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事実無根
しおりを挟む「こちらがお探しのお花様の銀のピラピラ簪にござりましょうか?」
客間に通された船宿の主、舵蔵は、おもむろに紫の袱紗に包んだ蝶の銀のピラピラ簪を出して見せた。
「――あっ、あたしの簪っ?」
お花はパッと簪を手に取って蝶の銀細工を入念に確かめる。
「たしかに川へ落とした銀の簪だわな」
銀の簪はピラピラの一本も欠けず、傷もなくキラキラと綺麗なままだ。
「お花、良かったのう。今朝、ヨーイサと唄っとった火消の連中が見つけたのか?」
サギが舵蔵に訊ねる。
「いえいえ、それが――」
舵蔵は身を乗り出す。
なんと、銀のピラピラ簪は川底から拾い上げて屋形船へ置いた錆びた鉄瓶の中に引っかかってあったのだという。
律儀に川底に落ちていたゴミを拾った手代の銀次郎も気付かなかっただけで、お花の簪は川へ落ちてからすぐに拾い上げられていたのだ。
「鉄瓶を屑鉄に売り払おうと思うて見たら中に簪が入っておったという次第にござります」
舵蔵は自分が見つけたとばかりに手柄顔をした。
「まあ、こんな小さな簪でさえ出てきたというに草之介はいったいどこへ隠れておるのやら」
お葉はべつに簪など見つかっても嬉しくもないので、船宿の主の用件がそんなことかとガッカリと落胆した。
「は、はあ、うちの船で若旦那様がとんだことに――」
舵蔵は何とも返事のしようがない。
草之介が自分から川へ飛び込んで行方をくらましたのなら船宿としてはとんだ迷惑なのだ。
「――あっ、そうぢゃ、あの消えた船頭はどうしたんぢゃ?」
サギは思わずお葉を押しのけて舵蔵の前に座り込んだ。
「へえ、うちの船頭もあれっきり行方知れずにござります。実は、船頭の半纏も浅瀬に畳んで置いてあったんでござります」
「ええ?そいぢゃ、ひょっとして草之介と船頭は示し合わせて?二人はグルか?」
サギはきっとそうに違いないと思った。
それに、あの船頭は川へ草之介を探しに飛び込むのも遅かったし、怪しかったような気がする。
「それなら、兄さんは船頭さんと一緒におるのかもしれんですわな?」
お花は母のお葉を見やる。
「ああ、草之介は気の小さい子だえ。誰か付き合うてくれる者がおらなんだら一人で行方をくらます度胸などあろうはずがないわなあ」
お葉もお花に同意して頷いた。
「それにしても、夕べのことは丸正屋の熊五郎から聞いとるだけだが、たかが蜂蜜とかいう芸妓との痴話喧嘩で草之介が逃げ隠れすることなどあろうかえ?他にのっぴきならぬ事情でもあったのでは――」
お葉はどうにも腑に落ちない。
母の贔屓目としても草之介がそれほどまでに腰抜けとは思えぬのだ。
「それが、奥様。あの蜂蜜という芸妓は母親も元は熊蜂という名の芳町芸妓でござりまして、その熊蜂姐さんを身受けした旦那というのが玄武一家の親分さんで、つまり、蜂蜜の父親なんでござりますよ」
舵蔵が声を潜める。
「熊蜂っ?母親まで狂暴そうぢゃあ」
サギはのけぞった。
「げんぶいっかって何だえ?」
お花は箱入り娘だけに初めて耳にした。
「玄武一家といえば、この江戸で泣く子も黙ると怖れられている博徒の一味にござりますよ。まあ、要するに博打をする無法者の集まりでござりまするなあ」
おクキが博徒など知る訳もないお花にも分かるように説明する。
「へえっ」
お花はパチクリと目を瞬いた。
そんな芝居の中に出てくるような無法者が身近にいるとは信じられない。
とにもかくにも、
蜂蜜は博徒の親分と元芸妓との間に生まれた娘という筋金入りの伝法であったのだ。
「まあ、そんな剣呑な女子、草之介の手に負えようはずがないわなあ」
お葉は次から次へと心配事が続いて落ち着く暇もない。
「むうん」
サギはどうにかして草之介の居場所を突き止められぬものかと考えを巡らせた。
こうして、
憶測が憶測を呼び、
いつの間にやら、巷では、
『桔梗屋の若旦那は深間の仲の芸妓の蜂蜜がいながら浮気をしたために、嫉妬深く狂暴な蜂蜜から逃れてどこかに隠れているに違いない』
などと、草之介の行方知れずにはそういう筋書きが出来上がっていた。
しかし、
それは、まったくの事実無根であった。
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