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動転の出前
しおりを挟むほどなくして、
我蛇丸は両手に提げた岡持ち二つを一分も傾けることなく日本橋呉服町にある近江屋の別宅に着いた。
「毎度、錦庵にござります」
裏へ廻って声を掛ける。
「へぇい」
思いがけず甲高い女の声で返事が返ってきた。
先ほど出前を頼みに来た近江屋の女中の声だ。
あの感じの悪い坊主頭の大男でなく我蛇丸はホッとする。
「こっちの縁側まで持ってきておくれやすぅ」
近江屋の女中が裏庭の竹垣から顔を出し、我蛇丸をちょいちょいと手招きした。
「蕎麦は汁をこぼしそうでぇ、うちはよう運ばれへんのどすぅ」
女中は年増のわりに小娘のような甘えた口調でクネクネと身をくねらせて竹垣の折戸を開いた。
「へえ、まだ熱々で危のうござりますから」
我蛇丸は岡持ち二つを水平に保ちつつ折戸から裏庭へ入った。
「おおきにぃ」
女中はまたクネクネと身をくねらせる。
そして、
(――礼を言うのはこっちのほうぢゃ)
縁側へ目を向けた我蛇丸はこのクネクネした女中に感謝した。
縁側には児雷也の姿があった。
児雷也は白紫色のサラッとした紬を着て、明るい縁側の柱に寄り掛かって書物を繰っている。
片胡座で行儀は良くないが裾が乱れたしどけない姿が尚更に美しい。
我蛇丸の胸はドキドキと高鳴る。
座敷に坊主頭の大男と童顔の雨太郎がいたが我蛇丸の目には入らなかった。
「……」
児雷也は我蛇丸を見て軽く会釈した。
しかし、我蛇丸が会釈を返して顔を上げた時には児雷也はもう書物に視線を戻していた。
相変わらず素っ気ない。
「……」
我蛇丸は悲しいような泣きたいような気持ちになる。
だが、そんな表情は微塵も見せず岡持ち二つを縁側へ置くとテキパキと岡持ちの蓋を外した。
「……」
その時、児雷也がまた書物から視線を上げて我蛇丸を見ていたが、我蛇丸は岡持ちから蕎麦を取り出していて気付かなかった。
「そうっと置いておくれやすぅ。江戸の男はんは気ぃが荒うて乱暴やさかいになぁ」
テキパキと蕎麦を角盆に移している我蛇丸に脇から女中が口を突っ込む。
「いや、わしは江戸の者では――。三年前に富羅鳥から江戸へ出てきたばかりにござりますので――」
我蛇丸は児雷也の反応を確かめるように『富羅鳥』とわざと言ってみたが、児雷也は富羅鳥の名に無表情である。
やはり、何も覚えてはいないらしい。
その代わり雨太郎が意外な反応を示した。
「へえっ、富羅鳥?そりゃ、こん次、興行する土地だ」
雨太郎は座敷から這うようにして縁側へ身を乗り出す。
「富羅鳥で興行を?」
我蛇丸は寝耳に水であった。
鬼武一座の巡業先は京に潜伏している蟒蛇の忍びの者が調べていたが富羅鳥へ行くとは聞いていない。
「てっきり江戸での興行の後は京へ戻るものと――」
我蛇丸は独り言のように呟く。
「ああ、わし等だってそう思うとったんだが、座長がいきなり言い出しおってな。そいで、今、座長は富羅鳥まで興行の打ち合わせに行っとるんだ。おかげでわしが座長の代わりに舞台の口上をせにゃならん。――あ、お糸どん。わしゃ、しっぽくとたぬき」
雨太郎は暢気な顔して角盆から蕎麦を取る。
座長というのは口上の裃姿の五十男のことだ。
「……」
我蛇丸はしばし思案げに黙り込んでいたが、
(――しまったっ)
突然、カッと目を剥いた。
「それは何時頃でござるっ?」
噛み付かんばかりの勢いで雨太郎に詰め寄る。
「……っ」
雨太郎は蕎麦を口に啜ったまま固まった。
「……?」
あまりに差し迫った我蛇丸の様子に児雷也と坊主頭は何事かと顔を見合わせた。
「昨日、舞台が跳ねてから富羅鳥へ発ったが」
坊主頭の大男が答える。
「それなら、まだ追い付くっ」
我蛇丸は身を翻すとバッと裏庭の竹垣を飛び越し、凄まじい速さで駆けていった。
「……?」
児雷也はなにがなにやら分からぬまま我蛇丸の姿があっという間に消えた路地をただ茫然と見つめていた。
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