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風樹の嘆
しおりを挟む一方、
「サギさぁん?裏に甘酒屋さんが来とりますがあ?」
下女中の呼ぶ声が通りまで聞こえてきた。
「あっ、甘酒ぢゃ。そいぢゃなっ」
サギはバッと立ち上がり、並び屋の男二人と別れて桔梗屋の裏木戸へ走った。
トクトク――、
「おっとっと」
サギは買った甘酒を湯呑みに溢れんばかりに注ぎ、グビグビと飲んで早くも小休止する。
下女中の五人は誰も甘酒に手を付けない。
「――ん?何で飲まんのぢゃ?美味いぞ」
サギが酒徳利を突き出す。
「へえ、うちの子が手習い所から帰ってからオヤツに一緒に」
下女中はみな子持ちなので桔梗屋で出されたオヤツは自分は手を付けず子等に取っておいた。
この間の粟餅も持ち帰っていたらしい。
「なんぢゃあ。みんな、子は何人おるんぢゃ?」
奉公で家から出た子を除くと下女中の子は合わせて七人いるという。
「よしっ、七人ぢゃな?今度はみんなの子等の分までオヤツを買うてくるからのう」
サギは気前良く言った。
美味しいオヤツはみなで食べなくてはならない。
そこへ、
「薪はいらんかい?」
まきざっぽうの束を背負った童が台所の水口へやってきた。
小僧の千吉と同じくらいの年頃だ。
「ああ、杉作。そこへ置いとくれ」
杉作と呼ばれた童は背負子を下ろして縄結びを解き、土間にまきざっぽうの束を置いた。
「今、番頭さんに薪の代金を貰ってくるから」
おタネもおクキもいないので下女中の一人が店の棟まで薪代を貰いにいく。
「へ?薪の代金?江戸では薪を買うのかっ?」
サギは驚いて目を丸くした。
そこらじゅう薪になる木々に覆われた富羅鳥山では薪を買うなど考えられない。
「そりゃあ江戸の町にゃ薪にする木なんぞ、そんじょそこらに生えてやしないからね」
下女中はケラケラと笑って杉作は川向こうの農村の雑木林から薪を割って運んでくるのだと説明した。
「ほれ、一束が四文だから五束で二十文」
戻ってきた下女中が四文銭五枚を杉作の手のひらに乗せる。
その手のひらも黒く汚れて薪を割るので出来るマメだらけだ。
「へ?一束がたったの四文っ?」
サギは呆れたように言った。
「さっきは『薪を買うのかっ?』と言うたくせに」
杉作は皮肉っぽく笑ってサギを見やった。
「ぢゃって、薪割りして農村から重たい薪を背負ってきて、たったの二十文ぢゃろ?今日は施しの日ぢゃから手ぶらで来たって百文も貰えるんぢゃぞっ?」
サギは身軽にぞろぞろとやってきた人々に百文束を配ったばかりなのでどうにも納得いかない。
「ふん、誰がそんなみっともねえことするかい。施しを貰う奴等はただの怠け者だっ」
杉作は怒ったように吐き捨てる。
「ほお~」
サギは杉作の剣幕に気圧された。
「だいたい施しを配っとるのは給金をまだ貰えん小僧さん等ぢゃないか。そんな小僧さん等から施しを受け取る奴等は恥知らずだっ」
たしかに言われてみれば、せっせと働いている小僧から施しを受け取っていたのは大の大人の男ばかりであった。
日本橋では大店のほとんどが毎月の施しの日をやるのでほぼ毎日のようにどこかの大店で施しが配られている。
今日は桔梗屋、明日は伊勢屋、明後日は丸正屋という具合に毎日、施しだけで食べるには困らない。
だが、施しを貰うのは怠け者のろくでなしの遊び人などと蔑まれ、とてつもなく恥ずべき事とされていた。
杉作のように童でも日銭を稼げるのが江戸の町なのだ。
よくよく見れば杉作は小作の子にも見えぬ利発そうな目をしている。
「そいぢゃ、おいらはまだ薪を運んでくるんで忙しいから。毎度、ありがとうござります」
ペコリと頭を下げると杉作は空の背負子を肩に担いで水口から出ていった。
「へええ」
サギはなんとなく感動して杉作の背を見送った。
江戸へ来てから初めて地にしっかと足が付いた者に出逢ったような気がする。
「あの杉作は元々は森田屋という材木問屋の一番番頭の倅だったんですよ」
「それが三年前に火事で森田屋が丸焼けになって主人一家も奉公人もみんな亡くなっちまって」
「杉作は母親のお桐さんがお産のために郷里の農村へ一緒に帰ってたんで運良く助かったんだわさ」
「爺さん婆さんにお桐さんと小さい妹では一番の働き手があの杉作なんですよ」
「あの火事さえなきゃ今でもこの日本橋で家族揃って安気に暮らしてただろうに。まったく不憫な子だよ」
下女中の五人が杉作の身の上をサギに話して聞かせた。
