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江戸の艶種
しおりを挟む朝四つ半。(午前十一時頃)
「ご免よっと。サギ、いるかえ?」
小梅が錦庵の裏木戸から裏庭へ入ってきた。
「あ、小梅ぢゃ。上がっとくれ」
サギは縁側の座敷で手招きする。
「長唄の稽古をズルけて来たのさ」
小梅は三味線の袋を座敷の角に立て掛け、
「ほら、甘酒、買うてきてやった」
酒徳利の首の紐を持って振ってみせた。
甘酒といっても米麹だけで作られたアルコール分のない飲み物である。
夏の暑気払いとして飲まれるようになったのは江戸中期も終わり頃らしい。
「あたしゃ、毎日、水代わりに飲んでんのさ」
江戸は神田上水から水道を引いていたが、木の樋を通って流れてくるうちに汚れて生水で飲めるほど綺麗ではないので飲み水は水売りが運んできた湧き水を買うものであった。
なので、水代わりに酒を飲むというのはよくあることなのだ。
堀り抜きの井戸も家によってはあるが江戸城の周りは昔は入り江だった埋め立て地(現在の日本橋浜町、新橋、京橋の一帯)なので掘っても出る水は塩分が多い。
大雨でも降れば満潮には川が溢れて日本橋は膝まで浸かるほど水浸しになり江戸の中心の町とは思えぬ、すこぶる海辺の町であった。
「湯呑み、湯呑み」
小梅は勝手に座敷の茶器入れから湯呑みを二つ取り出す。
「さ、どうぞ」
お座敷での癖なのか、つい甘酒をお酌して勧めてしまう。
さすがに素人娘には真似の出来ぬ艶めかしい所作が自然と身に付いている。
「んんっ、あっまぁいっ」
サギはあまりの甘さに感激して甘酒をグビグビと飲んだ。
砂糖など入ってなくても米麹だけで甘酒はとてつもなく甘ったるい。
「なっ?美味いだろ?」
小梅も手酌でグビグビと飲む。
「うんっ、美味い。わしも毎日、飲もう。酒徳利を持って立ち売りが歩いてくるのを待ち伏せして買うたらええのか?」
「そいぢゃ、明日、あたしがいっつも買ってる甘酒売りの小父さんに錦庵に寄るように言っとくよ」
あっという間に空になったサギの湯呑みに小梅はササッとおかわりを注ぐ。
小梅の酒徳利は梅の花模様がある乳白色の信楽焼きだ。
水揚げをする旦那がわざわざ注文して誂えてくれた特注品で甘酒代も旦那のツケでいくらでも買えるのだという。
「あっ、そうぢゃ。まくらせきの説明ぢゃあ」
サギは甘酒に夢中で忘れていたがハッと気付いて催促した。
「そいぢゃ」
小梅はおもむろに三味線の袋の紐をシュルッと解く。
爪弾いて唄うのかと思いきや、
「口で説明するより見ちまったほうが手っ取り早いと思ってさ」
三味線の棹に巻いた紙の束を取り出してパラパラと広げる。
「ほえっ?」
サギは思わず素っ頓狂な声を上げて目を見張った。
それは男女が珍奇な体勢で絡み合う春画であった。
「ま、こんな順番でかな」
小梅は六枚の春画を二列に並べて畳の上に置く。
「うわっ、なんぢゃ?これ。わっ、なんぢゃ?この男子は化け物かっ?わっ、あんなことっ?うわっ、なんぢゃ?わっ、へんちくりんな格好。わっ、わっ」
サギは一枚一枚にいちいち驚いた。
「つまり、逢い引きで男と女が交わって、こういうことをするって訳さ」
小梅は「恐れ入ったか」とでも言いたげに顎を反らした。
「ふえぇ、こんなの見たことないのう」
サギは食い入るように春画を見る。
江戸は寛政三年まで湯屋が男女混浴なので異性のスッポンポンなど珍しくもないが、山育ちのサギは湯屋など行ったこともないのである。
江戸へ来てからも毎日、井戸端で行水だ。
「へえ?そいぢゃ、サギの育った山ん中ぢゃ男も女も一緒に風呂に入らんのかえ?」
小梅は不思議そうな顔をした。
「うん。小屋には湯殿もあるんぢゃが、わしゃ、いつも山奥の温泉で猿と一緒に入っとったんぢゃっ」
サギは露天風呂で猿と混浴であった。
「へえ、山だと猿と温泉なのかい。そいぢゃ、他の人のスッポンポンは見たことないのかえ?ホントにこんな化け物みたいな男はいやしないから。春画なんざぁ大袈裟なんさ」
小梅は湯屋で見た知識だけで先輩ぶって教えた。
「そりゃそうぢゃ」
小梅に言われなくてもサギはそんなことは知っている。
「まずはね――」
小梅は姐さん芸妓から受け売りの知識をあれこれとサギに伝授した。
「ほほぉ」
サギは頭の中ではすっかり分かった気になった。
これで逢い引き、交わり、水揚げの謎は一通り解けた。
ほどなくして、
「サギ、昼ぢゃ」
ハトが五枚重ねの盛り蕎麦と卵焼きを運んできた。
「わあっ、昼時に遊びに来た甲斐があった。蕎麦も卵焼きも大好物っ」
小梅は手を打って歓声を上げる。
日頃、贔屓の旦那衆にご馳走され付けているので遠慮などというものは知らない。
「ああ、美味いっ。やっぱ、浮世小路は食傷新道と言われっだけのこたぁあるね。毎日、飽きっほど食べたい。けど、芳町から本石町までぁちょいと遠くってさ。もっと近けりゃしょっちゅう来られんのに」
小梅は早口で撒くし立てスルスルと蕎麦を啜り込む。
日本橋芳町は現在の人形町の一部である。
一方、
「やっぱり、売れっ子の半玉の美しさは質が違う。昼日中の明るいうちに見ると格別ぢゃ。肌がツヤッツヤと光っとる」
ハトはホクホク顔で調理場へ戻ってきた。
「ま、なんにせよ、小梅がサギに色事のことを教えてくれて助かったのう。わし等で教える手間が省けたというものぢゃ」
シメはテキパキと角盆に盛り蕎麦を積み上げて店へ運んでいく。
「はあ、サギもそんな年頃かのう」
我蛇丸は蕎麦を茹でながら遠い目をして吐息した。
男女の交わりのことなどサギには無縁と思っていたいのだ。
調理場にいながらも座敷の小梅の艶種の話し声は筒抜けであった。
なにしろ、蚤が跳ねる音さえ聞き取れる忍びの者なのだ。
サギと小梅はペロリと盛り蕎麦と卵焼きを平らげた。
「うん、そうぢゃっ。これ、ちょいと借しとくれっ。お花にも見せてやろう」
サギは春画を丁寧に重ねて揃える。
「えっ?桔梗屋のお花様に?そういや、サギ、夕べの舟遊びも一緒だったね」
小梅は何故だか困ったような顔をした。
「うん。お花と仲良しなんぢゃ。そうぢゃ、小梅もこれから一緒に桔梗屋へ行こうっ?」
サギは名案と思った。
お花は逢い引きで男女が何をするのか興味津々で知りたがっているのだし、サギが話すよりも小梅からのほうが話も早い。
「ああ、あたしゃ、ちょいと、桔梗屋の旦那も若旦那もお座敷ではご贔屓の客だし、家で顔を合わすなんざぁマズいし――」
小梅はとたんに歯切れが悪い。
「なんぢゃ、二人共、家にゃおらん。わしゃ遊びに行ったって、いっぺんも家で旦那にも草之介にも逢うたことないんぢゃから。逢わん、逢わん」
「う、うん」
小梅は行きたくないという訳ではなく、むしろ行きたいようにも見える。
「ほれっ」
サギは強引に小梅を桔梗屋へ引っ張っていった。
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