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樹三郎の変貌
しおりを挟むその頃、
(はあ、いったい旦那様はどちらへ――)
手代の銀次郎は旦那の樹三郎を探し廻り、歩き疲れて溜め息をついた。
行きつけの料理茶屋はすべて訪ねたが樹三郎は姿を見せておらず、銀次郎は日本橋芳町あたりをウロウロしていた。
芳町は料理茶屋、陰間茶屋、待合い茶屋などが軒を連ねる色町である。
すぐ前に大亀屋の裏木戸があるが、樹三郎は大亀屋には店の者を伴ったことがないので銀次郎は立ち寄ることなく素通りした。
だが、
プツッ。
「――あっ」
ふいに銀次郎は大亀屋の裏木戸の先でつんのめった。
何の因果か下駄の鼻緒が切れたのだ。
銀次郎は人通りの邪魔にならぬよう塀に寄って鼻緒を直そうと屈み込んだ。
そこへ、
「はあ、まさか、あの旦那が半玉を手込めにしようとするなんてねえ」
「いきなり押し倒しやがって、あたしゃ、めいっぱい顔を引っ掻いてやったんさ」
大亀屋の裏木戸から松千代と小梅が出てきた。
(――半玉を手込めにしようと?)
銀次郎は背後から聞こえてきた言葉に穢らわしげに眉をひそめる。
(そのような不埒者がおるから、こんないかがわしい色町へ足を踏み入れるのはイヤなのだ)
まさか、その旦那が樹三郎とはいざ知らず、堅物の銀次郎は不快げにフンと鼻息を飛ばした。
「ねえ?帰る前にさ、団子でも食べてこう?ワンワン泣き真似したら腹減っちまった」
「あっ、お前ときたら、このっ」
松千代と小梅はケラケラと笑いながら通りへ歩いていった。
(なんと、客の旦那が不埒者なら半玉もふてぶてしい。まったく呆れ果てたものだ)
銀次郎は腹立ち紛れに手拭いをビリリと裂いて鼻緒を直した。
背を向けていて松千代と小梅の顔は見なかったので、舟遊びで屋根船にいた芸妓と半玉とは気付きもしなかった。
しばし後、
(お葉に見られぬうちに金煙を吸って頬の引っ掻き傷を治さねば――)
樹三郎が手拭いでほっかむりして桔梗屋の裏木戸からコソコソと裏庭へ入ろうとしていると、
「――おや?旦那様?」
ちょうど銀次郎もすぐ後から戻ってきて、樹三郎の背後から声を掛けた。
「――っ」
樹三郎はギクリとして銀次郎へ振り向く。
自分の家へ帰るのに手拭いでほっかむりはいかにも怪しい。
「ああ、銀次郎か」
樹三郎は平静を装ったが、振り向いた時にチラッと見えた引っ掻き傷を銀次郎は見逃さなかった。
「その頬の傷は?」
銀次郎はまさかと疑わしげに訊ねた。
「いや、なに、猫ぢゃ、猫ぢゃ。はははっ」
樹三郎は無理くり笑って誤魔化し、そそくさと逃げるように裏庭の縁側から上がり、奥へ走っていく。
「……」
銀次郎の胸の内に樹三郎への疑念がフツフツと湧き上がる。
「――あっ、銀次郎どん、旦那様はお見つかりかえ?」
女中のおクキが台所からバタバタと駆け寄ってきた。
「旦那様はたった今、帰られて、何やら大急ぎで奥へ。それが、おクキ様、実は――かくかくしかじかで――」
銀次郎はおクキに大亀屋の裏で耳にした半玉の話と樹三郎の頬の傷の因果関係の疑いを話して聞かせた。
旦那の芸妓遊びなど奉公人が頓着することではないはずだが、銀次郎はどうにも樹三郎を許し難い気持ちが強かったのだ。
「おやまあ、そんなことがっ?芳町の大亀屋にはわしの仲良うしとる女中もおるから、ちょいと訊いてみるわいなあ」
やはり、物見高いおクキがこんな興味深いネタに黙っている訳がなかった。
一方、
「――ぅっ」
樹三郎は奥の間の襖を開けて低く唸った。
「お前さん?こんな大変な時にいったいどちらへ?」
奥の間の続きの仏間にはお葉が怖い顔をして座っていた。
仏壇の下の隠し扉には『金鳥』の玉手箱が仕舞ってあるのだ。
「おや、その傷は?」
お葉は目を三角にし、樹三郎の両頬に四本ずつある血の滲んだ引っ掻き傷を見咎めた。
「いや、猫にな」
樹三郎はまたも猫のせいにして誤魔化す。
「猫は猫でも三味線を弾く猫でござんしょう。まあ、ずいぶんと、おモテになったようですわなあ?」
お葉は苦々しい顔をして皮肉った。
芸妓のことは猫ともいうのだ。
「つねりゃ紫、食いつきゃ紅よ~♪引っ掻きゃ、何色だえなあ?」
お葉は唄まで唄って皮肉った。
「な、何もないっ。わしは接待の宴席にそりゃ芸妓は呼ぶが、酒の酌より他は何もないっ」
樹三郎は気色ばむ。
実際に芸妓を枕席に呼んだことなど一度たりともなかった。
それなのに、何故、小梅の水揚げの旦那になろうなどと躍起になってしまったのか。
他の大店の旦那衆に張り合って勝ち誇りたかっただけかも知れない。
「そんなことより、大事な話がござりまする。そこへお座りなされっ」
お葉がピシッと畳を指差す。
「ははっ」
樹三郎は慇懃にササッと正座して、お葉の話を拝聴した。
「な、なにっ?草之介が攫われて引き換えに『金鳥』をっ?」
あまりに予想外の話に樹三郎は顔面蒼白になった。
「勿論、お前さんに相談するまでもなく、『金鳥』は渡しまする。草之介の命には変えられませぬゆえ」
お葉はキッパリと言った。
「それは、当然、渡さねばなるまい。当然、草之介のほうが大事だ」
樹三郎はコクコクと神妙に頷いてから、
急にハッと思い立ったように顔を上げた。
「そうだっ。引き換えは三日後と言うたな?こうしちゃおられんっ」
樹三郎はバタバタと慌てて仏壇の隠し扉を開け、『金鳥』の玉手箱を取り出す。
「お前さん?それをどうするんですえ?」
「すぐに金煙を小瓶に詰められるだけ詰めるのだっ。明日のうちに小瓶すべて売り切って金子に変えなくてはっ」
樹三郎はバタバタと広い座敷を走ると、押し入れの中から小瓶の入った木箱を取り出す。
「今日中にありったけの小瓶に詰めて、明日までに得意先に売らねばっ。最後の販売だからな、いつもの倍の値段を付けても売れよう」
樹三郎はハアハアと息を切らしながら忙しげに木箱から小瓶を出して並べる。
「……」
お葉は眉をひそめた。
美男のはずの樹三郎がこんなにも醜く見えたことはなかった。
お葉は樹三郎の浅ましい姿に目を背けて廊下へ出ると、後ろ手に襖を閉めた。
「――はぁあ――」
溜め息しか出ない。
お葉は家で子等の世話をするだけで満足で、これといって贅沢もしていなかったので『金鳥』に執着などなかった。
元々、大店の一人娘で金の苦労も知らぬゆえ、金を欲しいと思ったこともない。
お葉がなによりも望むことは美しいものであった。
その時、
「うわあぁああああーーっ」
妙に甲高い樹三郎の絶叫が響いた。
「――お前さんっ?」
お葉は何事かと振り返って襖を開く。
そこに今さっきまでいたはずの樹三郎の姿はなかった。
仏壇の前に童がペタンと力無く座っている。
「ミノ坊かえ?何でこんなところに――」
お葉はてっきり次男の実之介かと思った。
「――わ、わしだ。お葉――」
その童は茫然としたまま声を震わせた。
「ま、まさか――?」
お葉はおそるおそる童の顔を覗き込む。
「そのまさかだ。慌てて手が滑って玉手箱の蓋を開き過ぎて、すぐさま閉じたが、ずんと吸い込んでしもうた――」
樹三郎は若返りの金煙を吸い過ぎて九歳ほどの童に戻ってしまった。
「ど、どうすればいいのだ――」
九歳ほどの樹三郎は幼く可愛い声で憐れっぽく呟いた。
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