杉作のことは三年前まで下女中の子等と一緒に手習い所へ通っていたのでよく知っているのだ。
「――甘酒っ」
サギは甘酒の酒徳利に目を留めるとバッと鷲掴みにして、
「杉作、待ていっ」
台所の水口から駆け出ていった。
「まあ、サギさん、もう間に合やしないよ」
サギが下女中から杉作の身の上を聞いているうちに当の杉作はとっくに遠くまで進んでいる。
川向こうの農村と聞いたのでサギは江戸橋へ向かって日本橋の通りの人混みを突風のごとく走り抜けた。
「杉作ぅぅぅ」
恐るべき俊足のサギが江戸橋まで来ると、橋向こうに背負子を担いだ杉作が足を止めて振り返るのが見えた。
スタターッ、
サギは瞬く間に橋を渡って杉作の目の前でピタッと立ち止まる。
「な、何で、そんなに足が速いんだっ?」
杉作は信じられぬようにサギを見た。
「足が速いのは生まれつきぢゃ。ほれ、甘酒ぢゃっ」
サギは酒徳利を杉作の鼻先へ突き出す。
「……」
杉作は生唾ゴックンと酒徳利を見つめてから、
「いらんっ」
甘い誘惑を振り切るように前へ向き直って歩き出した。
「お前がいらんならお前の妹に持っていくからええ」
サギは独り決めして杉作と肩を並べて歩き出した。
杉作の農村まで付いていく気満々だ。
「ふん」
杉作も付いてくるなとは言わない。
サギにちょっと興味を持ったようだ。
「わしはサギぢゃ。サギと呼んでええぞ。桔梗屋の菓子職人見習いぢゃ。杉作の農村はどこなんぢゃ?」
サギが菓子職人見習いの仕事をしたことなどまだ一度たりともない。
「おいらの村は小松川だ」
小松川は現在の東京都江戸川区だが江戸時代は荒川の向こうは江戸の外側である。
「あ、知っとる。小松菜を作っとるところぢゃな?」
サギは錦庵のしっぽく蕎麦に入っている小松菜を食べた時に聞いた覚えがあった。
八代将軍の吉宗が小松川へ鷹狩りに訪れた時に寺の御膳所で食した菜っ葉が美味であったので小松川の菜っ葉で小松菜と安直に名付けたのである。
「今の時季は作っとらん。葉月から翌年の如月まで畑は休みだ」
「休み?何でぢゃあ?」
サギがキョトンとすると、杉作は「物知らずだなあ」という顔でサギを見た。
「小松川は将軍様の御鷹場だ。葉月から如月の間は鷹狩りの時季だから畑はやらん決まりなんだ」
将軍様の鷹狩りの都合で今の時季は農作業が出来ぬゆえ杉作は薪を売って稼いでいるのだ。
「わしの富羅鳥山も御鷹場なんぢゃぞ。わしゃ鷹とも仲良しなんぢゃっ」
サギは得意げに言う。
「へえ、おいら、鷹は大好きだ。ヒュウッと飛ぶ姿はなんとも勇ましいよ」
話をしている間にもう二人は小松川の雑木林まで辿り着いていた。
「う~ん、木々のええニオイぢゃあ」
サギは酒徳利を掴んだまま両手を突き上げスーハースーハーと深呼吸した。
山育ちのサギは緑に覆われた中にいるとホッと落ち着く。
思えば、このところずっと桔梗屋で菓子の焼ける甘ったるいニオイばかり嗅いでいたのだ。
木漏れ日のまだら模様に影の射す林道を良い心持ちで歩いていく。
ほどなくして前方に大きな農家が見えてきた。
「おいらんちだ」
杉作の父は材木問屋の一番番頭であったので女房の実家を立派に建て替えたのだ。
「お父っさんが仕入れた材木で建てた家だ」
杉作は胸を張って鼻の下をゴシゴシこする。
自慢しながらも亡き父を思い出して鼻の奥がツーンとなったらしい。
「なんぢゃあ。わしの富羅鳥山の小屋よりもずうっと立派な家ぢゃあ」
サギは見るからに質の良い杉の柱で建てられた堂々たる農家を仰ぎ見た。
こんな大きな農家の杉作に「施しの日ぢゃから百文も貰えるんぢゃぞっ?」とは、とんだ失言をしてしまったものだ。
杉作は切り株の上に丸太のぶつ切りを乗せて薪割りを始める。
パカーン、
パカーン、
「わしにも割らせろ。薪割りは得意なんぢゃっ」
とにかくサギは身体を動かすことがやりたい。
もう一本の斧を借りてサギも隣の切り株で薪を割る。
「それっ」
「うりゃっ」
パカーン、
パカーン、
順番に斧の振り下ろしていると目黒の粟餅屋で美男侍と一緒に餅搗きをしたことが思い出される。
そういえば、目黒も将軍様の御鷹場だ。
「一日に何べん薪を江戸へ持っていっとるんぢゃ?」
パカーン、
「五度だ」
パカーン、
それなら一度に五束で二十文なので、ちょうど一日に百文を杉作は薪売りで稼いでいることになる。
同じ百文でも施しの百文とは大違いだ。
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