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密偵の目星
しおりを挟む「ただいまっと」
サギが桔梗屋へ戻ると台所の下女中は三交代の最後の奉公人の昼飯の後片付けを終えたところであった。
「ほれ、団子ぢゃ。みんな一緒にオヤツぢゃっ」
サギは下女中五人に団子でオヤツ休憩を勧める。
さっそく茶飲み話で諜報活動だ。
「サギさん、ホントに小松川の杉作の農村まで行ったのかい?」
「うんっ。杉作のおっ母さんと妹のお栗にも挨拶したんぢゃっ」
「おや、そいぢゃ、杉作のおっ母さんのお桐さんはまだ独り身なんだねえ?」
「まだ若いし、あれだけの器量良しなんだから縁談は山のようにあるだろうにさ」
「早くしないと三十過ぎたら条件が悪くなるだろうに」
どうやら下女中の興味は杉作の母のお桐の再婚に関することらしい。
前述のとおり、江戸は男が多く、甚だしい嫁不足で幕府が『女はなるべく二度以上の婚姻をすべし』と推進しているほどなので庶民にとって再婚は望ましいことである。
それどころか美しい若後家がいつまでも独り身でいると身持ちが悪いと見なされ、ふしだらな色後家などと揶揄される時代であった。
「ええと、桔梗屋の奉公人にちょうどいい再婚相手はおらんのかのう?ええと、二十三歳くらいがええぢゃろ。ほれっ、再婚相手は長生きするよう年下がええんぢゃ」
サギは話題に乗ったつもりで強引に諜報へ寄せていく。
「おや、でも、商家の奉公人は番頭になるまで所帯は持てないんだよ。桔梗屋の番頭さんはもう三人とも女房持ちだから駄目だしさ」
「ふ、ふうん、二十三歳くらいの相手がええと思うたんぢゃがのう。手代が二十三歳くらいの年頃かのう?」
サギはしつこく食い下がる。
「ああ、手代さんだと一番下の銅三郎どんが十九歳で、銀次郎どんが二十一歳、一番上の金太郎どんが二十三歳だったかねえ」
手代の金太郎が二十三歳。
(――さては、密偵は金太郎かっ)
サギは手代の金太郎に目星を付けた。
「どこかの店にまだ独り者の番頭さんはいなかったかねえ?」
「やっぱりお桐さんは森田屋の一番番頭の女房だったんだから、それ相応の相手ぢゃないとねえ」
「それでも二十七歳で二人の子持ちだしさ、適当なところで手を打たなけりゃあ」
「贅沢は言ってらんないよねえ」
「けど、後妻の口はイヤだろうしさ」
下女中五人は団子をモグモグと頬張りながらまだ余計なお節介なお桐の再婚の話に熱中している。
(――金太郎は店におるかな?)
サギはそそくさと茶飲み話の輪から抜けて、廊下へ出ると店の棟へ走った。
店の裏側の板間では小僧等がせっせと紙を折ったり、こよりを縒ったりと菓子の袋をこしらえている。
背後をサギがコソコソと忍び足で通っていく気配にも小僧等はまるで気付かない。
サギは暖簾口から店の中を覗き込んだ。
(あれが金太郎ぢゃな)
店で接客している手代の金太郎をまじまじと観察する。
金太郎は落ち着いた紺地の縞の着物で中肉中背でまったく癖のないあっさりと整った顔立ちをしている。
「こちらが一番人気の金平糖にござります。日持ちが致しますのでお土産に最適かと存じまする」
そつなく菓子の説明する声も高からず低からず平凡そのものだ。
(むぅん、今までおるのかおらんのか分からん男ぢゃったが、こうして見ても地味ぃで特徴のない男ぢゃのう)
サギはハタと覚った。
それこそが真の密偵というものではないか。
サギが桔梗屋へ初めて来た時から手代の金太郎は常にいたはずなのにまったく眼中になかった。
あの目立たぬ容貌、控えめな態度、平々凡々たる声、どこを取っても密偵として非の打ち所がない。
(密偵ぢゃっ。手代の金太郎こそ密偵に違いないっ)
サギはそう確信した。
そこへ、
「サギ?何をしとるんだっ?」
菓子職人見習いの甘太が袋詰めする山盛りの金平糖の木箱を抱えて板間へ入ってきた。
「え?サギさん?」
「あれ、いつの間に?」
小僧等は甘太の声で振り返り、サギが背後にいたことに初めて気付いた。
「ん?お前、また汚いぢゃないか。泥だらけで売り物の菓子に近付くなと言うたろうがっ」
甘太は山盛りの金平糖の木箱で両手がふさがっているので足でサギをシッシと追い払う。
「わわ、いかん」
サギはハッとして自分の着物を見下ろした。
木登りをしたので泥だらけだ。
たしかにこれから金平糖の袋詰めをする板間へ入ることは憚れる汚なさだ。
「……」
甘太は作業台に金平糖の木箱を置きながら怖い顔でサギを睨み付けている。
「退散、退散、龍角散――」
サギは着物の泥が落ちぬようにソロソロと忍び足で廊下を後退していった。
ちなみに龍角散は江戸時代に秋田佐竹藩のご典医が作ったという藩薬である。
黄表紙の朋誠堂喜三二だけでなく龍角散までを世に出している秋田佐竹藩なのであった。
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