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悪銭身に付かず
しおりを挟む一方、錦庵では、
まだ草之介と熊五郎がスルスルと蕎麦をたぐっていた。
それでなくとも盛り蕎麦を三十枚も食べる熊五郎はすこぶる長っ尻だ。
「ともかく今晩はいつもの茶屋で蜂蜜を呼んでパアッとやろうぢゃねえかい。なに、横恋慕の稲光なんざぁ待ちぼうけを食わしてやりゃあいいのさ」
熊五郎は楽天的に言った。
売れっ子芸妓はお座敷の掛け持ちが当たり前で数件の茶屋を行ったり来たりするので芸妓が気に入らぬ客は当然のごとく待たされることになるのだ。
「――いや、しかし、熊さん、わしはもう、茶屋遊びは――せぬと――」
草之介はとぎれとぎれに未練がましく言って熊五郎の誘いを断腸の思いで断る。
「なにい?そりゃあ、こないだの舟遊びの行方知れず騒動でおっ母さんからきつく灸を据えられたに違げえねえが、そんなっことくれえで茶屋遊びをよすような意気地のねえ草さんぢゃあるめえ」
熊五郎は納得しない。
稀代の遊び好きの草之介が茶屋遊びしないなど天地がひっくり返っても考えられぬことなのだ。
「ああ、勿論さ。おっ母さんの灸なんぞ蚊に喰われたほども痛くも痒くも堪えんが――」
草之介は母が怖い意気地なしと思われるのは心外なので苦渋の面持ちで意を決し、
「――実は、もう桔梗屋にはわしが茶屋遊びに遣える金なんぞ残ってやしないんだ――」
ヒソヒソと小声で理由を告げた。
「えええっ?まさか、打出の小槌があるかってくれえ贅沢三昧の桔梗屋が何だって急によ?」
熊五郎は青天の霹靂という顔で草之介を見返す。
「――それは、まあ、色々とよんどころない事情が――」
草之介は言葉を濁した。
幼馴染みの熊五郎にも本当のことなど話せやしない。
「よんどころない事情?――あ、そいやぁ、ここんとこ、草さんのお父っつぁんの姿を見掛けねえが、とうとうおっ母さんに愛想を尽かされて桔梗屋から追い出されちまったってえのかい?」
熊五郎はヒソヒソと声を潜める。
「――え?お父っさん?」
草之介はハッと目を見開いた。
今頃になって自分が鬼ヶ島から帰ってきてから父の樹三郎と一度も顔を合わせていないことに気が付いたのだ。
それほど父の樹三郎は影の薄い存在であった。
「はは~ん、さては読めたぜ。お父っつぁんが余所に女をこさえて、それがおっ母さんにバレてすったもんだの挙げ句、お父っつぁんが千両箱を持ってトンズラしたんだろ?あの美男のお父っつぁんならいつかそんな羽目になるんぢゃねえかとあっしゃ前々から睨んでたんでい」
熊五郎は想像を逞しくして樹三郎が千両箱を持ち逃げしたと決め込んだ。
『金鳥』の事情など知る由もない者には前触れもなく桔梗屋に金がなくなったのは忽然と姿を消した樹三郎に原因があると憶測するのも無理からぬことだ。
「う、うん、まあ、当たらずとも遠からずかな――」
草之介は父にとんだ濡れ衣を着せるのもお構いなしに適当に話を合わせた。
ふと、気付けば昼時で満席だというのに錦庵の店内は異様な静寂に包まれていた。
「……」
調理場では我蛇丸もハトも黙々と蕎麦を茹で、器を洗っている。
「……」
松千代と小梅はおしゃべりもせずに黙々と卵焼きを突っついている。
「……」
それどころか、店内の客がみな黙々と音も立てずに静かに蕎麦を啜っているではないか。
みながみな、熊五郎と草之介の話に興味津々と聞き耳を立てているのだ。
そこへ、
「――わ、若旦那様っ」
そんな店内の聞き耳に注意を払うこともなく女中のおクキが黙ってられぬように調理場の暖簾口から走り出てきた。
