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今日は何の日
しおりを挟むあくる朝。
「やっぱり、朝は納豆ぢゃのう」
サギは丼鉢の納豆をネッチャネッチャと掻き混ぜて大盛りのご飯にボッテリと掛けた。
カスティラの耳は大根おろしを添えて醤油で食べる。
味噌汁の実はこれからが旬のさつま芋。
日本橋名物のべったら漬けは桔梗屋の朝ご飯の膳には必ず出てくる。
「う~ん、美味いのう」
朝昼晩と美味しいご飯が食べられるだけで桔梗屋へ来てホントに良かった。
今日もサギは朝から食欲旺盛だ。
「――おや?草之介はまだ寝とるのかえ?」
お葉は訝しげに首を捻る。
昨日から草之介は改心し、真っ当な若旦那となって商いに励むはずではなかったか?
それが、いつもどおりに惰眠を貪って朝寝とは。
「あにさんはひるまでねとるわな」
五歳のお枝が物心付いてから草之介はとうに朝寝であった。
「夕べはみんなで布団に飛び乗って遊んで大騒ぎしとったのに兄さんはぐっすり寝とったんだな」
「兄さんは毎晩、料理茶屋でドンチャン騒ぎしとったから騒がしいのはへっちゃらなんだわな」
実之介とお花はどうせ兄の草之介が真面目に商いに励むなど昨日一日だけの気まぐれだと思った。
そこへ、
「あ、あの、お嬢様?」
一番番頭の平六がなにやら焦った様子でやって来て縁側から茶の間へ声を掛けた。
「なんだえ?朝っぱらから」
お葉はべったら漬けを二、三枚もいっぺんに口の中へ放り込む。
「ボリボリ」
番頭こそがお葉が幼い頃の遊び相手の小僧だったのでお転婆を知られているだけに気兼ねなく漬物だって軽快に音を立てて齧る。
「いやはや、どうも、若旦那様が年の瀬まで千両箱を開けてはならぬと言われた昨日の今日で、たいへん申し訳ないことにござりますが、うっかりしておりまして、今日は施しの日でござりまするが――」
平六はしどろもどろに恐縮する。
「あっ、ほんに、そうだったわなあ」
お葉もうっかりと忘れていた。
「――?施しの日って何の日ぢゃ?」
サギは女中のおクキにおかわりの茶碗を突き出しながら訊ねた。
「へえ、施しの日というのは、施しをする日にござりますわいなあ」
サギの茶碗を盆で受け取るとおクキはさっさと台所へ行ってしまう。
今日も錦庵へ手伝いに行くのでおクキは朝ご飯の後片付けを早めに済ませて身支度を凝らしたいのだ。
おクキの答えはおおざっぱ過ぎるので説明すると、
江戸の大店では月一度、施しの日というものがある。
毎月、大店ごとにそれぞれ日にちを分けて何日は何々屋というように施しの日を決めていた。
施しの日には貧しい人々が施しを貰いにやってくる。
江戸の町に来れば取り敢えず飢え死はせぬと言われたのも大店がこのように施しをしていたからである。
「銭を数えるのが面倒なので桔梗屋では一人に百文ずつ配るんでござりますわいなあ」
おクキが大盛りご飯をよそって戻って来て茶碗をのせた盆をサギに差し出す。
ちなみに百文で蕎麦六杯と大福一個が食べられる。
「ほお、施しを貰いに来る人は何人くらいなんぢゃ?」
サギは大盛りご飯にまた納豆をボッテリと掛ける。
「だいたい三百人ほどにござりますわいなあ」
「三百人っ?」
サギはのけぞった。
のけぞった分だけ茶碗から箸まで納豆がピロ~ンと長く糸を引いた。
百文を三百人に配るとなると締めて六両だ。
「まあ、うっかりして銭の用意をしとらんわなあ。今、小判を出してくるから急いで両替してきておくれ」
お葉は茶の間を出て縁側を小走りして奥の棟へ向かった。
「ひい、ふう、みい、よ、いつ、むう」
仏間の戸棚の千両箱から一両小判を六枚、取り出す。
千両箱を開けてはならぬどころか年の瀬まで毎月毎月、施しの日に出さなくてはならぬのだ。
千両箱の小判は残り二百七十二両。
チーン。
「いってまいります」
