蛇の忍びの娘、咄嗟に木の陰に隠れて竹箒を黒い影に伸ばした。
すると、
黒い影はそのまま竹箒をすり抜けて過ぎ去ったが、竹箒に何かが引っ掛かっていた。
竹箒の落ち葉を払って取って見ると、緋色の鹿の子絞りの猫の首輪だ。
カサカサした手触りに鹿の子の筒縫いの中に紙が入っていることに気付いて取り出してみると細長く折り畳んだ文であった。
お玉は大膳が猟に出ている隙にこっそりと忍びの猫を使って姉妹のお虎、お三毛と文のやり取りをしていたのだ。
富羅鳥の忍びの者はこの頃はまだ忍びの猫など噂に聞いていただけで実際には見たこともなく、お玉に付き添っていた黒い影にまったく気付いていなかった。
「文には足の怪我が治って山を下りられるようになるまで富羅鳥の頭領の大膳をたぶらかしておくから心配いらないって、まんまと自分に惚れてのぼせ上がってる色ボケのデレ助の頓痴気野郎だって書いてあったよ――」
お縞はその時の憤怒を思い返し、唇を震わせた。
「へえっ、まあ、あの熊蜂姐さんの娘なんだから驚きゃしないけど」
松千代はもしも猫魔の三姉妹の中でお玉だけが純情可憐な乙女であったら、そのほうが驚いたであろう。
「あたしゃ、腸が煮えくり返って、お玉のいる小屋へすっ飛んでいって、文を突き付けて、『これは何だいっ?』って怒鳴り付けたのさ」
すると、お玉は「ちっ」と舌打ちするや、お縞から文を引ったくって囲炉裏の火にくべて燃やしてしまった。
文を証拠隠滅したお玉はザマミロという顔でニヤリと笑った。
カッとなったお縞は「この、あばずれっ。ぶっ殺してやるっ」とまきざっぽうを掴んでお玉に振り下ろした。
お玉は「きゃあ、やめてえぇ」としおらしい悲鳴を上げながらも不敵にまきざっぽうを避けて、かすりもしない。
そこへ、大膳が悲鳴を聞き付けて小屋へ飛び込んできた。
ガツッ。
お玉はわざとお縞の振り下ろしたまきざっぽうに自分の頭を打たせた。
勿論、強く当たらぬように上手く身を躱し、かする程度に打たせたのだ。
お玉の額に痛々しく血が伝った。
大膳は激怒し、足の怪我で動けぬお玉に乱暴したとお縞の頬をピシリと平手打ちした。
お縞がいくら文のことを訴えても大膳はまるで信じなかった。
お玉は涙ながらに「やめて。お縞ちゃんがあたしを恨むのは当然のことなんだから。堪忍してあげて」とわざとらしくお縞を庇ってみせた。
お玉は大膳の前ではいかにも清純そうな心優しい娘のように振る舞っていたのだ。
「結局、その文は大膳とお玉の仲に嫉妬したあたしの作り話ということにされちまったのさ。何を言っても大膳はお玉だけを信じて、あたしの言うことなんざ信じちゃくれなかった――」
そのうちにお玉が赤子を身籠った。
お鴇も孫が出来たとたんに二人の仲をしぶしぶと許すことにした。
傷心のお縞は抜け殻のようになって蟒蛇の里へ帰されると、すぐに江戸の日本橋の芸妓屋に抱えられる話が決まって半玉として出ることになった。
「あたしの人生ぶち壊しさ。江戸へなんぞ来たくもなかったし、芸妓にもなりたくなかった。十四の娘ながらに富羅鳥山で大膳と穏やかな暮らしを夢見てたってのに――」
お縞は目に悔し涙を滲ませる。
「へえ、そりゃあ、大膳に恨みがあるのはもっともだよ」
松千代はお縞に同情もしたが、さすがに猫魔の三姉妹は男をたぶらかすのはお手のものと感心した。
「あの平手打ちの痛み、忘れるものか――」
お縞は二十年も前に打たれた頬をまだ痛むかのように手で押さえた。
「生殺しの蛇は人を噛むんだよ」
蟒蛇の女は蛇のように執念深いのだ。
松千代は裏庭へ走り出ると、井戸端によよよと泣き崩れた。
お座敷ではおちゃらかして剽軽に振る舞っていても器量のことを馬鹿にされて二十歳の女子が傷付かぬ訳がない。
熊蜂姐さん、蜂蜜、小梅と最上級の器量の上玉の中で、中の下くらいの器量の松千代はいつも心の内で引け目を感じていた。
そこへ、
「松千代ちゃん、熊蜂姐さんときたら、あんまりだねえ」
お縞がやってきた。
錦庵の裏長屋を出たお縞はさっさと蜜乃家の裏長屋へ引っ越してきていたのだ。
「あれっ、お縞姐さん、ひゃあ、みっともない」
柄にもなく泣いていたのがこっ恥ずかしく松千代はすぐにおどけてみせる。
「もお、無理しなくていいんだよ。いくら身内だって腹に据えかねることもあるよねえ。あたしにゃ、ようく分かるよ」
お縞は裏長屋の縁側に腰を下ろした。
「そりゃ、お縞姐さんは身内の富羅鳥を裏切って猫魔の間者してるくらいなんだから。何があったか知らんけどさ。よっぽど腹に据えかねることがあったんだろ?」
松千代はもう泣いてなどなかったかのように興味津々という顔でお縞の横へ座った。
「――何があったか、聞いてくれるかい?」
お縞は思わせ振りに松千代の顔を覗き込む。