「わしは旦那様が突然いなくなった訳を知っておりまする。実は、旦那様には隠し子がおったのでござりますっ」
店中に聞こえるような甲高い声だ。
「ええっ、お父っさんに隠し子っ?」
驚きのあまり草之介も思わず大声を上げた。
「へえっ、若旦那様がお留守の間にミノ坊様と同じ年頃の旦那様に生き写しの童が出し抜けに現れまして、それから旦那様もその童もいつの間にやら姿をくらましてしまったのでござりますっ」
おクキは夢中で一息に捲し立てる。
「ほーれ、案の定でいっ」
熊五郎は自分の睨んだとおりと得意げにペチンッと膝を打つ。
「聞いた?松千代姐さん?」
小梅は澄まし顔を崩して松千代を見やる。
「こ、こら、小梅」
松千代は笑い出しそうな小梅の口に卵焼きを押し込むと自分も袂で口を押さえた。
二人は肩を震わせて笑いを噛み殺している。
どうやら二人には樹三郎の受難は大笑いしたいほどに愉快な出来事らしい。
「ごっそさん」
店内の客はみな大急ぎで蕎麦を食べ終え、ソワソワと気が逸るように錦庵を出ていった。
噂好きの江戸っ子のことだから樹三郎の浮気、隠し子、金の持ち逃げと面白可笑しく吹聴してあっという間に日本橋一帯に知れ渡るに違いない。
なにしろ、今まで話題に事欠かなかった桔梗屋だけに世間では注目の的なのだ。
その時、
「お頼う申しぁす。桔梗屋にござりぁす。盛り蕎麦を五十枚願いますぅ」
何も知らぬ小僧の千吉が暢気に出前を頼みにやってきた。
桔梗屋は三日にあげず蕎麦の出前を頼んでいるので毎度のことだ。
だが、草之介はたちまち目を三角にした。
「わしが質素倹約と言うたばかりなのに、蕎麦の出前なんぞ誰が頼めと?」
白い額にピリピリと青筋が立つ。
「へえ、先ほどお花様が踊りのお稽古から戻られて、番頭さんに若旦那様が錦庵さんにお出でになられたとお聞きになったもので、『兄さんばかりズルイわな。あたしだって昼は蕎麦がええわな』とお花様が奥様に言わしゃって――」
千吉は素直にペラペラと聞いたままを話した。
「お花の奴か。娘っ子のくせに何でもわしと同じようにしたがって生意気なっ」
草之介は八つ当たり気味に腹を立てた。
毎夜の茶屋遊びで蜂蜜とちんちんかもかもとご機嫌だった頃はこんな些細なことで腹を立てる性分ではなかったのだが、すっかり草之介は余裕を失っていた。
「まあまあ、短気はよしねえ。『色男、金と力はなかりけり』ってな。草さんもこれでようやく人並みの色男になったってことだあな」
熊五郎なりに親身に草之介を宥めると、
「よしっ、あっしに任せとけいっ。今晩の茶屋遊びはあっしの奢りでいっ」
熊五郎はポンッと太っ腹を叩いた。
「く、熊さん、ホントかい?」
草之介はたちまち目を輝かせる。
茶屋遊びに行けさえすれば普段の穏やかな草之介にコロッと戻るのだ。
「男に二言はねえやな」
熊五郎は「がはは」と笑う。
「……」
(なにもそう威張るほどのことぢゃあるまいにさ)と松千代も小梅も心の内で思っていた。
今までさんざっぱら草之介の奢りで茶屋遊びしまくっていた熊五郎なのだ。
「あのう、蕎麦の出前は?」
小僧の千吉は困ったように訊ねる。
「出前はならん。帰ってそう伝えておけっ。だいたい錦庵さんへ年の瀬の払いだって出来ぬかも知れんのだからなっ」
草之介はつい口走った。
「えええっ?」
ボチャンッ。
調理場のハトはビックリして洗っていた丼を水桶に落とす。
桔梗屋は三日にあげず出前の盛り蕎麦五十枚を届けていた上客だけにツケを踏み倒されたら錦庵はとんでもない赤字になる。
桔梗屋の金欠状態はひいては日本橋一帯の店の売上に直結する一大事なのだ。
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