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焼きイカ
しおりを挟む「おぉ~」
サギが桔梗屋の裏木戸から通りへ出ると、
水溜まりはだいぶ面積が減ってあちらこちらに小島のように地面が見えている。
まだ空は明るい。
水溜まりに曇り空が映っている。
さっきは文次の背中で逆さまになって空を見ながら来たので地面には気付かなかった。
「綺麗ぢゃなあ」
山育ちのサギには見たことのない水溜まりの空だ。
チチ、
バサ、
バサ、
水溜まりにサギの頭の上を飛んでいく雀が映る。
サギが飽きもせずに水溜まりを覗いていると端っこに一番年長の小僧の一吉の顔が映った。
「あれ、一吉どん、お使いか?」
振り返ると一吉が後ろから歩いてきた。
「ああ、わしはこれからを焼きイカを買いに行くんだ。旦那様の好物で奥様に頼まれたんだ」
「へえ、焼きイカ?わしも行くっ。まだ早いからな。家に帰ってもつまらんのぢゃ」
「わしもサギさんが一緒なら愉しいや。こんな水溜まりを一人でお使いに行くのはつまらんからさ」
サギと一吉は一緒にピョンピョンと水溜まりを飛びながら進んでいった。
「わしゃ、ホントはな、サギさんと同い年なんだ」
だしぬけに一吉が実年齢を明かす。
「へえ?」
「生まれたのが酉年の大晦日だったんで、そいぢゃ、あんまりだからって、明けて戌年の元日の生まれにして届けたんだ」
「なぁんぢゃ、わしは酉年の長月半ばの生まれぢゃからな。三月半しか変わらんのか」
「ああ、三月半しか変わらん」
数え年だと生まれた年が一歳で翌年の元旦に二歳になる。
実際は大晦日生まれの一吉の場合、生後二日で二歳になってしまうことになる。
それで、年の暮れに生まれた子を翌年の生まれに変えて届けるのはよくあることであった。
サギは数え年では十五歳だが誕生日で年を取る方式だと文月の今はまだ十三歳である。
このように数え年では生まれ月によって二歳も差が出来てしまうのであった。
一方、桔梗屋の奥の間では、
「今、小僧の一吉にお前さんの好きな焼きイカを買いに行かせましたわなあ」
お葉が九歳ほどの樹三郎の機嫌を取るように言った。
だが、
「焼きイカだと?こんな歯で食えると思うか?」
九歳ほどの樹三郎はさらに不機嫌さを増して歯を剥いてみせた。
前歯がみそっ歯だ。
「あれまあ、ちょうど大人の歯に生え替わりの時期だったんですわなあ」
お葉はみそっ歯を見て暢気そうに笑う。
「笑い事ではない。わしは噛みごたえのある物が好きなのだ。こんな歯では何も美味いものが食えんっ」
九歳ほどの樹三郎は身から出た錆とはいえムシャクシャと苛立った。
社交的な樹三郎は毎晩毎晩、料理茶屋で取引先の旦那衆と贅沢に呑めや唄えやでドンチャン賑やかに遊んでいたので家に引きこもって暮らすのは苦痛で堪らない。
「退屈でしょうから貸本屋さんから本を借りましたわなあ。殿方に人気の読み物だそうですえ」
お葉は貸本屋の文次から借りた本二冊を手渡す。
『長枕褥合戦』
『痿陰隠逸伝』
明和に刊行された平賀源内の荒唐無稽の架空の男根競技会(?)を描いた猥褻な読み物である。
「うぅむ、なんという不埒な題名だ」
九歳ほどの樹三郎は眉をひそめて不承不承に本を繰った。
「お茶を淹れますわなあ」
意外に樹三郎が本に熱中しているのでお葉はホッとした。
明日の夜の草之介と『金鳥』の引き換えに樹三郎が出掛けられぬことはお葉には都合が良かった。
お葉が富羅鳥の忍びに協力していることも樹三郎に話すつもりはない。
草之介の無事のためには富羅鳥の忍びに任せることが何よりも得策だと信じていた。
小判がザクザクの打ち出の小槌に等しい『金鳥』を手離せば、とたんに桔梗屋が衰退することは目に見えているが、それも覚悟の上だ。
お葉としては草之介が無事ならば桔梗屋の行く末もどうでも良かったのである。
さて、川沿いには川涼みの客相手の様々な食べ物の屋台の並んだ一角があった。
