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口を閉じて眼を開け
しおりを挟む一方、
ここは白見根太郎の下谷の屋敷。
広い庭で根太郎、お幹、九歳ほどの樹三郎がズラリと並んだ菊の鉢植えの手入れをしている。
いずこの貧乏御家人もせっせと内職だ。
そこへ、
「父上」
美根が屋敷から庭へしずしずと出てきた。
お城のお勤めをしていた美根はいつ何時たりと小走りなどは決してせず静かな立ち居振る舞いである。
「折り入ってお願いがござります。明日のわたくしの見合いは乳母ではなくお桐さんに付き添って戴きとう存じまする」
見合いを明日に控えて美根が唐突に思い掛けぬことを言い出した。
美根には乳母と芝居見物ということにして見合いとは伏せてあるはずなのだ。
「ま、まあ、何を言っているのです?」
母のお幹は焦ってトボけようとする。
「見合いのことにござりまする。わたくしは人よりも長くお城でお勤めをして参りましたので武家では娘の見合いを本人にはそれと隠し、芝居見物と称して行うことがあると奥女中のお仲間の噂話に聞き知っております」
美根は乳母と芝居見物と聞かされた時から実際には見合いであろうと察していた。
二十七歳になる薹が立った娘が宿下がりして帰ってきたら見合いは当然のことで察しが付かぬほうがおかしいのだ。
「なんだ。気付いておったのか。それで、あの仕立て物を頼んでおるお桐とやらに見合いの付き添いをして欲しいと言うのだな?」
父の根太郎には美根の考えはさっぱりと解せぬが、(これは、しめた)と心の内でほくそ笑んだ。
我が娘とはいえ美根はすこぶる不器量だ。
美根とお桐が並んだら見合い相手の幕臣八人は美しいお桐を見合いの武家娘、美根を付き添いの女中と思い込むであろう。
お桐の清楚で淑やかな美貌なら必ずや八人が八人とも結婚を申し込んでくるに違いない。
(そうなれば、しめたものだ)
(祝言では花嫁衣装の綿帽子で顔は見えぬし、初夜も暗くて顔は分かるまい)
(明けて朝になって人違いと気付いても後の祭りなのだ)
(なにも騙す訳ではない。勝手に間違えたほうが悪いのだからな)
(ふぉっふぉっふぉっ)
根太郎は心の内で高笑いしつつも、
「まあ、美根の好きにすれば良かろう」
努めて何でもない顔で見合いの付き添いの件を承諾した。
「……」
九歳ほどの樹三郎は苦々しく兄の根太郎の顔を睨んでいた。
(ふん、美人のお桐は見合い相手を釣るための撒き餌という訳か)
根太郎の考えそうなことなどお見通しであった。
その時、屋敷にはお桐が仕立て上がった着物を届けに訪れていた。
「お待たせ致しました」
美根はさっそくお桐を芝居見物へ誘った。
「――まあ、美根様とお芝居に?」
お桐は意外そうに聞き返す。
「ええ、乳母と一緒に参るはずでしたが、乳母は体調が優れませぬようで。けど、わたくし、奥女中の頃のお仲間はとうにお嫁入りなさっていてお芝居にお誘いするような方が一人もおりませんの。お桐さんさえ、よろしければ――」
美根はケロッと嘘をついた。
「まあ、それは嬉しゅう存じますが――」
お桐は自分の木綿の普段着に目をやった。
芝居見物というのはここぞとばかりにお洒落をして晴れ着を見せびらかすための場のようなものだ。
「勿論、お召し物でしたら上から下までなんなりとお貸し致します。そう、わたくしと姉妹のようにゴリッと着飾って参りましょうよ」
美根はケロケロと楽しげに振る舞う。
「え、ええ」
お桐は美根の空々しく明るい様子に不審を抱いたが、芝居見物で美根の気晴らしになるならと快諾した。
美根は十年余りも恋い焦がれていたお毒見係の武士を諦め切れずに他の男の元へ嫁ぐくらいなら尼寺へ行くというのだ。
お桐にどうにか出来る訳でもないが少しでも美根の力になりたいと思っていた。