「う、うんっ。勿論さ」
松千代は期待いっぱいに頷く。
「あたしゃね、我蛇丸の父親、富羅鳥の大膳の許婚だったんだよ――」
お縞は自分が間者になるに至った積年の恨み辛みを語り始めた。
それは、二十年前の秋のこと。
お縞は父母を早くに亡くし、蟒蛇の里を出て富羅鳥山の忍びの隠れ里でお鴇と大膳と同じ屋根の下で暮らしていた。
大膳とお縞は幼い頃から親同士が決めた許婚。
来春、大膳が二十歳、お縞が十五歳になれば晴れて祝言を上げるはずであった。
「ところが、あの泥棒猫のお玉が富羅鳥山で落とし穴に落っこちたのさ」
お縞の目は憎しみにギラリと光る。
「大膳は十九にもなって、てんで初でさ。お玉の足の怪我の手当てなんかしてやるうちに、お玉にコロッとたぶらかされちまったんだ。これは、あたしの妬みでそう思った訳ぢゃないよ」
ゴクリとお縞の喉が鳴る。
「あたしゃ、見ちまったのさ」
ある日の夕方、
お縞が表で落ち葉を掃いていると、お玉のいる小屋の窓の格子からヒュンッと何やら黒い影が飛び出し、地べたを疾風の如く走ってきた。
お縞も蟒蛇の忍びの娘、咄嗟に木の陰に隠れて竹箒を黒い影に伸ばした。
すると、
黒い影はそのまま竹箒をすり抜けて過ぎ去ったが、竹箒に何かが引っ掛かっていた。
竹箒の落ち葉を払って取って見ると、緋色の鹿の子絞りの猫の首輪だ。
カサカサした手触りに鹿の子の筒縫いの中に紙が入っていることに気付いて取り出してみると細長く折り畳んだ文であった。
お玉は大膳が猟に出ている隙にこっそりと忍びの猫を使って姉妹のお虎、お三毛と文のやり取りをしていたのだ。
富羅鳥の忍びの者はこの頃はまだ忍びの猫など噂に聞いていただけで実際には見たこともなく、お玉に付き添っていた黒い影にまったく気付いていなかった。
「文には足の怪我が治って山を下りられるようになるまで富羅鳥の頭領の大膳をたぶらかしておくから心配いらないって、まんまと自分に惚れてのぼせ上がってる色ボケのデレ助の頓痴気野郎だって書いてあったよ――」
お縞はその時の憤怒を思い返し、唇を震わせた。
「へえっ、まあ、あの熊蜂姐さんの娘なんだから驚きゃしないけど」
松千代はもしも猫魔の三姉妹の中でお玉だけが純情可憐な乙女であったら、そのほうが驚いたであろう。
「あたしゃ、腸が煮えくり返って、お玉のいる小屋へすっ飛んでいって、文を突き付けて、『これは何だいっ?』って怒鳴り付けたのさ」
すると、お玉は「ちっ」と舌打ちするや、お縞から文を引ったくって囲炉裏の火にくべて燃やしてしまった。
文を証拠隠滅したお玉はザマミロという顔でニヤリと笑った。
カッとなったお縞は「この、あばずれっ。ぶっ殺してやるっ」とまきざっぽうを掴んでお玉に振り下ろした。
お玉は「きゃあ、やめてえぇ」としおらしい悲鳴を上げながらも不敵にまきざっぽうを避けて、かすりもしない。
そこへ、大膳が悲鳴を聞き付けて小屋へ飛び込んできた。
ガツッ。
お玉はわざとお縞の振り下ろしたまきざっぽうに自分の頭を打たせた。
勿論、強く当たらぬように上手く身を躱し、かする程度に打たせたのだ。
お玉の額に痛々しく血が伝った。
大膳は激怒し、足の怪我で動けぬお玉に乱暴したとお縞の頬をピシリと平手打ちした。
お縞がいくら文のことを訴えても大膳はまるで信じなかった。
お玉は涙ながらに「やめて。お縞ちゃんがあたしを恨むのは当然のことなんだから。堪忍してあげて」とわざとらしくお縞を庇ってみせた。
お玉は大膳の前ではいかにも清純そうな心優しい娘のように振る舞っていたのだ。
「結局、その文は大膳とお玉の仲に嫉妬したあたしの作り話ということにされちまったのさ。何を言っても大膳はお玉だけを信じて、あたしの言うことなんざ信じちゃくれなかった――」
そのうちにお玉が赤子を身籠った。
お鴇も孫が出来たとたんに二人の仲をしぶしぶと許すことにした。
傷心のお縞は抜け殻のようになって蟒蛇の里へ帰されると、すぐに江戸の日本橋の芸妓屋に抱えられる話が決まって半玉として出ることになった。
「あたしの人生ぶち壊しさ。江戸へなんぞ来たくもなかったし、芸妓にもなりたくなかった。十四の娘ながらに富羅鳥山で大膳と穏やかな暮らしを夢見てたってのに――」
お縞は目に悔し涙を滲ませる。
「へえ、そりゃあ、大膳に恨みがあるのはもっともだよ」
松千代はお縞に同情もしたが、さすがに猫魔の三姉妹は男をたぶらかすのはお手のものと感心した。
「あの平手打ちの痛み、忘れるものか――」
お縞は二十年も前に打たれた頬をまだ痛むかのように手で押さえた。
「生殺しの蛇は人を噛むんだよ」
蟒蛇の女は蛇のように執念深いのだ。
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