56 / 312
雨上がり
しおりを挟む一方、同じ頃。
桔梗屋では、
「あぁあ、サギが遊びに来んと暇だわな。早よ、雨、やめばええのに」
お花がゴロッと寝転んで二階の窓から空を眺めていた。
雨はだんだん小降りになってきた。
「お花様?貸本屋さんが来とりまする。本でもお読み遊ばされましたら?」
おクキが襖の外から呼び掛ける。
「イヤだわな。本なんぞ読みとうない」
お花はプンプンして答えた。
一階の裏庭に面した座敷では、
「おや、お花は本は読まぬと?仕方ない子だわなあ。そいぢゃ、今日はこれだけお借りしましょうかえ」
お葉はいつもの実之介とお枝の読む本の他に奥の間に引きこもりの樹三郎のために本を何冊か借りた。
「毎度、有り難う存じまする。ついでにこんなものもいかがにござりましょう?」
貸本屋の文次は然り気なく春画を勧める。
「まあ、こんなもの」
「あれまあ」
お葉とおクキは揃って袂で顔を覆って恥じらいの仕草をした。
「いやいや、奥様、決して、いかがわしいものとしてではなく、こういうものをお武家ではお姫様のお嫁入り前の心得にと買うて渡されるんでござりますよ。今や、お武家様ではお嫁入り道具の一つとして常識にござりまする」
文次はパタパタと手を振って、もっともらしく説明した。
「まあ、お武家ではお姫様のお嫁入り前の心得に?」
お葉はハッとして、
「そういえば、うちのお花もまだまだ幼くて無知でなあ?」
思い出したようにおクキを見やる。
「へえ、ほんに。そろそろお花様にもお嫁入り前の心得がご入り用かと存じまする」
おクキは真顔で強く頷く。
「けど、まあ、わしが娘の時分にはこんなものは見たことがなかったわなあ」
お葉はチラチラと春画に目をやる。
「左様にござりましょう。こういう多色刷りの色鮮やかな錦絵が出来たのはまだほんの十年ほど前のことでござりまするゆえ」
文次は十二種類の春画を紙挟みから取り出す。
「ま、まあ、ここで並べて選ぶのも体裁悪うて何だから、一通り戴いておきましょう。この紙挟みもついでに戴けましょうかえ?」
お葉はポンと全種類の春画を買った。
「へえ、勿論。有り難う存じまする」
文次はホクホク顔で全種類十二枚の春画を紙挟みに入れて渡した。
「では、そろそろ――」
文次は書物の木箱を紺色の大風呂敷に包む。
桔梗屋では奥様の他にも番頭、手代、若衆、熟練の菓子職人とみな本を借りるので二日置きに来ては長々と居座っていた。
今日も雨が降り出す前に来て、一時(約二時間)ほど過ごし、帰る時分にはもう雨はやんできた。
「なあ?貸本屋さん?」
お花が二階から下りてくる。
本を借りる気になった訳ではない。
「なあ?貸本屋さんの住まいは錦庵の錦太郎店だえ?帰ったらサギに遊びに来るよう言うとくれな」
お花はそれを文次に言いに来ただけだ。
「へえ、そのように伝えまする。では、またどうぞご贔屓に」
文次は長四角な風呂敷包みを背負って菅笠を被ると桔梗屋を後にした。
案の定、通りはドブ鼠色の川のように見える。
着物の裾をはしょって足首まで水溜まりにジャブジャブと浸かりながら歩いていく。
魚河岸が近いせいか、たまに小魚も流れてくる。
雨上がりの日本橋はますます魚臭い風が吹いた。
「へえ、お花が遊びに来いと言うてたんぢゃ?」
錦庵の裏庭の縁側でサギは貸本屋の文次から言伝を聞いた。
「おうよ。サギ、お前、モテモテぢゃのう?」
文次は脱いだ菅笠を物干し竿に引っ掛ける。
「うん。わしゃ、モテモテなんぢゃっ」
サギは得意げに頷く。
「あらら、紙挟みに入れんかったら角がへしゃげてしもうた。サギ、これ、やるわ」
文次は書物の木箱を開けて売り物にならなくなった春画を二枚、サギに手渡した。
