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行雲流水の如く
しおりを挟むその頃、
日本橋左内町の手習い所では、
「まあ、ほんに桔梗屋さんは良い方を紹介して下さりましたなあ」
カミナリ師匠の妻、佐保師匠が喜色満面であった。
四十八人もいる女子の手習い子を一人で教えていた佐保はもう年齢も六十歳近くで、さすがにヘトヘトに疲れ気味なので武家娘二人が師匠見習いに来ることになり、やっと楽が出来ると手放しで喜んだ。
「なによりお城の奥女中を勤めた武家娘だ。ますます手習い所に箔が付くのう」
カミナリ師匠は武家娘二人は容姿端麗ではないが、それがかえって手習い師匠として最適だと思った。
教養もないのに美しいというだけでお城の奥女中になった者など幾らでもいる。
それゆえに不器量こそが教養高い真の実力者であることの証となるのだ。
来月の秋の席書会は武家娘二人を師匠見習いとして参観の父兄にお披露目する絶好の機会だ。
「来春の初午には女子の入門志望者がどっと押し寄せるに違いなかろうて」
「ほんに、ほんに」
カミナリ師匠と佐保師匠はご満悦であった。
しかし、一方では、
(――はああ、お城の奥女中かあ――)
師匠見習いの犬山芯平は新しい師匠見習いがお城の奥女中を勤めたほどの才媛と聞いてドンヨリと憂鬱であった。
男子と女子の手習い子で稽古場が別々なのは芯平にとってはまだ不幸中の幸いだ。
なるべく武家娘とは顔を合わせたくない。
父も兄も幕府の役職に付いたことのない貧乏御家人の次男で部屋住みの芯平からしたらお城の奥女中など雲の上の存在である。
(きっと気位の高い鼻持ちならぬ高飛車な娘で、わしなど虫けら同然に眉をひそめられるに決まっておるのだ)
芯平は武家娘二人に侮蔑の眼差しで見下される惨めさを想像して今から半泣きになる。
いつでもイジイジと辛気臭い男であった。
そうこうして、
美根と久良は手習い所で昼八つ(午後二時頃)まで女子の稽古場で行儀作法を教えると、実之介とお枝と迎えの乳母のおタネと一緒に桔梗屋へ戻ってきた。
二人は思慮分別があるので師匠見習いの雀の涙ほどの手当てもすべてお葉に渡すという。
そればかりでなく帰るとすぐさま下女中を手伝いに台所へ行った。
二人は武家娘とはいえ、お城の御膳所の勤めで台所仕事は手慣れたものであった。
「――あの、それは焼き鮭にござりまするか?」
美根と久良は鼠入らずの中にある焼き鮭を見るや、訝しげな顔をした。
「ああ、ミノ坊様の昼のお弁当に入れた残りのだよ。奥様が猫にやるとお言いなので取っておいたのさ」
下女中はせっせとカスティラの耳を短冊切りにしている。
「まあ――」
武家娘二人は猫に焼き鮭をやると聞いて、まさかと顔を見合わせた。
鮭などは滅多に食べられぬご馳走だと二人は思っているのだ。
それだけでなく、
「――あの、鮭の解禁は長月からにござりましょう?」
美根は生真面目な顔をして問うたが、
「あれ?そうなのかい?」
「へええ、長月ってことは来月から?」
「桔梗屋にはもうずいぶんと前から鮭は出入りの魚屋が持ってきてたけどねえ」
「鮭に解禁なんぞあるのかい?」
「何だい?カイキンって?」
下女中五人はまるで気にする様子がない。
江戸っ子は初鰹に限らず、なんでも初物を好んで先を争って食べたがるために早め早めに売り出すほど高値が付くので幕府はいちいち解禁する時期を決めているのだ。
しかし、いちいち守っている訳もない。
金さえ出せば規律などあってないようなものなのは商家も武家も同じである。
「ほれ、ちょいと味見してごらん」
下女中は火鉢の焼き網から菜箸でカスティラの耳を取ると気さくに武家娘二人の口にポイポイと放り込んだ。
今日のオヤツはカスティラの耳を砂糖醤油に浸してベタベタに甘辛くして焼いたものだ。
「熱っ、ハフハフ、まあ、美味しいっ」
「ハフハフ、ええ、美味しいっ」
武家娘二人は熱々を頬張って、あまりの美味しさに大きな目をさらに大きく見開いた。
昼の太巻き寿司の美味しさにも驚いた二人であったが、これが毎日のオヤツだとは。
「ああ、おしたじ(醤油)の焦げた芳ばしい香りは熱々の焼き立てならでは――」
「外はこんがりと焼き目でカリッとして中はふんわりモチモチ――」
武家娘二人は恍惚として具体的に感想を述べる。
そもそも二人は台所で焼き立ての熱々をハフハフしながら食べることなど初めてなのだ。
「晩ご飯は軍鶏鍋のご馳走だよ」
下女中は裏庭の物干し竿に逆さに吊るされた軍鶏を指差した。
もう軍鶏は首を落とし、血抜きされている。
盗人騒ぎのドタバタですっかりお預けとなっていた軍鶏だが、ようやく今晩、鍋となるのだ。
「まあ、軍鶏鍋――」
二人共、軍鶏など食べたこともない。
武家娘二人は物干し竿にズラリと盛観に並んだ軍鶏を眺めた。
物干し竿の下では数匹の白猫が軍鶏を目掛けて届きもしないのに飛び跳ねている。
鮭を食べ慣れた猫でも軍鶏はご馳走のようだ。
美根と久良は台所だけでも桔梗屋の贅沢さに唖然とするばかりであった。
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