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得手に帆を上げて
しおりを挟む「ただいまぢゃあ~」
サギが桔梗屋へ帰ると、
(あれ?実之介?)
縁側に実之介がポツネンと佇んでいるのが見えた。
もう夜五つ半(午後九時頃)でいつもなら実之介はとっくに布団に入っている時分だ。
横顔がなんだか半ベソのように見える。
「――あっ」
実之介はサギに気付くと慌てて縁側の端っこの厠へ走っていった。
ベソベソしている姿をサギに見られたくないのだ。
「のう?実之介はどうしたんぢゃろ?」
サギは台所の板間に入りながら今夜の不寝番のために残った下女中三人に訊ねた。
「ああ、それがね、サギさん」
下女中三人はペラペラと実之介の手習い所の席書会のことをサギに話して聞かせた。
「なるほどのう。お葉さん、ぢゃない、奥様はたぬき会のことで頭がいっぱいで実之介の席書会というのは忘れとるんぢゃな」
富羅鳥の忍びの隠れ里には手習い所などないので、サギは席書会なるものを下女中の話で初めて知った。
「席書会は来月の下旬なんで、まだまだ晴れ着の支度は間に合うけども、旦那様がお帰りになられんことにはねえ」
下女中三人は困り顔して吐息する。
「席書会というのは父親が行くものなのか?」
サギはキョトンとした。
「そりゃあ、まあ」
下女中三人によると、たいていの家では子の教育は男子は父の受け持ち、女子は母の受け持ちと決まっているらしい。
男子と女子で受ける教育からして異なる時代なので役割分担していたのであろう。
実之介の通う手習い所は武家の老夫妻が師匠をしていて、夫が男子、妻が女子を教えている。
この老夫妻はかつて御殿勤めをしていたという。
あまり年若い師匠は教育熱心な親の信頼を得られぬらしく、評判の手習い所は御殿勤めをしていたような箔のある年寄りの師匠が多いのだ。
ただ、手習い所には三十男の師匠見習いがいて年少の実之介を教えているのはこの若師匠であった。
いつも実之介とお枝が五段重の弁当を分けてやっている独り者の若師匠だ。
この手習い所では十歳まで年少、十三歳まで年中、十四歳から年長と分かれていた。
ほとんどの子は年少か年中まで通うと奉公へ出るので年長まで通うのは奉公へ出ることのない商家の子であろう。
「ふんふん、なるほどのう」
サギは聞けば聞くほど手習い所に興味を持った。
今まで実之介とお枝が手習い所に通っていてもただ手習いをするだけと思っていたが席書会というものがあると聞けば話は別だ。
今更、手習い所で習うことなど何もないが、自分も手習い所へ通いたい。
手習い所で真面目に手習いして昼には持参した弁当を食べるのだ。
なんとも楽しそうでワクワクする。
(そうぢゃっ)
(わしも手習い所に入ろうっ)
(そいで席書会に参加するんぢゃっ)
サギは独り決めしてペチンと手を打った。
席書会。
己れの書の腕前を見せびらかす絶好の機会ではないか。
忍びの習いで手本と見分けが付かぬほどそっくりに書くことが出来るのだから一席を取れるのは確実だ。
とにかくサギは自分の腕前を見せびらかしたい。
見せびらかしたくて見せびらかしたくて仕方ないのだ。
あくる朝。
「――ええっ?サギが手習い所へ通う?」
朝ご飯時にサギの話を聞いたお葉、お花、実之介、お枝は揃って目を丸くした。
「そうぢゃ。『手習いは坂を車で押すが如し』というてぢゃな。ちいと油断して怠けるとたちまち後戻りしてしまうものなんぢゃ。ぢゃから、わしも手習い所に通うて手習いをせんとならんのぢゃっ」
サギはもっともらしく理由をこじつけた。
「おやまあ、それは感心な心掛けだわなあ。おタネ?さっそくミノ坊とお枝坊を手習い所へ送ったついでにお師匠さんにサギを入門させてもらえるか訊いてみておくれ」
お葉は大いに賛成して乳母のおタネに言付けた。
「へえ、お任せ下さりまし」
おタネは自信たっぷりに頷く。
桔梗屋は手習い所の師匠には盆暮れのご進物も豪勢な品を贈っているし、謝礼金もたっぷりと色を付けて渡しているし、よもや入門を断られるはずはないのだ。
「わあっ、手習い所でサギが一緒なら面白いぞ」
「おもしろいわな」
実之介とお枝は大喜びした。
「サギ、手習い所なんぞつまらんわな。あたしと長唄や踊りの稽古に通うたらええのに」
お花はちっとも面白くない。
「うひゃ、娘っ子の稽古事なんぞ真っ平ご免ぢゃあ」
サギは手習い所へ通わせてもらえると分かってご機嫌でご飯をモリモリと頬張った。
まず、手習い所に入門が決まると自前で文机と文箱を持参して手習い所に預けておく。
そして束脩といって師匠には入門に弟子が贈る白扇となにか適当なご進物を謝礼金に添えて渡し、それと先に入門している手習い子にはご挨拶の菓子を配るのだ。
手習い所に入門するのも結構な物入りなのである。
「文机と文箱は小僧が手習いで使うとるものが余っておるし、菓子なら売るほどあるから心配いらんわなあ」
お葉はいそいそと店の者に命じてサギの入門に持参する物の支度を整えさせた。
サギを見習って実之介とお枝だけでも手習いが上達してくれたらと願ってのことだ。
しかし、お葉は手習い所の話になっても、実之介の秋の席書会のことはまるで思い出しもしなかった。
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