朝ご飯が済むと、いつもどおりに乳母のおタネが付き添ってお花は稽古へ、実之介とお枝は手習い所へ、女中のおクキは三番目に良い着物に着替えて錦庵へと出掛けていった。
「それにしても、草之介はまだ起きてこんとは」
お葉は縁側の外に目をやってはイライラと気を揉んだ。
草之介が真人間になったと自分も番頭等も嬉し涙まで流したというのに。
昨晩は目出度いの鯛で祝ったというのに。
その草之介が早くも今日は朝寝して若旦那の勤めを怠るなど有り得ようか。
「よしっ、わしが叩き起こしてやるっ」
サギはバッと立ち上がって茶の間を出ると縁側をズンズンと進んでいく。
「ああ、助かるわなあ」
お葉は頼もしげにサギの背を見送った。
十九歳にもなる道楽息子はもうお葉の手に余っていたので、この際、サギが頼りなのだ。
「草之介の寝間はどこぢゃあっ」
サギは縁側をドスドスと進みながら怒鳴った。
まるで「悪い子はいねがあ」のなまはげの調子だ。
庭に面した座敷が寝間とは聞いたが、桔梗屋はやたらに広いので座敷が幾つもある。
「どこぢゃあ?出てこんかあっ?」
まるで借金取りのゴロツキが家捜しをするかの調子で座敷の障子を乱暴に次々と開けていく。
バッ、
バッ、
何枚目かの障子を開くと、
「グカ~――」
草之介が大の字で掻巻布団から手足を突き出して高イビキを掻いて寝ていた。
「こらあ、起きんかあっ」
サギは猿のように飛び上がって布団の上からバッと草之介に馬乗りになると横っ面をバシバシと情け容赦なくひっぱたいた。
「叩き起こしてやる」と言ったのは比喩ではないのだ。
「いっ、たっ、なっ?何をするっ」
さしもの優男の草之介でもいきなり馬乗りで顔をひっぱたかれては怒声を上げる。
「きさまを起こしとるんぢゃあっ」
サギは布団を引っ剥がし、草之介の寝間着を引っ剥がそうと襟首をむんずと掴んだ。
「な、なんという狼藉を――」
草之介は脱がされまいと必死に寝間着を押さえて初な生娘のようなか細い声を出した。
「お前が寝坊助ぢゃから悪いんぢゃっ。早よ起きんかあっ」
サギにしてみれば幼い頃から鬼のシメに同じように手荒に起こされていたので何でもないことだ。
「おっ、お前っ――む、ぐ――っ」
「お前などクビだ。今すぐ出ていけっ」という言葉を草之介はグッと堪えて呑み込んだ。
サギには内密の書状の代筆をして貰わねばならぬのだ。
「――サギどん?今日はこれから例の書状を書いておくれだろうね?」
草之介は肩がはだけた寝間着の襟を掻き合わせて無理くりに平静を装って訊ねた。
「うんにゃ。わしゃ今日はみんなと一緒に施しを配るから忙しいんぢゃ」
サギはあっさりと答えて寝間から出ていこうとする。
「な、なにっ?お前、『合点承知の介っ』と引き受けたではないかっ?早よ書いてくれんと困るんだよっ」
草之介は片膝立ちになってサギの袖を掴んで引き留める。
「ぢゃって、今日が施しの日と知らんかったんぢゃっ」
サギは邪険に草之介の手を振り払う。
カスティラより重いものを持ったことがない、改め、五百両より重いものを持ったことのない軟弱な草之介はサギに払われた勢いで無様にひっくり返った。
サギはひっくり返った草之介に目もくれず縁側を走り抜けて店の棟へ向かった。
店の裏側の板間では奉公人が総出で施しの百文の束をせっせと半紙に包んでおひねりにしている。
サギにとって施しの日は三百人もの人々がやってくるという珍しい催しなので施しを配るのが楽しみなのだ。
「――む、むう」
草之介の堪忍袋はムクムクと膨らんだ。
妹のお花も弟の実之介も自分を馬鹿にして生意気で小憎らしいがサギはそれ以上だ。
しかし、どうしても内密の書状を書いて貰わねばならない。
「――ならぬ堪忍、するが堪忍――」
草之介は口の中でブツブツと念仏のように唱えた。
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