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袋の鼠
しおりを挟む(むぅん、わしゃ、いったい、いつまで天袋におるんぢゃろ?)
サギはほとほと待ちくたびれていた。
錦庵に来てから小半時(約三十分)も経たぬはずだが、もう何ヶ月も天袋で過ごしていたような気がする。
裏庭ではお縞とおクキが睨み合いを続けていたが、
「あっ、そうそ、あたしゃ夏物を片付けた時に蚊帳がほつれてたんで繕っておこうと思ったんだった」
お縞がわざとらしくペチンと手を打ち、おクキの前をツンと顎を反らして横切って、堂々と錦庵の座敷へ上がり込んだ。
「……」
おクキは憎々しげに何か言わんとして口を開き掛けたが、
そこへ、
「おクキどぉん?しっぽく蕎麦三人前、上がったえ」
調理場からシメの大声が聞こえた。
店が混んでいる時にここでお縞とやり合っている暇はない。
「へ、へえい」
おクキは座敷にいるお縞を気にしながらもしぶしぶと店へ戻っていった。
(むう、外の様子が見えんのう)
サギはたっつけ袴の腰板に携帯している竹串を引き抜いて天袋の襖に穴を空けた。
ブスッ。
天袋の襖に小さな光が射し込む。
サギは穴から座敷を覗き見た。
「まったく、針仕事なんざしたことないってのに」
お縞はブツクサと言いながら針箱を開いたが、針に糸を通すのもおぼつかぬ手付きである。
「ん~?あれ、通りゃしない。ん~?」
繕い物を済ませるまで待っていたら日が暮れそうだ。
(むむぅ、早よう出ていってくれんかのう)
サギはジレジレとお縞を睨み付ける。
「ええい、糸が通りゃしないっ」
お縞はついに針と糸を放り出した。
(なんぢゃ?お縞は糸を舐めて先を尖らして針に通すことも知らんのか?)
サギは穴から覗きながら首を捻る。
すると、
「――サギ?そこに隠れてるのは分かってんだよ」
お縞が天袋へは目も向けずにサラッと言った。
(み、見られてたっ?)
サギは天袋の中であたふたとする。
バレたとなれば逃げの一手しかあるまいが、いかんせん、天袋の中では袋の鼠である。
「ふふん、あたしを誰だと思ってるんだい?」
お縞は見くびって貰っちゃ困ると言いたいのであろうが、
「えっ?誰なんぢゃ?」
サギは思わず天袋の中から訊き返した。
「蟒蛇の一族の頭領の孫娘さ。知ってんだろうが?」
「そりゃ知っとるんぢゃが」
「サギ、熊蜂姐さんから何を聞いたか知らんけどさ、他人の言うことを鵜呑みにしちゃ駄目だよ」
「それぢゃ、熊蜂姐さんがわしに嘘を言うたのか?」
「いや、嘘は言わないだろうさ。熊蜂姐さんは思ったとおりのことを言っただろうね」
「むむぅ?」
サギはお縞が何を言いたいのかさっぱり分からない。
間者ではないと否定しないのはどういう訳なのか。
お縞と話らしい話をしたのは今が初めてだが蟒蛇の一族だけあってスルスルと掴みどころのない女だ。
ギイ、
裏木戸の開く音がした。
(兄様ぢゃ。なんちゅう早足ぢゃっ)
早くも我蛇丸が八丁堀の出前から戻ってきたのだ。
「おう、我蛇丸。店が混んどって左内町の出前の蕎麦はまだ出来んのぢゃ」
シメが我蛇丸に告げる。
「ああ、そうか」
我蛇丸が裏庭から座敷のお縞を見やった。
「――うん?このニオイは?」
やにわに鼻をヒコヒコさせる。
我蛇丸の嗅覚も並みではない。
「甘ったるい菓子のニオイぢゃのう?」
訝しげに座敷を見廻した。
(むむぅ)
サギは自分の筒袖を嗅いでみる。
桔梗屋で菓子が焼ける時に漂う甘いニオイが全身に染み付いているようだ。
「ああ、さっき、そこにおクキさんがいたからね」
お縞はとぼけて糸巻きにクルクルと糸を巻き付けている。
「いや、これはヘチマの化粧水の混じったおクキどんのニオイとは違うのう。土埃が混じったような――」
我蛇丸はチラッと天袋を横目で見た。
「まあ、ええ。それより、ちょうど良かった。お縞、茶屋へ行く着物を見立ててくれんか?」
我蛇丸は押し入れから行李を引っ張り出した。
「へええ、茶屋といってもピンキリだからねえ」
「丸正屋の若旦那に聞いた芳町の恵比寿という茶屋なんぢゃが」
我蛇丸はお縞に茶屋の名までペラペラと教えた。
「おや、恵比寿?あすこはなかなか上等だよ」
「ほお、お縞は芸妓を退いたのは十三年前ぢゃのに、よう知っとるのう」
「あれ、イヤだね。不粋なことを。今だって逢い引きで茶屋くらい行くさ。あの店は忍び逢いにお誂え向きの奥ゆかしげな茶屋だからね」
お縞は色っぽい仕草で後れ毛を直しつつ、流し目で我蛇丸を見る。
女に興味のない我蛇丸は無反応だ。
「ほお」
我蛇丸は上等で奥ゆかしげな茶屋なら児雷也と逢うのに相応しいと安堵した。
(何でこんな時に着物なんぞ選び始めるんぢゃ?)
サギは穴から座敷の様子を見てイライラした。
「秋物のよそゆきぢゃと、この三枚なんぢゃが――」
我蛇丸は着物を取り出して見せる。
「へええ、いつも蕎麦屋の半纏しか見たことなかったけど結構な着物を持ってるんぢゃないか」
お縞は感心して我蛇丸のよそゆきの着物を広げた。
富羅鳥山にいるお鶴の方は得意の針仕事でせっせとみなの着物を仕立てては、盆暮れに帰郷する我蛇丸に持たせていたのだ。
「これ、どうかのう?」
「うん、良いぢゃないか。ますます男っぷりが上がるねえ」
「そ、そうか?」
我蛇丸はいそいそと身体に着物を羽織って、まるで道楽息子の草之介が茶屋遊びの支度をする時と変わらぬ浮かれようだ。
(あ、兄様は何をあんなにウキウキしとるんぢゃ?)
サギは我蛇丸のあんな浮かれた姿を見るのは初めてではないかと思った。
「我蛇丸ぅ、左内町の出前の蕎麦、上がったえ」
調理場からシメの呼ぶ声がする。
「お、いかん」
我蛇丸は慌てて立ち上がると、
「サギ?そんなところで寝そべっとる暇があるんなら調理場で洗い物くらい手伝え」
そう言い捨てて縁側から裏庭へ下りていった。
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