208 / 312
芝居蒟蒻芋南瓜
しおりを挟むその先刻、桔梗屋では、
「きりこ~、きりこ~♪何誰様細工~、児雷也様のお手細工~、お手細工~♪」
お花が裏庭に面した座敷でせっせと刺繍を刺していた。
この頃は踊りや長唄の稽古から帰って昼ご飯を食べるとオヤツ休憩を挟んで晩ご飯までは刺繍の稽古という熱の入れようなのだ。
そこへ、
「ただいまっと」
サギがお枝と裏木戸から帰ってきた。
「ほおら、やっぱり手習い所なんぞつまらんかったんだえ?」
お花は「そら見たことか」という顔をした。
どうせサギのことだから昼の弁当を食べたらとっとと帰ってくると踏んでいたのだ。
「おうっ、つまらん。お花の言うとおりっ、まったくつまらんところぢゃ。わしゃ席書会までズル休みすると決めたんぢゃっ」
サギは大きく頷いてズル休み宣言した。
「うん、それがええわな」
お花もズル休みに賛成する。
そもそも、お花は七歳の初午に手習い所に入門したが翌年に明和の大火で日本橋一帯が焼け野原になり、田舎に四年も疎開していたのでちょうど都合良く手習い所に通わずに済んでいたのだ。
江戸へ戻ってから通った女師匠の女筆指南所は弟子もお花を含めて三人ほどで席書会などもなく、至って生易しい稽古であった。
「おや、サギさん、お枝坊様までお戻りにござりまするか。お花様?明日の芝居見物のお支度は宜しいのでござりますか?」
乳母のおタネが縁側へやってきた。
「あっ、そうだわな。芝居見物は明日だわなっ」
案の定、お花は刺繍に夢中でコロッと忘れていた。
明日は武家の見合い見物ついでの芝居見物ではないか。
母のお葉といい、兄の草之介といい、面喰いと忘れっぽいのは血筋らしい。
「そういや、明日ぢゃっけ?」
サギも色々と慌ただしくコロッと忘れていた。
「おタネ、あたしゃ刺繍で手が離せんから振り袖を出して広げておいておくれな。そうだわな、古代唐花の柄にするわな。サギのも色違いで支度してな」
お花は秋物の振り袖の中でもなるべく控え目な柄を選んだ。
人様の見合いに自分が着飾って目立とうとするほどお花は不粋ではないのだ。
「へ?色違い?わしも振り袖を着るのか?」
サギは心底イヤそうな顔をした。
動きづらい振り袖は舟遊びの時で懲り懲りだ。
「だって、芝居見物にそんな筒袖とたっつけ袴なんぞで行けんわな。振り袖は曙色と瑠璃色の色違いだからサギには瑠璃色が似合うわな」
お花はサギとまたお揃いの振り袖を着て出掛けるのが楽しみでウキウキした。
祖父の弁十郎は妹のお枝が産まれて八ヶ月後に亡くなってしまったが姉妹を分け隔てせずに同じ振り袖を色違いで誂えてくれたのでお揃いで二着ずつある。
「へえ、それでは振り袖と帯と出しておきましょう」
おタネも芝居見物に付き添うのでウキウキと足取り軽く二階へ上がっていった。
その昼七つ。(午後四時頃)
「毎度ぉぉ、小間物のご用はぁぁ?」
裏木戸に行商人がやってきた。
しかし、あの震え声は。
「八木殿っ?なんぢゃ?その格好は?」
サギは頭のてっぺんから足の先まで八木を見た。
お庭番の八木明乃丞は行商人に扮していた。
木綿の着古した着物を尻はしょりして股引き、頭に手拭いを被って草鞋履き、大きな長四角の風呂敷包みを背負っている。
「あれまあ」
お花も頭のてっぺんから足の先まで八木を見る。
いつもの羽織袴で二本差しの武士の姿と比べると、こちらのほうが様になっているような気がしないでもない。
「いやぁぁ、武士はお供を連れねば出歩くこともままならぬゆえ面倒なのでござるぅぅ。それで行商人の姿でぇぇ」
八木はよっこらせと風呂敷包みを縁側へ下ろした。
「へええ」
お花はお庭番がお城のお庭の警備と聞いていただけで将軍様の密偵などとは知らぬので目を丸くした。
お庭番が武士の身分を隠して行商人などに扮するのはよくあることだ。
八木は明次郎という偽名で行商人の鑑札もちゃんと持っている。
お庭番が変装の際には日本橋通旅籠町の大丸呉服店へ入って奥で着替えたという。
大丸が変装の着物や小道具を用意したのである。
「これはほんの手土産にござるぅぅ」
八木が風呂敷を開いて行李から金沢丹後の有平糖を出した。
「うわぃ、有平糖ぢゃっ」
サギはピョンと飛び上がる。
