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手習い所への道
しおりを挟むそうこうして、滞りなくサギの手習い所への入門が決まった。
朝五つ半。(午前九時頃)
「行ってまいりますぢゃっ」
サギは張り切って桔梗屋を出た。
実之介とお枝は一時(約二時間)も前に手習い所へ行っている。
ついさっき手習い所の師匠に乳母のおタネが入門を申し込んできたばかりで気が早いが、サギはせっかちだし、なにがなんでも午前中に行きたいのだ。
初日なので着物もお初で仕立て上がりのお仕着せの玉子色の筒袖に焦茶色のたっつけ袴に着替えた。
一昔前は手習い所へ通うのは裕福な家の子だけだったので初日はきちんと礼服を着たそうだが江戸中期にもなると庶民の子も通うようになって簡素になったらしい。
ほとんどの子は六、七歳の初午(二月の最初の午の日)に手習い所へ入門した。
手習い所は日本橋左内町にあった。
橋を渡って南詰めから真っ直ぐに通りを進むと左手に万町、平松町、南油町とあって平松町あたりに呉服問屋の白木屋がある。
平松町を左手に曲がると左内町だ。
日本橋の通りを乳母のおタネが大きな風呂敷包みを持ち、手代の銀次郎が文机を持ち、小僧の一吉が文箱と草紙を持ってゾロゾロと付いてくる。
「いやはや、あれほどに達筆のサギさんでも手習い所へ通いたいとは、向上心に頭が下がる思いにござります」
「わしも意欲だけでもサギさんに負けんように手習いを励まんと」
銀次郎も一吉もいたく感服した口振りだ。
「ふほほっ」
天に鼻を突き上げ、サギは得意満面である。
「手習い所は踊りのお師匠さんの家よりか先だけど、あたしも付いていくわな」
お花は手習い所でのサギの様子を覗きたいだけである。
「お花こそ一緒に手習い所に通うたらええんぢゃ」
サギは無駄とは思いつつも言ってみた。
「ううん、あたしゃ筆に関しては見栄を張らんことにしたんだわな。だって、あたしのように日本橋の大店の娘で、評判の小町娘で、そのうえ達筆だなんて殿方がますます近寄り難くなるわな」
お花は児雷也に送った文をサギに美しい文字で代筆させたために児雷也が己れの悪筆を恥じて返事を出せぬものと決め付けている。
それでミミズがのた打ち廻ったような文字のままで良しとしたのだ。
「サギさんほどの達筆ならば田舎でもさぞかし厳しいお師匠さんに習ったのでござりましょう?」
手代の銀次郎が文机を持ち直しながら訊ねた。
おそらく四角四面な銀次郎は手習い嫌いを開き直るお花に説教したい気持ちをグッと堪えて話題を変えたのであろう。
「おう、そりゃもう厳しかったんぢゃ。鬼の師匠ぢゃからの。手本どおりに書けんとオヤツ抜きぢゃったんぢゃ」
サギはオヤツ抜きの日の恨みがぶり返したかのように憎々しげに言った。
「オヤツ抜きっ?」
みな一様に「さもありなん」という顔になった。
サギの書の腕前はオヤツへの執念によるものであったのか。
「ぢゃがっ、手習い所はオヤツ抜きぢゃなかろうから楽しみぢゃ。わしゃホントは手習い所まで飛び跳ねて行きたいほど嬉しいんぢゃけど我慢しとるんぢゃっ」
サギは今にも飛び跳ねたそうにムズムズと足踏みをする。
「飛び跳ねたら弁当の中身が崩れてしまうからだえ?」
お花が笑ってサギの胸元の弁当包みを指差す。
「当たりぢゃあ。お花は鋭いのう」
サギは弁当包みを目の高さに掲げて、にんまりした。
弁当包みの風呂敷はお花が小間物屋で買ってくれた空色の兎の柄だ。
お花は桃色の兎の柄の風呂敷に踊りの稽古の舞扇や足袋を包んで抱えている。
兎は酉年生まれのサギとお花の裏干支なのだ。
「んふぃ、昼に弁当を開けるのが楽しみぢゃあ」
サギはまたも飛び跳ねたそうにムズムズと足踏みをした。
飛び跳ねたいのを我慢してもサギは大事な弁当包みは自分で持ちたいのである。
しゃべっているうちにあっという間に左内町に着いた。
「あちらが手習い所にござります」
おタネが指し示した家を見ると、戸口の脇に戸板が立て掛けられて八枚の習字が二列に並べて貼り出してある。
席書会ではなく普段の手習いでも優秀な習字は表に貼り出されるようだ。
「ほおお、思ったよりもずうっと大きいんぢゃのう」
サギは口をポカンと開けて手習い所を見つめた。
「まあ、こちらの手習い所は手習い子が百人ほどにござりまするゆえ、それほど大きなところでもござりませぬが――」
おタネが大したことないようにサラッと言う。
「百人っ?」
サギはビックリした。
どうりでおタネは大きな風呂敷包みを抱えていると思ったら百人に配る菓子が入っていたのだ。
だが、薙刀の師範代のおタネなので大きな風呂敷包みも軽々である。
「お頼う申し上げます。桔梗屋にござります」
おタネが先に玄関へ入って声を掛ける。
「手習い子が百人もおるぢゃと?」
サギは玄関から中を覗いてキョロキョロした。
やけに奥行きがあり玄関の前の長い長い廊下の脇に稽古場が二つある。
手前が男子で奥が女子と稽古場が分かれているようだ。
稽古場は細長く六十畳はあろうか。
文机がズラーッと並べられて、手習い子はみな文机に向かって黙々と筆を動かしている。
「ほへえ」
サギは目を見張った。
富羅鳥の忍びの隠れ里で一人だけで学んでいたサギにしたら百人もいたら多過ぎるほどである。
しかし、江戸の町では小さな手習い所で手習い子が五十人ほどで、大きな手習い所で手習い子が五百人はいたというのだから、百人なら大きくも小さくもない中ぐらいの手習い所なのであろう。
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