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見目は果報の元
しおりを挟む一方、
その昼近く。
「ええ?ホントに?サギはホントに目黒まで馬で粟餅を買いに行ったのかえ?」
お花は目を丸くして女中のおクキに訊き返した。
おクキが長唄の稽古のお花を迎えに来てサギと粟餅と目黒の一件を話して聞かせたのだ。
「朝五つ半頃に飛び出して行ったきりにござりますゆえ、なんとも――」
おクキはお花の三味線の袋を抱え持ち、困り顔で首を振る。
もうサギが桔梗屋を出てから一時(約二時間)以上も経っていた。
「大伝馬町の伝馬役所へ寄って訊いてみたら分かるわな?」
お花は長唄のお師匠さんの家を出ると桔梗屋のある本石町とは逆へ向かった。
「へえ、大伝馬町へ寄るくらいなら」
物見高いおクキは稽古帰りの寄り道にも喜んで付き添っていく。
長唄のお師匠さんの家は小舟町の端ですぐに大伝馬町だ。
「ご免下さりませ」
お花が鈴を転がすような美声で伝馬役所の表玄関に声を掛ける。
若い娘が訪れることなどおよそない場所だ。
「おおお?」
伝馬役人、番頭、手代、人足は一斉に「まさか?」という表情でお花に注目した。
馬と日焼けした下帯姿の人足と積まれた荷のドドメ色の役所の中にお花の姿はパアッと薄紅色の一輪の花が咲いたかのようだ。
小町娘と評判の美しいお花を間近に見て、みな一様にソワソワと色めき立つ。
そこへ、
お庭番の八木明乃丞が奥から出てきた。
伝馬が無事に返されるまでは心配でサギの帰りを待っていたのだ。
八木はお花の姿を一目見るなり、
「ああぁぁぁぁ」
我知らず震え声を上げた。
その震え声も普段の倍は震えていた。
予てより八木は美しい小町娘に並々ならぬ憧れを抱いていたのである。
実は八木が小町娘に憧れていたのには訳があった。
それは、八木が江戸城へ小十人格お庭番として出仕して間もない頃、
江戸谷中の笠森稲荷の門前の茶屋にお仙という美人で評判の茶屋娘がいた。
有名絵師に描かれた笠森のお仙を見たさに茶屋には客が押し寄せた。
お仙の人気は絶大で、美人画に描かれ、お仙人形が売られ、流行り唄にも唄われ、歌舞伎にも取り上げられ、江戸の町には空前のお仙旋風が吹き荒れたのだ。
八木はお仙より二歳ばかり年下であったが他の若侍と同様にお仙に熱中していた。
だが、人気絶頂の最中、お仙は二十歳になると忽然と茶屋から姿を消した。
様々な憶測が噂され、神隠しかとまで騒がれたが、
なんのことはない、お仙は世間へは知らせずに嫁に行ってしまったのだ。
そのお仙を嫁にしたのは誰あろう八木と同じお庭番家筋であるお庭之者支配の倉地政之助であった。
紛らわしいが倉地政之助はお庭番の家系ではあるがお庭之者支配はお庭番ではない。
ともあれ、お仙は茶屋娘から武家の嫁という玉の輿に乗ったのである。
夫婦仲はすこぶる良好でお仙も今や四人目か五人目の子が直に産まれるという良妻賢母だ。
八木は倉地政之助が羨ましく、是が非でも自分もあやかって小町娘と謳われるような美人の嫁を貰いたいものだと夢に描いていたのであった。
そして、今、
その夢がまさに目の前に立っているではないか。
さすがに天下の日本橋の小町娘だけあってお花の美しさはキラキラと眩いほどだ。
「ああぁぁぁぁ」
八木は感激のあまり震え声だけでは収まらず、ついには全身にまで震えが移ってきてしまった。
「なあ?おクキ?あのお侍さんは何でさっきから震えながら山羊の鳴き真似なんぞしとるんだろの?」
お花は気味悪そうに八木を見て、コソッとおクキに囁いた。
「さあ?わしのような下々の者がお武家様のなさることなど皆目見当も付きかねまするが――」
おクキもコソッと答える。
「ええと、お荷物は?どこぞへ送るので?」
手代がニコニコと揉み手をしながらお花に訊ねた。
