221 / 325
鵜の目鷹の目
しおりを挟む昼九つ半。(午後一時頃)
この時の錦庵はまだ普段と変わらぬ客入りであった。
「よっ、いつものくんな」
常連客の丸正屋の熊五郎がやってきて、小上がりの座敷にドスンと胡座を掻いた。
熊五郎の注文は年がら年中、季節を問わず、冷や酒、卵焼き、盛り蕎麦三十枚である。
「へえい」
我蛇丸とハトは忙しく蕎麦を茹で、シメはせいろを並べる。
熊五郎は『蕎麦っ食いは身の丈』で蕎麦のせいろを重ねた高さが自分の背丈と同じが適量という江戸っ子のこだわりがあるので三十枚いっぺんに出さねばならない。
ちなみに江戸時代の大食い大会での蕎麦の部の優勝者は五十四枚なので、三十枚の熊五郎などはまだまだである。
ほどなくして、
「お待たせ致しぁした」
卵焼きをつまみに冷や酒をチビチビやりながら蕎麦を待っていた熊五郎の前にドドンと蕎麦三十枚が二列に置かれた。
「あの、丸正屋の若旦那、ちょいと折り入ってお訊ねしたいことがござりまして――」
我蛇丸が珍しく熊五郎に話し掛ける。
「おっ、なんでい?あっしと我蛇丸さんの間で水臭えやな。熊さんと呼んでくんなといっつも言ってんぢゃねえかい」
熊五郎は気さくに我蛇丸に横へ座るように手招きした。
「はあ」
我蛇丸はペコリと一礼して小上がりに腰を掛ける。
熊五郎とそれほど親しくしているつもりはないが、愛嬌のある熊五郎は誰にでもそんなことを言うのであろう。
「実は――」
我蛇丸は日本橋中の茶屋を知り尽くしている熊五郎に大事なお方と二人で逢うのにどこか静かで落ち着いて話せる茶屋はないかと訊ねた。
児雷也に逢ってじっくりと腰を据えて富羅鳥城の陰謀について打ち明けねばと思ったのだ。
「なるべく出入りの際に人目に付かぬ茶屋が良いのでござりますが――」
人気の花形芸人である児雷也を気遣っての要望である。
「へええ、そりゃ人目を忍んでの逢い引きってぇことかい?つまり、忍び逢いかい?へへえ、我蛇丸さんも隅におけねえな。ひゃうひゃう」
熊五郎は忍び逢いと決め付けて、肘鉄砲で我蛇丸の脇をグイグイと突いて冷やかす。
「い、いや、滅相もない。決して忍び逢いなどぢゃなく――」
我蛇丸は我知らず赤面して首をブンブンと振る。
「まあまあ、そう照れなさんな。ふ~ん、そしたら、芳町でちょいと路地へ入った目立たねえ茶屋があっからよ。そこにすっといいやな」
熊五郎は毎晩のように芳町で遊んでいるので日時さえ決まったら自分がついでに座敷を取っておいてやるとまで言ってくれた。
「それはご親切に忝のうござります」
なにはともあれ児雷也と逢う茶屋が決まってホッとして我蛇丸が調理場へ戻ると、
「お頼う申しぁすぅ。桔梗屋にござりぁす」
桔梗屋の小僧の千吉が出前を頼みにやってきた。
「おや、千吉どん、出前はいつもどおりかえ?」
シメが前掛けで手を拭き拭き訊ねる。
「いえ、ええと、今日の出前は、八丁堀の旦那へ蕎麦五十枚と、それから左内町の手習い所に蕎麦三十枚、桔梗屋からご挨拶代わりにと届けて欲しいとの奥様の言付けにござりぁす」
千吉は間違えぬよう慎重な面持ちで奥様のお葉から言付かったとおりに注文した。
お葉はなるべく我蛇丸が外へ出ているように出前を立て続けに二度も行かせようと画策したのだ。
わざわざ出前先を遠くにしたのもシメでなく我蛇丸に行かせねばならぬからである。
「左内町と八丁堀ならば同じ方向ぢゃし、いっぺんに持っていくか。ハト、せいろ足りるか?」
我蛇丸は蕎麦八十枚くらいは容易に持てるので一度で出前を済ませるつもりだ。
「ひい、ふう、あいや、足らんのう」
ハトはチラッと熊五郎の前の蕎麦三十枚を見やる。
さっさと十五枚も平らげてくれたら足りるのだが、熊五郎は蕎麦そっちのけで小僧の千吉とおしゃべりに熱中している。
ちょうど折良く千吉がやって来たので熊五郎は昨日の桔梗屋での捕り物について根掘り葉掘り訊ねていた。
町方同心と小物がわらわらと桔梗屋へ入っていったので何事かと近所では噂になっていたらしい。
「なんでえ、なんでえ、そいぢゃ、まんまと盗人にゃ逃げられちまったってのかい。町方もだらしがねえ。そんな騒ぎがあったんで草さんは夕べはいつもの宝来屋へ姿を見せなかったんだな」
「へえ、それに若旦那様は風邪をこじらせたそうで、当分は店へも出られぬそうにござりぁす」
今朝、お葉はみなには草之介の身体の具合が悪いと言って誤魔化していたのだ。
「ほお、桔梗屋の若旦那は風邪にござりますか?ここんとこ朝晩はめっきり秋めいて参りましたからねえ」
ハトが調理場から口を挟む。
「あっしゃ、まだまだ暑いくれえだけどもな。まあ、ヒョロヒョロの優男の草さんにゃ秋風は毒かもしれねえ。しっかし、草さんが茶屋遊びにも来られねえとあっちゃ――」
熊五郎はゲンナリと嘆息した。
草之介が来なければ芸妓の蜂蜜のご機嫌がすこぶる悪いに決まっているのだ。
一方、
サギは桔梗屋から屋根伝いに浮世小路まで来ると、近くの料理屋の屋根に隠れて錦庵の戸口を窺っていた。
今しがた小僧の千吉が桔梗屋へ戻っていったので、もうじき我蛇丸が出前へ出る頃合いであろう。
(――お、出てきたっ)
サギは屋根に腹這いのまま身を固くした。
動くと気配を悟られてしまうので、微動だにせずが鉄則だ。
なにしろ相手は後ろ頭にも目が付いているかと思うような我蛇丸なのだ。
我蛇丸が蕎麦五十枚の角盆を肩に担いで浮世小路を足早に抜けていく。
(五十枚ということは八丁堀の出前ぢゃな)
いくら早足の我蛇丸でも八丁堀まで行って帰ってくるには小半時(約三十分)は掛かるはずだ。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
よあけまえのキミへ
三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。
落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。
広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。
京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる