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危急存亡の秋
しおりを挟む(せ、千両箱の小判の残りはいったいっ?)
タタターッ、
草之介は裏庭のサギと実之介の目前の縁側を全速力で通過していった。
「は、速いっ」
サギと実之介は意外な草之介の俊足にビックリ顔をする。
「はあ、はあっ」
草之介は仏間へ入ると戸棚から千両箱を取り出した。
「ひい、ふう、みい――」
息を切らしながら本物の小判を数える。
「六十二両しか残っとらん――っ」
スーッと額が冷たくなり、血の気が引いていく。
草之介はクラクラと目眩を覚えて畳に伏した。
(まさか、おっ母さんが二百両も出してしまうとは――)
千両箱を開けることはまかりならんと厳しく言っておいたはずだが、お葉はそんな言い付けをしおらしく守るような女子ではないのだ。
母の天衣無縫の性質を草之介はうっかり忘れていた。
(まずいぞ。どうしたらいいのだ)
これほどまで本物の小判が減っては今度また小判を取り出した時には下にある偽物の小判に気付かれてしまう。
白見の伯父の金の無心は番頭に追い返すよう言ってあるので年の瀬までは千両箱を開けることはなかろうと油断していた。
よもや火事見舞いなどという不意の出費があろうとは想像だにしていなかった。
だが、江戸の町は火事が頻繁にある。
また日本橋で火事があれば、お葉はまたホイホイと気前良く火事見舞いを出すに決まっているのだ。
(まずい、まずいぞっ)
草之介は急いで戸棚に千両箱を仕舞い、仏間を出るとバタバタと縁側をまた全速力で走った。
「あ、草之介、いや、若旦那、どこぞへ行くんぢゃ?朝ご飯ぢゃぞっ」
サギはおクキに頼まれた草之介の朝ご飯の膳を台所へ取りにいくところである。
草之介はサギの声も耳に入らず、裏庭へ飛び下り、庭下駄を突っ掛け、裏木戸から走り出ていく。
その一連の動作の素早さといったらない。
「ほお、草之介もなかなか見込みがありそうぢゃ」
サギは裏木戸から顔を突き出し、路地を抜けていく草之介の後ろ姿を感心して見送った。
一方、その頃、
「サー つねりゃ紫ぃ 喰いつきゃ紅よぉ 色で仕上げた アリャこの身体 エンヤラヤ サノヨーイサー♪」
火消の虎也は日本橋の通りを唄いながらブラブラと歩いていた。
行き交う人々がみな振り返って見るほど日本橋では人気の虎也であるが誰も気安く声を掛けられない。
虎也の姿は今までとは打って変わり、まるで山賊のようである。
髪は不揃いのザンバラに乱れ、片目には独眼流政宗もどきの黒い眼帯をしている。
昨夜の火事場の火の粉でチリチリに焦げたために短くなった髪がバサバサに垂れ下がり、左目は火の粉が入って傷めたのだ。
「ああ、虎也、すまねえなあ」
い組の頭が虎也の後を追ってきてペコペコと詫びる。
「頭ぁ、目ん中に火の粉が飛び込んでよ、ジュッと音を立てたんですぜ。目ん中でジュッと。痛てえのなんのって、さすがの俺も目ん玉ばかりは鍛えらんねえですからねえ」
虎也は片目でジロリと頭を睨んで嫌みを吐く。
実際、目の中に火の粉が入ると涙の水分でジュッと音がする。
頭に無理やり連れて行かれた町医者に鳶の仕事は眼帯が取れるまでは休むようにと言われた。
火消は奉仕活動のようなもので手当ても雀の涙ほどなのに火消で怪我をして本業の鳶の仕事を休むのでは商売上がったりだ。
「まあまあ、さっき桔梗屋さんが心付けにと十両くれなすったからよ。ほれ、半分、取っときな」
い組の頭は火消等に『江戸っ子の生まれ損ない』と陰口を叩かれるほどのしみったれのくせに花形の虎也の機嫌を取るためには惜しげもなく五両を渡した。
ポンと十両でなく半分の五両というところがまだまだケチ臭いが、頭としては大奮発なのである。
「まあ、なに、火の粉で髪が焦げて髷の結えねえ火消なんざ珍しくもありゃしねえ。それより、よおく見たら男っぷりが上がったようだぜ。その眼帯もたまんねえな。まったく男前は何でも似合っちまうんだからよ。くうぅ、憎いねえ」
い組の頭は調子の良い男で虎也をチヤホヤとおだてる。
そこへ、
「はあっ、はあっ」
草之介が必死の形相で前方から走ってきた。
「こりゃあ、桔梗屋の若旦那、どうなすったんで?」
い組の頭が訊ねる。
「い、今、長屋を訪ねたら、虎也さんは医者へ行かれたと聞いたので――」
草之介は苦しげに息を切らし、その場にへたり込んだ。
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