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秘め事
しおりを挟む「火の用心~」
カチン。
カチン。
やがて、料理茶屋『宝来屋』の前に差し掛かると、
「銀次郎、わしはここで大事な接待に呼ばれとるのでな」
草之介はホイと拍子木を銀次郎に渡した。
お座敷にはすでに熊五郎、伊勢屋の若旦那、芸妓の蜂蜜と松千代、半玉の小梅といった、いつもの面子が揃って草之介を待っている。
「へえ、あとはお任せ下さりましっ」
銀次郎は張り切って拍子木を受け取る。
「そいぢゃ、頼んだよ」
草之介はいそいそと料理茶屋へ入っていった。
「なんぢゃあ、わし等、茶屋まで若旦那を送ってきたようなものぢゃ」
サギは草之介の奴なんぞにうっかり感心して損したと思った。
それはそうと、江戸はみなが門限を守らねばならぬ町である。
町ごとに通りに木戸があり、木戸を挟んで両側に自身番と番小屋が置かれ、明け六つ(午前五時頃)に木戸が開かれ、夜四つ(午後十時頃)に木戸が閉じられる。
つまり、夜四つから明け六つまで通りは通行止めである。
自身番には半鐘が設置された火の見櫓があり、町の地主、家主が月行事の当番制で夜間は常時五人ほどが詰めている。
番小屋は番太郎と呼ばれる木戸番の住まいを兼ねて日用雑貨や駄菓子の小商いをしながら木戸の開け閉めに従事している。
他所はどうだか知らぬが豪商ばかり立ち並ぶ日本橋は特に門限は厳しい。
草之介のような大店の若旦那で日本橋のどこの町の番太郎にも顔が利く者は夜四つを過ぎても心付けでも渡して難なく木戸を開けて通して貰えるが、どこの誰とも知られぬ者は通して貰えずに木戸が開く明け六つまで待たなくてはならぬのだ。
「銀次郎どん、わしも拍子木を打ちたいんぢゃ」
「あ、サギさん、ズルイぞっ」
「おいらだって打ちたいんだっ」
「わしが先ぢゃっ」
「ああ、そしたら代わりばんこに」
みなで拍子木を奪い合ったが銀次郎が一人六回ずつと決めて順番に打つことにする。
「火の用心~」
カチン。
カチン。
料理茶屋の並んだ賑やかな通りを過ぎると辺りは打って変わってひっそりと静まりかえり、待合い茶屋の並んだ通りになった。
どことなくスケベ笑いの酔客が通りを行き交う。
「こ、ここは、いかがわしい場所だ。さっさと通り抜けねばっ」
堅物の銀次郎はいかがわしい場所なら付け火があろうが知ったことではないと言わんばかりに足を早める。
「へ、へえっ」
小僧等もいかがわしい雰囲気になにやらドギマギして早足で銀次郎の後を追っていく。
「のう?いかがわしい場所というのは春画みたいなことをするところぢゃろ?のう?」
サギが臆面もなく大声で訊ねても誰も答えずに早足でどんどんと先へ行って角を曲がってしまう。
「あっ、置いてきぼりぢゃっ」
サギは慌てて走って角を曲がった。
そこへ、
提灯持ちの後に付いて一人の女子が人目を忍ぶように胸元に抱えた風呂敷包みで顔を隠して歩いてきた。
女子は左右を用心深く窺って待合い茶屋の裏木戸の中へ素早く身を滑り込ませる。
そこは小亀屋という待合い茶屋であった。
女子は裏木戸を背にホッと吐息して、風呂敷包みを顔から離した。
色町にはおよそ似合わぬ清楚な美人。
それは、杉作の母のお桐であった。
いったいお桐は待合い茶屋などに何の用事があって来たというのであろうか。
その秘密が明かされるのは、まだまだずうっと先のこと。
「火の用心~」
カチン。
カチン。
前方に弓矢の看板が見えてきた。
湯屋の看板で「弓射る」と「湯入る」を掛けた駄洒落である。
「小僧等はここまでぢゃな」
これでグルリと一周を廻り終え、小僧等だけ本石町の湯屋へ入った。