白地に撫子色の縞模様で花のように綺麗な有平糖はすっかりサギのお気に入りだ。
金沢丹後の有平糖は蝶々も本物の花と間違えたほどという逸話がある。
「ほほお」
サギは有平糖を舐め舐め、行商の行李の中を物珍しげに引っ掻き廻した。
行商の小間物の楊枝、歯磨き粉、元結い、鬢付油などの商品も一通り揃っている。
「お侍さん、明日は見合いだえ?髪結さんへはこれから?」
お花は男子でも見合いともなれば身支度はことさらに整えるものと思っている。
兄の草之介などは茶屋遊びに出掛ける前はいつでも鏡に張り付いて髷を入念に直しているのだ。
だが、お花は知らなかったが武士は家でお供の者などが髪を結うので髪結床へは行かぬものである。
「あいやぁ、それがしは上役の命令で不承不承にする見合いなので身支度など構わずに良いのでござるぅぅ」
八木はお花に言い訳するように「不承不承」のところで語気を強めた。
「それより、明日のことで念を押しておかねばなるまいとやって来たのでござるぅぅ。芝居小屋の中ではそれがしや他の幕臣には決して話し掛けず、くれぐれも知らん顔していて下されぇぇ」
「えええ、つまらんのう」
「仕方ないわな。勝手に人様の見合いを覗きに行くんだもの」
「小町娘のお花殿は言うに及ばず、サギ殿も妙に目立つゆえ、とにかく見物席では見合いの桟敷席をキョロキョロと見ず、大人しく静かに舞台のほうだけ向いて芝居見物していて下されぇぇ」
八木はしっかと釘を刺した。
見合いを台無しにされたらサギとお花にペラペラとしゃべった自分が他の幕臣に恨まれてしまう。
とにかく小納戸の山鹿と猪野と勘定見習いの三人は見合いに意欲満々で張り切っているのだ。
「くれぐれも目立たぬようにでござるぅぅ」
八木はしつこく駄目を押して「毎度ぉぉ」と行商人の体で帰っていった。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
矛先を折る!【完結】
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
三国志を題材にしています。劉備玄徳は乱世の中、複数の群雄のもとを上手に渡り歩いていきます。
当然、本人の魅力ありきだと思いますが、それだけではなく事前交渉をまとめる人間がいたはずです。
そう考えて、スポットを当てたのが簡雍でした。
旗揚げ当初からいる簡雍を交渉役として主人公にした物語です。
つたない文章ですが、よろしくお願いいたします。
この小説は『カクヨム』にも投稿しています。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
倭国女王・日御子の波乱万丈の生涯
古代雅之
歴史・時代
A.D.2世紀中頃、古代イト国女王にして、神の御技を持つ超絶的予知能力者がいた。
女王は、崩御・昇天する1ヶ月前に、【天壌無窮の神勅】を発令した。
つまり、『この豊葦原瑞穂国 (日本の古称)全土は本来、女王の子孫が治めるべき土地である。』との空前絶後の大号令である。
この女王〔2世紀の日輪の御子〕の子孫の中から、邦国史上、空前絶後の【女性英雄神】となる【日御子〔日輪の御子〕】が誕生した。
この作品は3世紀の【倭国女王・日御子】の波乱万丈の生涯の物語である。
ちなみに、【卑弥呼】【邪馬台国】は3世紀の【文字】を持つ超大国が、【文字】を持たない辺境の弱小蛮国を蔑んで、勝手に名付けた【蔑称文字】であるので、この作品では【日御子〔卑弥呼〕】【ヤマト〔邪馬台〕国】と記している。
言い換えれば、我ら日本民族の始祖であり、古代の女性英雄神【天照大御神】は、当時の中国から【卑弥呼】と蔑まされていたのである。
卑弥呼【蔑称固有名詞】ではなく、日御子【尊称複数普通名詞】である。
【古代史】は、その遺跡や遺物が未発見であるが故に、多種多様の【説】が百花繚乱の如く、乱舞している。それはそれで良いと思う。
【自説】に固執する余り、【他説】を批判するのは如何なものであろうか!?
この作品でも、多くの【自説】を網羅しているので、【フィクション小説】として、御笑読いただければ幸いである。
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる