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カミナリ師匠
しおりを挟む「ほおお」
「へええ」
手代の銀次郎と小僧の一吉は文机と文箱を稽古場に置いた帰りしな、表に貼り出された習字を興味深げに眺めていた。
「うむっ」
二人は顔を見交わして力強く頷き合う。
口にこそ出さぬが、桔梗屋の小僧の手習いが負けておらぬと自信を持ったようだ。
「あ、あたし、なんだか具合が悪うなってきたわな。やっぱり、もう踊りの稽古へ行くわな」
とことん手習い嫌いなお花は手習い所の空気を吸っただけで頭痛と腹痛を覚え、パッと踵を返して玄関を飛び出した。
「あれっ、お前達、お花様を――」
乳母のおタネが銀次郎と一吉にお花を踊りの師匠の家まで送るように命じる。
「お花様ぁあっ」
銀次郎と一吉が追い掛けながらお花を呼び止めるがお花は逃げるように手習い所から遠ざかっていく。
「あそこまで手習い嫌いぢゃったとはのう」
サギは呆気に取られる。
「へえ、若旦那様もまったく同じにござりました」
おタネは嘆かわしげに吐息した。
手習い嫌いの草之介にはさんざん悩まされたものだ。
裕福な家では子の躾は乳母の役目で責任重大なのである。
「お待たせ致しました。師匠見習いの犬山芯平と申します」
取り次ぎに出てきた師匠見習いはその名のとおりに大型犬のように骨太な体格の温厚そうな好男子であった。
「どうぞ、こちらへ」
サギとおタネは廊下の突き当たりの奥の座敷へ案内された。
廊下を通ると男子の稽古場で「サギだろ」「サギだ」「サギだぞ」と実之介と他の子等がヒソヒソ声で目引き袖引きしている。
地獄耳のサギには丸聞こえだ。
実之介と幼馴染みの下女中の子等で前々からサギの噂を聞いているのであろう。
「おう、サギぢゃぞっ」
サギは廊下から実之介等に手を振る。
「――わ――っ」
実之介も他の子等も慌てて文机に向き直った。
「これ、サギさん。手習い所ではお静かに」
サギはおタネに引っ張られて奥の座敷に入った。
「愚老が上山格之進でござる。よくお出でなされた」
出迎えた手習い師匠は白髪の厳めしい顔付きの老人であった。
見た目は六十代半ばであろうか。
上山格之進は下級旗本で五年前に息子に家督を譲り、自分は隠居して手習い所を始めたという。
幕臣の役職は世襲なので長男が役職に付けない場合は父が自分の役職を退いて息子に譲るのだ。
手習い師匠は武士と医師が圧倒的に多く、その他は僧侶、神官、浪人、町人であった。
上山格之進はその名から手習い子にカミナリ師匠と渾名を付けられていた。
「ははあっ、ご高名は予てより承っておりまするが、お目通り致すは今日が初めて。富羅鳥の山奥から参りましたサギと申しまする。以後、何卒、お見知り置き下されてご指導ご教示のほど宜しく願い奉りまする」
サギは淀みなく挨拶して慇懃にお辞儀した。
「ほほお、これは弁舌爽やかな。行儀作法まで教える必要はなさそうぢゃ。サギ殿はお盆の頃に江戸へ来たばかりと聞き及んでおるが、富羅鳥の山奥では手習いは寺のお坊さんに習わっしゃるのでござるかな?」
カミナリ師匠が嗄れ声で訊ねる。
「いいえ、わしゃ、お坊さんに習うたことはござりませぬ。手習い所は今日が初めてにござります」
サギは正直に答えた。
「なんと、初めてとな?」
カミナリ師匠はそれではサギは口は達者でも目に一丁字もなく『いろはにほへと』から教えなくてはならぬのかと思った。
今時、十五歳まで文字知らずとは珍しいが、辺鄙な山奥から出てきたばかりでは仕方ない。
「あの、お師匠様?百聞は一見に如かずと申しまする。是非とも、サギさんの腕前をご覧遊ばして下さりまし」
乳母のおタネはサギの漢詩の達筆を見知っているだけに、まだるっこしくなって口を挟んだ。
「ほお?それでは――」
カミナリ師匠は腕前と聞いて首を傾げながらも文机を示し、サギはその前に座った。
師匠の手による様々な手本が置いてある。
さすがに評判の師匠だけあってこれぞ能書家という立派な手本だ。
「わしゃ、楷書がええんぢゃ」
サギは硬い楷書が好きなので漢詩の手本を選んだ。
「――楷書?」
カミナリ師匠は怪訝な顔をする。
楷書を習うのは武家の男子だけである。
サギは蕎麦屋の錦庵の身内だとか何とかで桔梗屋で何かの見習いをしていると先刻におタネに話を聞いた妻からの又聞きで聞いていた。
以前から錦庵にはよく出前を頼んでいたので知っている。
鴨南蛮と卵焼きが美味い蕎麦屋だ。
それはともかく、
何故に蕎麦屋が武家の教養を身に付けているのか?