湯屋は町ごとに一軒ずつあり屋号はなく町名で呼ばれていた。
ちなみに湯銭は八文で串団子二本分である。
「火の用心~」
カチン。
カチン。
サギは張り切って拍子木を打ちながら、桔梗屋までの道すがら、ついつい気になって錦庵のある浮世小路を覗き込んだ。
錦庵はとっくに店仕舞いして真っ暗だが、隣近所の料理屋にはまだ灯りがある。
ギィ。
(――あ、誰か出てくるっ)
錦庵の裏木戸が開いたので慌てて身を潜めた。
コソコソと出てきたのは女中のおクキだ。
(おクキどん、今頃まで錦庵におったのか)
サギは怪しんで様子を窺う。
おクキはそそくさと錦庵の斜向かいの料理屋の裏木戸へ入っていった。
「おや?サギさん、どうしたんでござります?」
銀次郎が足を止めて振り返る。
「今、おクキどんがあの料理屋の裏木戸から中へ入っていったんぢゃ」
サギは拍子木で料理屋を指し示す。
料理屋は『蓮月』と看板にある。
「ああ、おクキ様は日本橋一帯の店におしゃべり仲間がおりますゆえ、きっと蓮月さんの女中さんのところにござりましょう」
銀次郎は気にも留めずにまた歩き出す。
「あ、そういえば――」
この蓮月はサギが江戸へ来た晩にご馳走の出前を取った料理屋だ。
おクキは蓮月の女中から錦庵に田舎から妹が来ていると聞いたのだ。
(ま、わしゃ、まことの妹ぢゃないがの)
サギは桔梗屋へ戻る道々、
「火の用心~」
カチン。
カチン。
拍子木を打ちながら考えた。
もしや、おクキは昨晩も蓮月の女中のところへ泊まったのに錦庵に泊まったかのように見せ掛けたのではなかろうか。
おそらく周囲に我蛇丸と深間の仲になったと思わせるおクキの姑息な作戦であろう。
(ううむ、思いの外、手段を選ばぬ女子ぢゃ)
サギはおクキの猿知恵に呆れ返る。
少し先へ行くと桔梗屋に着いた。
「はあ、小腹が減った。日本橋の北側だけでもグルリと廻ったら半時(約一時間)は掛かったのう」
サギは自前の腹時計でだいたいの時刻は分かる。
「日本橋は広うござりまするゆえ。しかし、一周して半時では二番手の若衆も早めに出掛けねば最後の手代のわたし等が夜廻りを終えるまでに湯屋が仕舞ってしまう」
湯屋は夜五つ(午後八時頃)までなのだ。
「えっ?わたし等?他の手代も夜廻りするのか?夜遊びは行かんのか?」
サギは手代の金太郎はてっきり今夜も大人の遊興場へ行くものと思っていた。
「まさか。若旦那様でもあるまいに手代の身で毎晩、夜遊びなど滅相もない。金太郎さんも銅三郎も遊びに出るのはせいぜい十日にいっぺんほどにござりまする」
十日にいっぺん。
金太郎は昨晩、夜遊びしたばかりなので次は十日後ということか。
(なんぢゃあ、金太郎がどこぞへ行くか夜廻りついでに確かめよう思うたのに)
サギはガッカリしたが、
「ま、ええか。夜廻りは足腰のええ鍛練ぢゃな」
すぐに気を取り直し、裏庭をピョンピョンと飛び跳ねた。
「サギさん?夜廻りは遊びではござりませんよ。それに、サギさんはもう夜廻りに行くことはまかりなりませぬ。わたしも夜の芳町など初めて通りましたが、あのようないかがわしい色町など歩くだけでも身の穢れにござります」
堅物の銀次郎は出来るなら夜廻りの道順を変えたいほどだが、芳町には若旦那の草之介が毎晩のように遊びに出掛けるので火の用心しない訳にはいかない。
「へいへい」
サギは銀次郎の言葉を右から左へ聞き流し、草鞋を脱ぎ飛ばして縁側に上がっていく。
勿論、夜廻りをやめる気はさらさらない。
「まったく」
銀次郎はサギの脱ぎ飛ばした草鞋を拾い、沓抜石の上に几帳面に揃えてから自分も縁側に上がっていった。
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