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実之介の席書会
しおりを挟む一方、その頃、
桔梗屋では、
「なあ、ヒドイと思わんかい?晩ご飯時もおっ母さんと姉さんは来月のたぬき会とやらの話に夢中で、わしの秋の席書会のことなんぞすっかり忘れとるみたいなんだ」
実之介が不満げに台所の下女中五人に訴えていた。
席書会とは手習い所で春と秋に行われる学習発表会のようなものである。
席書会には手習い子の父兄が一張羅を着込んで参観にやってくる。
手習い子もみな晴れ着姿で、父兄の見守る前で一人ずつ習字の腕前を披露するのだ。
そして、その中から師匠に一席、二席、三席と順位を付けられて手習い所の戸口の脇に習字を貼り出され、通りを行き来する通行人にまで披露されることになる。
手習い所は師匠が自分の書いた手本で教えるのだから貼り出した手習い子の習字によって師匠の腕前まで知れてしまう。
殊に秋の席書会は来春から子を手習い所に通わせる親が手習い所を選ぶための判断基準にするというので手習い所の威信を掛けた大事なものなのである。
江戸の親はなかなか教育熱心であったのだ。
ここ最近、実之介は家でも小僧の四人と一緒に手習いしていた甲斐もあり、見違えるほど習字が上達したので五席までには入れる自信があった。
「それなのに、お父っさんは仕事で長崎に行ったまま戻らんらしいし、わしの席書会はいったい誰が来てくれるんだろうの?」
実之介は気が気でない。
この時代はこういった会に出席するのは母ではなく家長である父か家長代理の兄であった。
その名残で父兄参観などという言葉があるのだ。
「おやまあ」
下女中五人は答えに窮した。
実之介の秋の席書会のことをたしかにお葉はケロッと忘れているようだ。
下女中はみな実之介と同じ手習い所に通う子等の母なので席書会のことはよく知っている。
席書会の日のために亭主に着せるパリッとした着物や子の晴れ着も上の子のお下がりを直したりして支度もすっかり整えてある。
自分の子等は父がみな出席するというのに実之介に父兄が来ないのでは可哀想だ。
樹三郎は子煩悩なので今まで実之介の席書会は一度も欠席したことがなかった。
この春の席書会でも樹三郎は若々しく美男なだけにどこの父よりも見栄えが良く実之介は自慢であったものだ。
美男なら兄の草之介も負けず劣らずではあるが、
「兄さんは絶対に来てくれんと思うんだ」
実之介はしょんぼりとした。
あの草之介が大の苦手な手習い所に顔を出すはずがない。
草之介は自分が手習い所に通っていた頃でさえ席書会の日はいつも仮病でズル休みしていたほどなのである。
「まあ、旦那様がまだお帰りにならないとはねえ?」
「旦那様はどこまでお出掛けなんだえ?」
「たしか、長崎の対馬とか何とか?」
「年内は江戸へ戻られんのかねえ?」
「ああ、よう分からんけど長崎ってのはよっぽど遠いんだろ?」
お葉が適当にその場しのぎのデマカセを言ったので誰も詳しいことは聞いていない。
実際は九歳ほどの姿になって兄の白見根太郎の下谷の屋敷にいるなどということはお葉と根太郎しか知らぬことなのだ。
「やっぱり、お父っさんはわしの席書会までに帰っては来られんのだろうなあ――」
実之介は台所を出るとトボトボと長い縁側を渡って寂しげに夜空の十一日目の月を眺めた。
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