江戸の町は男の八割が独身なので、仕事帰りに仲間とこんな気軽な場所で晩飯を済ませる者が多いのだ。
稲荷寿司、
二八蕎麦、
おでんと茶めし、
天麩羅、
鰻、
串団子、
焼きイカ、
大福餅、
麦湯、
水菓子、等々。
どの屋台も親父か爺さんだが、麦湯の売り子だけは浴衣姿の色っぽい娘だ。
「んふぃ、醤油のジュウジュウ焦げる香ばしいニオイぢゃあ」
サギは首を伸ばして鼻をヒコヒコさせる。
数ある屋台の中でも焼きイカのニオイが他を圧倒して強く漂ってくる。
「焼きイカ、三十六枚おくれ」
小僧の一吉が焼きイカの屋台の爺さんに注文する。
「うひょっ、こりゃ桔梗屋の小僧さんっ。三十六枚、まいどっ」
焼きイカ屋の爺さんは大袈裟に躍り上がって喜びを全身で表した。
雷雨で一時休業した後なので三十六枚も売れたら喜びもひとしおであろう。
「わしゃ十枚おくれ」
サギも注文する。
「へいっ、十枚、まいどっ」
爺さんは捻り鉢巻きをキュッと締め直し、気合いを入れると串刺しのイカをどんどんと並べて焼き始めた。
ちなみにこの時代は五十歳くらいから爺さん婆さんと呼ばれる。
サギと一吉は縁台に座って焼きイカが焼き上がるのを待つ。
「三十六枚なら、みんなの分もあるんぢゃな?」
「ああ、やっぱり焼きイカみたいな屋台の安いものはいっぱい買わんと桔梗屋として恥なんぢゃなかろうか」
江戸っ子は見栄っ張りなので「ケチ」「しみったれ」と他人に思われるほど恥ずべきことはない。
桔梗屋はいつも大量に買うので小僧はどこへお使いに行ってもチヤホヤされて気分が良かった。
今も背後の屋台から聞こえよがしの大きな話し声がする。
「やっぱり桔梗屋の小僧さんは賢そうな顔してるね」
「なんたって品があらぁな」
「あの桔梗屋の小僧さんだからね。そこらへんの小僧とは出来が違うさ」
大店の桔梗屋の小僧というだけで余所の小僧よりも格段も上の扱いをされていた。
旦那の樹三郎が常日頃から日本橋のいたるところに金をバラまいているおかげで使い走りの小僧にまでお世辞を言ってくれるのだ。
「けどさ、ちょいと旦那様の金遣いはおかしいんぢゃないかと思うんだ」
小僧の一吉でさえ樹三郎の常軌を逸した金のバラまきを懸念していた。
「まあ、わしが手代になる頃には旦那は若旦那様だと思うけど、若旦那様も何だか頼りない感じだしなあ。わしゃ、ずっと桔梗屋で奉公して番頭まで出世したいのに、あの旦那様と若旦那様では桔梗屋の行く末が不安でならん」
小僧の一吉はサギと同い年でも色々と屈託があるのだ。
「ふうん」
サギは周りの屋台も気にしてキョロキョロと目だけ動かして見ている。
斜め向かい側にある天麩羅の屋台が海老天を揚げている。
「そうぢゃ。わし、海老天を買うて、晩飯は海老天をのっけた蕎麦にしようっ」
サギはパチンと手を打って立ち上がるとピュンッと天麩羅の屋台へ走っていく。
「あっ、わしの話、聞いとらんっ」
一吉は唖然として走っていくサギの背を見送った。
そうこうして、
「へいっ、お待ちっ」
焼きイカの屋台の爺さんが竹皮に包んだ焼きイカを次々に一吉に渡した。
「そいぢゃ、熱々のうちに帰らんと。サギさん、お先に」
一吉は焼きイカを縁台に広げた風呂敷に包んで手に提げる。
「おう、またな」
サギは天麩羅の屋台の前で振り返りもせずに一吉に手だけヒラヒラと振った。
食い意地が勝って天麩羅を揚げる様子から目が離せぬのだ。
サギはしばし待って、焼きイカと海老天の風呂敷を手にぶら下げて水溜まりをまたピョンピョンと飛んでいった。
路地へ曲がると水溜まりは飛び越えるには大きい。
「やっ」
ピョンと脇の商家の塀に飛び上がる。
「よっ、ほっ」
調子に乗って飛んでいるうちに屋根まで上がってしまった。
「う~ん、ちょいと遠廻りぢゃけどな」
サギは屋根から屋根へと飛び移って錦庵まで帰ることにした。
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