「うわぃ、河童と海女さんの絡みに、天狗と陰間の絡みぢゃっ」
サギは大喜びだ。
「おマメぇ?すまんが足を洗う湯を持ってきとくれ」
文次は錦庵の縁側に腰を下ろして汚れた草鞋を脱ぐ。
「うへぇ、ドロドロぢゃな」
サギは文次の泥草鞋を覗き込んだ。
裏長屋のハトとシメの住まう一軒に赤ん坊の雉丸の子守りでおマメがいる。
デケデン。
デケデン。
雉丸はノリノリででんでん太鼓を振っている。
「わっちゃ子守りだけだ。キジ坊の世話より他は知らんっ」
おマメはプイとそっぽを向く。
やはり、江戸の娘だけにおマメも勝ち気である。
「可愛げない娘っ子ぢゃ」
文次はドロドロの泥草鞋を裏庭の隅の屑箱にポイと投げ捨てた。
「むうん、遊びに行くにも道がジャブジャブぢゃしなあ。わしの草鞋はまだ新しいんぢゃ」
サギは物干し竿を見上げた。
「あ?サギ、今、竹馬で行けばええと思うたぢゃろ?いかんぞ。物干し竿を竹馬にするのは」
文次が先廻りして注意する。
「なんぢゃ、文次は目ざといのう。そいぢゃ、竹馬はやらんから肩車して桔梗屋まで送っとくれ」
サギはピョンと文次の肩に飛び乗った。
「ぢゃあ、ついでに番小屋で新しい草鞋を買うてくるかのう」
文次は縁側から腰を上げてサギを軽々と肩車した。
毎日、背負っている書物の木箱はサギよりも重たいので屁でもない。
「ほぉれ」
文次は肩車したサギの両足首を掴んでグルグルと廻る。
「うひゃひゃひゃ」
サギは逆さまにぶら下がって大笑いした。
デケデン。
デケデン。
雉丸はまたノリノリででんでん太鼓を振っている。
「……」
おマメは裏長屋の座敷から文次とサギの楽しげな様子を睨むようにして見ている。
「おマメぇ、わしゃ、桔梗屋へ遊びに行ったと言うといてくれ」
サギは文次の背中に逆さまのまま裏木戸から出ていった。
「でな、文次の肩車で来たから道がジャブジャブでも草鞋は濡れんかったんぢゃ」
サギはお花の部屋でオヤツを食べながら言った。
「肩車で?イヤだ。サギときたら十五にもなって年頃の娘の自覚が足らんわな」
お花は呆れ顔する。
「年頃の娘の自覚?むん?そんな自覚があったらビックリぢゃ」
サギはクロモジをくわえてハテナと天井を睨んだ。
「あれ?サギ、いつもみたいにオヤツが進まんわな?とうとうサギもカスティラの耳に飽きたかえ?」
お花がオヤツの皿を見やる。
いつもならサギは五つはペロリなのにまだ一つしか食べていない。
今日もカスティラの耳に餡を挟んだものだ。
「ううん。さっき卵焼きをしこたま食うてしもたんぢゃ。雨がザンザンで昼時に客が来んかったから児雷也と坊主頭に卵焼きを出して、駕籠かきにも卵焼きを折り詰めで持たして、そいでも、わしゃ五人前は食うたんぢゃっ」
サギはペラペラとしゃべった。
「――んっ?なに?今、何てっ?」
お花は児雷也という名にピクリと耳を立てる。
「ぢゃから、卵焼きを五人前も食うたんでオヤツが入るまでもうちょい――」
「そうぢゃないわなっ。何で児雷也に卵焼きを出したんだわなっ?」
お花は飛び付いてサギの襟元を掴んでグイグイと揺さぶる。
「うわわわわ、児雷也が錦庵に来とったんぢゃああああ――」
サギは揺さぶられて声も揺れる。
「児雷也が錦庵にっ?」
お花はパッと立ち上がって廊下へ走り出ようとした。
「もう帰ったんぢゃっ。雨がやんで駕籠かきが駕籠屋へ新しい駕籠を呼びに戻って、駕籠が来たんで乗って帰ったんぢゃっ」
サギが慌ててお花の浴衣の袂の端っこを掴んで引き止める。
「な、何で児雷也が錦庵におるうちにあたしを呼んでくれんっ?雨が降ろうが槍が降ろうが水溜まりを泳いでだって行ったのにいっ」
お花はまたサギの襟元を掴んで揺さぶる。
しかも、さっきよりも揺さぶり方が乱暴になっている。