カミナリ師匠はさっぱり訳が分からない。
「……」
しばし、サギは真剣な表情で手本をじっと見つめ、
「いざっ」
やにわに気合いを入れて筆を取るとササーッと半紙に筆先を走らせた。
「――おおっ」
カミナリ師匠は目を見開く。
手本と見分けの付かぬほど瓜二つな文字が鮮やかに書かれていく。
「……」
師匠見習いの芯平は愕然として息を呑んだ。
「ふう~」
サギは手本とそっくり同じに漢詩を書き上げ、筆を置いた。
「――み、見事ぢゃっ」
カミナリ師匠は唸った。
「お師匠様の手本をそっくり同じに写しただけぢゃが」
サギは忍びの習いで手本とそっくり同じ文字が書けるだけである。
カミナリ師匠が「見事ぢゃ」と言っているのもサギからしたら己れの書いた手本を自画自賛しているようなものだ。
「芯さん。さっそく、これを戸口に貼り出しなされ。ようく目立つよう先頭になっ」
カミナリ師匠はサギの書を師匠見習いの芯平に突き出した。
手習い子がこれほどの腕前となればこの手習い所の評判はいやが上にも高まるであろう。
「席書会の前に良い手習い子が入ってくれたものだ」
カミナリ師匠はサギの入門で受け取った束脩を渡しながらホクホクと妻の佐保に囁いた。
「けど、この上、手習い子が増えても困りましょう?女子の受け持ちはわたくしだけで手が足りぬというのに」
妻の佐保は不満げである。
佐保は四十年も昔の娘時代にお城の奥女中をしていて手習い所では一人で四十八人の女子に手習いと行儀作法を教えている。
手習い所では年長の優秀な手習い子が二人ほど師匠の代わりに年少の子を教える稽古代に選ばれるのだが年長の女子はすぐに嫁入りしてしまうので長続きした例がないのだ。
「――はあぁ」
師匠見習いの芯平は戸板にサギの漢詩を貼りながら溜め息した。
これほどの凄腕の手習い子が入ってきては見習いとはいえ師匠としての自分の立場がないではないか。
しかも、まだ十五歳とは。
御家人の次男で、三十歳の独り者、部屋住みという身分の芯平である。
部屋住みというのは実家の居候のことだ。
だが、父からして役職に付けずに、父母も兄も兄嫁も一家総出で提灯の文字入れの内職をしているような貧乏御家人なのである。
芯平が達筆になったのも早くから提灯の文字入れの内職を手伝わなくてはならぬ必要に迫られたからであった。
今でも家へ帰ってからは提灯の文字入れの内職なのだ。
手習い所の師匠見習いの手当ては雀の涙ほどであった。
幕府よりお達しで手習い所はどこでも謝礼金は親の身分相応と決まっているので裕福な家の子は金一分で貧乏な家の子は無一文でも同じ手習い所に通うことは出来る。
日本橋という土地柄で裕福な家の子が多く謝礼金は高く受け取っているはずだが、カミナリ師匠はケチで見習いの手当てを上げてくれぬのだ。
「はあぁ」
芯平はしょんぼりであった。
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