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三幕 桔梗屋の卵
しおりを挟むそんなこんなで思いもよらずお江戸日本橋の大店、桔梗屋でサギの新しい暮らしが始まった。
「わしゃ、今日から桔梗屋の菓子職人見習いになったサギぢゃ。サギと呼んでええぞ」
サギは桔梗屋の作業場で偉そうな挨拶をした。
今更、自己紹介せずとも熟練の菓子職人の四人はカスティラ斬りの時でサギの印象は強烈に残っている。
「ああ、そいぢゃ、カスティラを切り分ける時に呼ぶから待っちょれ」
熟練の菓子職人の糖吉にあっさりとそう言われ、
「うん~」
サギはつまらなそうに返事して作業場を手持ち無沙汰にウロウロとした。
「わしは見習いの甘太だっ」
菓子職人見習いの若衆の甘太だけはサギのカスティラ斬りの時はお盆の宿下がりで郷里へ帰っていたので顔を合わせるのは初めてだ。
見習いの甘太は先ほど荷車で届いたばかりの木箱から卵を取り出している。
木箱にぎっちり詰まったもみ殻の中に卵は丁重に収まっている。
見習いの甘太が竹籠に十五個ずつ入れた卵を四つの作業台へ配ると、
熟練の菓子職人の四人は卵を割っては白身と黄身に分け始めた。
「わしも卵、割るっ」
サギは面白そうだと意気込んで竹籠の卵に手を伸ばす。
だが、
「くぉらっ、卵は貴重なんだで触るでねぇっ」
ペシッ!
熟練の菓子職人の糖吉に手の甲をひっぱたかれた。
「いてっ」
サギは慌てて手を引っ込める。
忍びともあろう者がこんな爺に手を叩かれようとは油断していた。
「見習いはバシバシと叩かれるでな。勝手なことをしちゃいかん。特に卵は丁重に丁重に扱うんだ」
見習いの甘太がサギを作業場の隅っこに引っ張っていって声を潜めて注意した。
「うん~」
サギはシュンとして熟練の菓子職人の作業を後ろに手を引っ込めて首だけ突き出して眺めた。
熟練の菓子職人でも卵を白身と黄身に分けるのに息を詰め、真剣そのものに厳しい目付きだ。
蕎麦が十六文の時代に卵は一個で二十文と高価であった。
桔梗屋では川向こうの養鶏農家に放し飼いの鶏の産んだ卵を届けて貰っている。
自然に飼っている鶏はたまにしか卵を生まぬので卵は貴重なのだ。
その養鶏農家も桔梗屋の昔の番頭の農家である。
商家の番頭は概ね勤続三十五年ほどで定年退職になる。
退職後は独立して退職金で自分の店を持つか、郷里へ帰って退職金で農地を買い小作人を雇って悠々自適に暮らすかのほぼニ択である。
しかし、桔梗屋のような菓子屋の場合、菓子職人がいないと店は出せぬゆえ定年退職した番頭はほとんどが郷里へ帰って退職金で農地を買った。
桔梗屋では菓子職人には定年退職がないので、桔梗屋のように給金が高く、良質の高価な材料を使う店を辞めてまで独立する菓子職人はいない。
江戸時代は同業他店に転職することは出来ぬ決まりなので有能な奉公人が他店に引き抜かれるということもない。
そういう訳で桔梗屋では定年退職した番頭三人が郷里へ帰って営んでいる三軒の農家に鶏の飼育を委託して卵を調達していた。
なにしろ、番頭は十歳ほどの小僧の年齢から定年退職まで一つの店で奉公しているのだから商家と番頭は並々ならぬ信頼関係がある。
桔梗屋では先代の弁十郎と番頭との間の信頼関係であった。
チャカ、
チャカ、
チャカ、
チャカ、
熟練の菓子職人の四人が各々の作業台の前でひたすら卵の白身を掻き混ぜ始めた。
(つまらん~)
サギは白身を掻き混ぜる地味ぃな作業など見飽きてしまった。
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