また一方、
ここは江戸城のお庭。
幕臣等は見合いを明日に控えて、ソワソワと浮かれ立っていた。
「八木殿は昨日は風邪で休んでおられたそうにござるが、もうお加減は宜しいのでござるか?」
元お毒見係の小納戸の山鹿が訊ねる。
「いやぁぁ、実は風邪は大したことはなかったのでござるがぁぁ明日の見合いに備えて体調を万端に整えておったのでござるぅぅ」
お庭番の八木は元気そうに竹箒で落ち葉を掃きながら答えた。
お庭の警備といってもやはり仕事は庭掃除である。
「それは良うござった」
「なによりにござる」
小納戸の山鹿と猪野はウキウキとして見合いが楽しみな様子だ。
小納戸は将軍様が昼八つ(午後二時頃)からの自由時間にお庭を散歩する時には出入り口に立って警備をするのでお庭番の八木とは三日にあげず顔を合わせていた。
毎日、顔を合わせぬのは武士は三日に一日か二日しかお勤めがないからである。
「……」
小納戸の馬場馬三郎だけは何故か浮かぬ顔である。
「馬場殿は見合いに気乗りせぬのでござろうかぁぁ?」
八木はお庭の向こう端に立っている馬場を見やった。
「なに、馬三郎は十年も前に片惚れしておったお女中のことが忘れられぬと言うのでござる」
「十年前にお女中が十六歳ほどならば、とうに嫁入りしたに決まっておるに未練がましいことよ」
山鹿と猪野は馬場には聞こえぬようにヒソヒソ声で八木に話して聞かせた。
二人の話では馬場は上野の山の花見で見掛けたお城のお女中衆の中の一人に心惹かれ、それ以来、花見の頃は花が散るまで毎日のように上野の山で待ち伏せしていたという。
その頃には山鹿と猪野はとっくに毒に当たっていたので、三人が揃って正気に戻ってから馬場にその恋話を打ち明けられたのだ。
「ほおぉぉ、それは、さぞや美しいお女中だったのでござろうぅぅ?」
面喰いの八木はワクワクと竹箒を抱き締める。
「いや、それが、いったいどんなお女中なのやらと、馬三郎にそのお女中の似顔絵を描かせたのでござるが、まあ、真ん丸顔でやけに目玉の大きな――」
山鹿が懐から出した半紙を広げて見せた。
「こ、これはぁぁ――」
八木は言葉に詰まった。
どちらかというと達者な絵だが、そこに描かれた女子の顔はまるで島田髷の鬘を被った犬の狆もどきである。
不美人を形容する『ちんくしゃ』という言葉は狆がくしゃみをしたような顔という意味だが、まさしく、ちんくしゃだ。
「馬三郎の愛犬は狆だったのでござる。それでそういったペチャンコな顔が好みなのであろうかと」
「そのお女中と最初に出逢ったのも愛犬が死んで打ちひしがれていた時だったとか」
「ほおぉぉ」
狆は将軍家や大名家に人気の座敷犬であるが仔犬が産まれると家臣は有り難く頂戴しなくてはならぬので飼っている幕臣は多い。
八木はあんな不細工な犬のどこが可愛いのかと前々から不思議だったのだが人の好みとは分からぬものだと思った。
そこへ、
「上様のお成りにござります」
美少年のお小姓がお庭へ出てきて澄まし顔で告げた。
「不要不急な話は慎まれるように」
お小姓にピシャリと無駄話を窘められる。
元服前の十四、五歳ほどの少年とはいえ、お小姓は小納戸と同じく五百石でお庭番の八木よりずっと身分が上で偉いのである。
武士に年功序列はない。
身分が上なら少年でも大人に対して大威張りだ。
「ははっ」
八木は竹箒を足元へ置いてサッと片膝を突く。
美少年にもドギマギしてしまう。
どこまでも面喰い馬鹿なのだ。
「お成ぁりぃぃ」
お庭に将軍様が散歩にお出ましになった。
「善き哉、善き哉」
将軍様はお庭で写生をするのか小脇に画帳を抱えている。
「ニャッ」
にゃん影もちゃんとお側にくっ付いていた。
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