富羅鳥城の陰謀

薔薇美

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お百度参り

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 果たして、
 
 草之介は桔梗屋に帰ってはいなかった。
 

「――えっ?草之介が川へ落ちたきり行方知れず?」
 
 母のお葉はしらせを聞くやクラクラと目眩めまいを覚えた。
 
「おっ母さん、しっかり。心配せんでもあにさんはちゃんと泳いで川から上がっとりますわな」
 
 お花は母の身体を重たそうに支える。
 
「あっしが草さんと一緒にいながら、とんだことに――」
 
 熊五郎がかしこまって状況を説明した。
 
「そいぢゃ、熊さんはあにさんが川へ落ちたところは見とらんのかえ?」
 
 お花が分かりきったことを訊ねる。
 
「ああ、あっしゃ――」
 
 熊五郎は面目なさげに言いよどんだが、みなは言わずとも分かっていた。
 
 美味しい料理が目の前にあったら熊五郎は他のものなど見ていようはずがないのだ。
 
「何も草之介が川へわざと落ちることなかろう?泳いで浅瀬まで辿り着けたとして力尽きて、どこぞに倒れて気を失っとるかもしれん。ひどい怪我をして動けんのかもしれん」
 
 お葉は気が気でなく、探し物でもするように座敷をウロウロとした。
 
「まあ、草之介にものっぴきならぬ事情があったのだろう。い組の若衆が百人も総出で捜してくれなすっとるそうぢゃないか。わし等がオロオロしてどうなるものでもあるまい」
 
 父の樹三郎は鷹揚に構えていた。
 
 四十歳になるが往年の美男の面影はまったくおとろえていない。
 
「取り敢えず、明日あすの朝、いの一番にい組のかしらに十両ばかり心付けを届けておくとするか」
 
 樹三郎は茶の間を出て長い廊下から奥の棟へと向かう。
 
「なあ、お父っさん?」
 
 お花がパタパタと追い掛けてきて父の腕にしがみ付いた。
 
「なあ?あにさんなんぞより、お花の銀のピラピラ簪を探しておくれと頼んで下されましな。あにさんのせいで川へ落っことしてしもうたんですわな」
 
 お花は甘ったれた声を出して父の腕をグイグイと揺する。
 
 もう草之介は船から自分で逃げ出したものと決め付けてから、お気楽なお花は帰る道々、落とした銀のピラピラ簪のことばかり考えていたのだ。
 
「簪?川へ落とした簪なんぞより新しくうてやろう」
 
 樹三郎は娘に甘いのでいったい今まで何十本の簪を買ってやったか分からない。
 
「落とした簪でなきゃイヤですわな。だって、お気に入りの蝶の銀のピラピラ簪なんですわな」
 
 お花はわざとらしく泣きそうな声を出した。
 
「ふむ――」
 
 樹三郎は何か思案げにうなり、奥の間の戸棚を開けると、千両箱から小判をジャラジャラと取り出した。
 
 

 その夜。
 
 バシャ、
 バシャ、
 
 お葉は裏庭の井戸端で水を浴びた。
 
 身を清めて白装束に着替えると、一人こっそりと裏木戸を抜け出す。
 
 お葉が向かった先は近くの神社であった。
 
 草之介の身を案じて居たたまれぬお葉が思い立ったことといえば、やはり、これしかない。
 
 
 お百度参りである。
 
 
 お百度参りは足袋を履いてはならぬ決まりなので裸足のままお百度参り用の草鞋わらじに履き替える。
 
 お百度参り用の草鞋は神社で売っていた。
 
 お葉は神社の手水舎ちょうずやで手を洗い、口をすすいだ。
 
何卒なにとぞ、草之介が無事に戻りまするように――」
 
 拝殿に手を合わせて礼をして参道を小走りする。
 
 お参りの度に百本の束のこよりを一本ずつ折っていく。
 
 パタパタ、
 パタパタ、
 
 普段から出歩くこともなくカスティラの耳で肥えた小太りのお葉に小走りでの往復はさすがにきつい。
 
「はぁはぁ」
 
 すぐに息が上がる。
 
 さらには履き慣れぬ草鞋わらじで足の指の股が擦り切れて血が出てくる。
 
「あ、あいたた――」
 
 懐紙を皮の剥けた足の指に巻いて痛みをしのぐ。
 
 本来なら血は神道でけがれなので血が出た時点でお参りは厳禁である。
 
 だが、お葉は必死のあまり何も考えてはいられなかった。
 
「はぁはぁ」
 
 お葉は痛みをこらえながら血の出た足で参道を小走りした。
 
 パタパタ、
 パタパタ、

 これでは清らかな神域を血で穢しまくりであるが、そうとも気付かずお葉は参っては小走り、また参っては小走りを繰り返す。
 
「はぁはぁ」
 
 お百度参りは人目を忍んで行うものだが、夜遅くに神社の参道を白装束で小走りに行ったり来たりしていたら目立つこと、この上ない。
 
 パタパタ、
 パタパタ、
 

「――おや?」
 
 神社の前を通りかかった貸本屋が夜気やきに響く足音に気付いて物陰から足音の主を窺った。
 
 貸本屋は書物の入った長四角の木箱を背負しょっているので一目でそれと分かる。
 
「ありゃあ、桔梗屋の奥様」
 
 貸本屋は得意先の家を訪ねて本を貸す商売である。
 
 桔梗屋へは三日にあげず貸し出しするほど上得意で、お葉はいつも実之介とお枝のために赤本や黒本、自分で読むために青本などを選んでは借りているのでよく知っていた。
 
 ちなみに赤本は幼児向け絵本、黒本は歴史物など、青本は色恋物などという分類であった。
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