当然ながら伝馬を利用する手続きのために訪れたと思ったのだ。
「あっ、いえ、あの――」
お花が慌ててサギのことを訊ねんとした矢先、
パッカ、
パッカ、
早馬の駆ける蹄の音が近付いてきた。
「あれは?ひょっとして?」
お花とおクキは同時にクルッと振り返る。
パッカ、
パッカ、
サギが尻尾のような黒髪をなびかせ、黒鹿毛と共に伝馬役所の冠木門へ向かって突進してきた。
「――っ?」
お花は驚嘆して目を見張る。
サギの正体が『くノ一』などとは知る由もなく早馬の勇姿が信じられぬのだ。
「どうどう」
サギは徐々に速度を落としながら冠木門を抜け、手綱をクイッと軽く引き、表玄関の前に速やかに馬を止めた。
「おお、馬の止め方も実に見事なもの。大抵は力任せに手綱を引いて興奮した馬に引き返され、馬が落ち着くまでバタバタと止まらぬものだが」
伝馬役人はまたもサギの馬術に感心する。
「たっだいまっ」
サギは粟餅の籠を抱えて、鞍からピョンと地べたに飛び下りた。
「きゃあ、サギっ。どうしてそんな見事に馬に乗れるんだわなっ」
お花は小町娘としての外面も忘れて興奮気味にバタバタとサギに駆け寄る。
「あれ?お花、何でこんなところにおるんぢゃ?」
サギはキョトンとしてお花を見返す。
「サ、サギ殿ぉぉぉ」
八木も興奮気味にサギに駆け寄ってきた。
「ええ?こちらのお侍さんはサギのお知り合いなのかえ?」
お花はまさかサギが武士と知り合いとは思ってもみなかったのであたふたした。
先ほど八木のことを気味悪そうに見てしまったので決まりが悪い。
「それがしは八木明乃丞と申す若輩者に存じまするぅぅ。何卒、何卒、お見知りおきをぉぉ。錦庵へは蕎麦を食しに頻繁に参りまするゆえ、サギ殿とも顔馴染みにぃぃ」
八木はサギとの密命の繋がりを適当に取り繕った。
「まあっ、ちっとも存じ上げずご無礼を致しました。桔梗屋の娘、花と申します」
お花は淑やかにお辞儀してからニッコリと愛想笑いしてみせる。
「あぁぁぁぁぁぁ」
八木は感激でまた震え声を上げながら全身を震わせた。
そうこうして、
「とにかく、断りもなく伝馬に乗っていかれては困りまするな。八木様のお知り合いでなければ馬泥棒と見做すところにござりましたぞ」
サギは帰る早々に伝馬役人に叱られた。
「え~?わしゃ、ちゃんと『借りるぞ』って言うたぞっ」
サギに反省の色なし。
猿よりも反省しないのがサギだ。
「まあ、けど、八木殿に伝馬の貸銭を払わせてしもうたのはすまんぢゃあ。わしゃ、もう粟餅を買うて懐がスッカラカンなんぢゃ。これ、粟餅ぢゃ。食うてくれ」
サギは伝馬の貸銭を粟餅で誤魔化すことにする。
八木に粟餅二つ入りの竹皮包みを渡し、
「ほれ、お前さんにも粟餅ぢゃ。まだヌクヌクぢゃぞ」
黒鹿毛の世話をしている人足にも粟餅の竹皮包みを渡す。
「うほ、こりゃ美味いっ」
人足はさっそく腰を下ろして粟餅を頬張り、
「んぐ?この馬草鞋はあっしが履かせたもんぢゃねえな。行った先で新しく取っ替えたんかい?」
目の前で水を飲んでいる黒鹿毛の馬草鞋をまじまじと見た。
たしかに馬屋の柱にぶら下がった新しい馬草鞋と比べて黒鹿毛が履いている馬草鞋は縁取りに金地を織り込んだ上等な物だ。
「へ?馬草鞋?わしゃ、取り替えんぞ」
サギはブンブンと首を振ってからハッと気付いた。
(あの美男侍ぢゃ)
美男侍がお供に粟餅屋まで馬を引かせた時に黒鹿毛の馬草鞋を取り替えておくようにと命じたに違いない。
サギが満福屋の行列で「こりゃつく、やれつく♪」と猿踊りで唄っている間のことだ。
早馬で馬草鞋がくたびれて緩んだために蹄に石コロが挟まったので美男侍は新しい馬草鞋に取り替えさせたのであろう。
(む~ん、美男侍。さすがぢゃあ)
サギは抜かりなしの気配りの美男侍に畏れ入った。
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