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鵜の目鷹の目
しおりを挟む昼九つ半。(午後一時頃)
この時の錦庵はまだ普段と変わらぬ客入りであった。
「よっ、いつものくんな」
常連客の丸正屋の熊五郎がやってきて、小上がりの座敷にドスンと胡座を掻いた。
熊五郎の注文は年がら年中、季節を問わず、冷や酒、卵焼き、盛り蕎麦三十枚である。
「へえい」
我蛇丸とハトは忙しく蕎麦を茹で、シメはせいろを並べる。
熊五郎は『蕎麦っ食いは身の丈』で蕎麦のせいろを重ねた高さが自分の背丈と同じが適量という江戸っ子のこだわりがあるので三十枚いっぺんに出さねばならない。
ちなみに江戸時代の大食い大会での蕎麦の部の優勝者は五十四枚なので、三十枚の熊五郎などはまだまだである。
ほどなくして、
「お待たせ致しぁした」
卵焼きをつまみに冷や酒をチビチビやりながら蕎麦を待っていた熊五郎の前にドドンと蕎麦三十枚が二列に置かれた。
「あの、丸正屋の若旦那、ちょいと折り入ってお訊ねしたいことがござりまして――」
我蛇丸が珍しく熊五郎に話し掛ける。
「おっ、なんでい?あっしと我蛇丸さんの間で水臭えやな。熊さんと呼んでくんなといっつも言ってんぢゃねえかい」
熊五郎は気さくに我蛇丸に横へ座るように手招きした。
「はあ」
我蛇丸はペコリと一礼して小上がりに腰を掛ける。
熊五郎とそれほど親しくしているつもりはないが、愛嬌のある熊五郎は誰にでもそんなことを言うのであろう。
「実は――」
我蛇丸は日本橋中の茶屋を知り尽くしている熊五郎に大事なお方と二人で逢うのにどこか静かで落ち着いて話せる茶屋はないかと訊ねた。
児雷也に逢ってじっくりと腰を据えて富羅鳥城の陰謀について打ち明けねばと思ったのだ。
「なるべく出入りの際に人目に付かぬ茶屋が良いのでござりますが――」
人気の花形芸人である児雷也を気遣っての要望である。
「へええ、そりゃ人目を忍んでの逢い引きってぇことかい?つまり、忍び逢いかい?へへえ、我蛇丸さんも隅におけねえな。ひゃうひゃう」
熊五郎は忍び逢いと決め付けて、肘鉄砲で我蛇丸の脇をグイグイと突いて冷やかす。
「い、いや、滅相もない。決して忍び逢いなどぢゃなく――」
我蛇丸は我知らず赤面して首をブンブンと振る。
「まあまあ、そう照れなさんな。ふ~ん、そしたら、芳町でちょいと路地へ入った目立たねえ茶屋があっからよ。そこにすっといいやな」
熊五郎は毎晩のように芳町で遊んでいるので日時さえ決まったら自分がついでに座敷を取っておいてやるとまで言ってくれた。
「それはご親切に忝のうござります」
なにはともあれ児雷也と逢う茶屋が決まってホッとして我蛇丸が調理場へ戻ると、
「お頼う申しぁすぅ。桔梗屋にござりぁす」
桔梗屋の小僧の千吉が出前を頼みにやってきた。
「おや、千吉どん、出前はいつもどおりかえ?」
シメが前掛けで手を拭き拭き訊ねる。
「いえ、ええと、今日の出前は、八丁堀の旦那へ蕎麦五十枚と、それから左内町の手習い所に蕎麦三十枚、桔梗屋からご挨拶代わりにと届けて欲しいとの奥様の言付けにござりぁす」
千吉は間違えぬよう慎重な面持ちで奥様のお葉から言付かったとおりに注文した。
お葉はなるべく我蛇丸が外へ出ているように出前を立て続けに二度も行かせようと画策したのだ。
わざわざ出前先を遠くにしたのもシメでなく我蛇丸に行かせねばならぬからである。
「左内町と八丁堀ならば同じ方向ぢゃし、いっぺんに持っていくか。ハト、せいろ足りるか?」
我蛇丸は蕎麦八十枚くらいは容易に持てるので一度で出前を済ませるつもりだ。
「ひい、ふう、あいや、足らんのう」
ハトはチラッと熊五郎の前の蕎麦三十枚を見やる。
さっさと十五枚も平らげてくれたら足りるのだが、熊五郎は蕎麦そっちのけで小僧の千吉とおしゃべりに熱中している。
ちょうど折良く千吉がやって来たので熊五郎は昨日の桔梗屋での捕り物について根掘り葉掘り訊ねていた。
町方同心と小物がわらわらと桔梗屋へ入っていったので何事かと近所では噂になっていたらしい。
「なんでえ、なんでえ、そいぢゃ、まんまと盗人にゃ逃げられちまったってのかい。町方もだらしがねえ。そんな騒ぎがあったんで草さんは夕べはいつもの宝来屋へ姿を見せなかったんだな」
「へえ、それに若旦那様は風邪をこじらせたそうで、当分は店へも出られぬそうにござりぁす」
今朝、お葉はみなには草之介の身体の具合が悪いと言って誤魔化していたのだ。
「ほお、桔梗屋の若旦那は風邪にござりますか?ここんとこ朝晩はめっきり秋めいて参りましたからねえ」
ハトが調理場から口を挟む。
「あっしゃ、まだまだ暑いくれえだけどもな。まあ、ヒョロヒョロの優男の草さんにゃ秋風は毒かもしれねえ。しっかし、草さんが茶屋遊びにも来られねえとあっちゃ――」
熊五郎はゲンナリと嘆息した。
草之介が来なければ芸妓の蜂蜜のご機嫌がすこぶる悪いに決まっているのだ。
一方、
サギは桔梗屋から屋根伝いに浮世小路まで来ると、近くの料理屋の屋根に隠れて錦庵の戸口を窺っていた。
今しがた小僧の千吉が桔梗屋へ戻っていったので、もうじき我蛇丸が出前へ出る頃合いであろう。
(――お、出てきたっ)
サギは屋根に腹這いのまま身を固くした。
動くと気配を悟られてしまうので、微動だにせずが鉄則だ。
なにしろ相手は後ろ頭にも目が付いているかと思うような我蛇丸なのだ。
我蛇丸が蕎麦五十枚の角盆を肩に担いで浮世小路を足早に抜けていく。
(五十枚ということは八丁堀の出前ぢゃな)
いくら早足の我蛇丸でも八丁堀まで行って帰ってくるには小半時(約三十分)は掛かるはずだ。
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