お花もなかなか年頃の娘の自覚が足らぬのだ。
「うわわわわわわ――」
サギは揺さぶられて言葉も出せない。
何で呼んでくれんと言われても児雷也が来ていた時にはお花のことなどチラッとも思い出さなかったのだから仕方ない。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり
もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。
海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。
無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。
出撃!特殊戦略潜水艦隊
ノデミチ
歴史・時代
海の狩人、潜水艦。
大国アメリカと短期決戦を挑む為に、連合艦隊司令山本五十六の肝入りで創設された秘匿潜水艦。
戦略潜水戦艦 伊号第500型潜水艦〜2隻。
潜水空母 伊号第400型潜水艦〜4隻。
広大な太平洋を舞台に大暴れする連合艦隊の秘密兵器。
一度書いてみたかったIF戦記物。
この機会に挑戦してみます。
連合航空艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年のロンドン海軍軍縮条約を機に海軍内では新時代の軍備についての議論が活発に行われるようになった。その中で生れたのが”航空艦隊主義”だった。この考えは当初、一部の中堅将校や青年将校が唱えていたものだが途中からいわゆる海軍左派である山本五十六や米内光政がこの考えを支持し始めて実現のためにの政治力を駆使し始めた。この航空艦隊主義と言うものは”重巡以上の大型艦を全て空母に改装する”というかなり極端なものだった。それでも1936年の条約失効を持って日本海軍は航空艦隊主義に傾注していくことになる。
デモ版と言っては何ですが、こんなものも書く予定があるんだなぁ程度に思ってい頂けると幸いです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
日本には1942年当時世界最強の機動部隊があった!
明日ハレル
歴史・時代
第2次世界大戦に突入した日本帝国に生き残る道はあったのか?模索して行きたいと思います。
当時6隻の空母を集中使用した南雲機動部隊は航空機300余機を持つ世界最強の戦力でした。
ただ彼らにもレーダーを持たない、空母の直掩機との無線連絡が出来ない、ダメージコントロールが未熟である。制空権の確保という理論が判っていない、空母戦術への理解が無い等多くの問題があります。
空母が誕生して戦術的な物を求めても無理があるでしょう。ただどの様に強力な攻撃部隊を持っていても敵地上空での制空権が確保できなけれな、簡単に言えば攻撃隊を守れなけれな無駄だと言う事です。
空母部隊が対峙した場合敵側の直掩機を強力な戦闘機部隊を攻撃の前の送って一掃する手もあります。
日本のゼロ戦は優秀ですが、悪迄軽戦闘機であり大馬力のPー47やF4U等が出てくれば苦戦は免れません。
この為旧式ですが96式陸攻で使われた金星エンジンをチューンナップし、金星3型エンジン1350馬力に再生させこれを積んだ戦闘機、爆撃機、攻撃機、偵察機を陸海軍共通で戦う。
共通と言う所が大事で国力の小さい日本には試作機も絞って開発すべきで、陸海軍別々に開発する余裕は無いのです。
その他数多くの改良点はありますが、本文で少しづつ紹介して行きましょう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる