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そもそも恋を
しおりを挟む暮れ六つ半。(午後七時頃)
「たっだいまっ」
サギは桔梗屋で晩ご飯をご馳走になってから錦庵へ帰ってきた。
もう表はとっくに店仕舞いしているので裏木戸から裏庭へ入ると、
「おお、おかえり」
シメが縁側の座敷で洗濯した腰巻きや三尺やおしめを畳んでいた。
「すぴ~」
赤子の雉丸は金太郎の赤い腹掛け姿でコロンと寝ている。
「あれ?兄様とハトは?」
サギは背負ってきた風呂敷包みをヨッコラサと縁側に下ろした。
「小唄のお師匠さんのところで稽古ぢゃ」
シメが顎で裏長屋の自分等の住まいの左隣の一軒を差す。
井戸端に物干し場のある裏庭を挟んで建つ裏長屋の一軒の障子が開け放って座敷の中が見える。
ペペン♪
「吹けよ川風ぇ あがれよ簾ぇ 中の小唄の顔見たや~♪」
三味線を爪弾くお師匠さんの前に我蛇丸とハトが並んで正座して唄っている。
『吹けよ川風』は寛永の頃には唄われていた端唄。
「ほれ、舟遊びに呼ばれて唄も唄わんようでは野暮と見なされるからのう」
この時代は男でも宴席で唄くらい唄わねば恥だったので武士も町人もこぞって唄を習った。
『吹けよ川風』は元禄の浅野藩御船歌集に載っているので武士に好まれた唄かと思われる。
「へええ、そいぢゃ、兄様もハトも唄うんぢゃなっ」
サギは草鞋を脱ぎ飛ばして縁側から錦庵の座敷へ上がった。
「わしぢゃって唄うぞえ。三味線も唄もお手のものぢゃけぇ」
シメも舟遊びを前に張り切っている。
「シメもぢゃなっ」
サギはこれなら自分は唄わずに逃げ切れそうだとほくそ笑む。
ペペン♪
「夏の夕べの川涼み 団扇の風ももどかしくぅ 鳴かぬ蛍が身を焦がす 恋の闇ではないかいな~♪」
『四季の縁』の中の一編『夏の夕』は文久の頃。
「ふんふん、どっちも舟遊びにピッタリのええ唄ぢゃ」
シメもおしめを畳みながら首を振り振り調子を取る。
「あっ、そうぢゃ。これ、土産に貰うた菓子ぢゃ」
サギはカスティラの耳に餡を挟んだオヤツの詰まった経木の折り箱を風呂敷包みから取り出した。
「二箱は小唄のお師匠さんと娘のおマメにやって、あとはうちで一人一箱ずつぢゃな。あ、雉丸はまだ食えんかの?」
土産の折り箱は五つもある。
お葉はサギの身内にも美味い菓子で取り入ろうという魂胆であった。
「ほお、そんなに?桔梗屋さんはずいぶんとサギを気に入っとるようぢゃのう」
錦庵は桔梗屋とは先代の錦太郎の頃から近所付き合いがあるが菓子を貰ったのは初めてだ。
「うんっ。わしゃ、みんなと仲良うなったんぢゃ」
サギは得意満面で頷く。
「そうかえ」
シメは何故だかサギを憐れみの眼差しで見つめたが、
「これな、これな、めっぽう、べらぼうに美味いんぢゃっ」
サギはもう折り箱をガサゴソと開けていたのでシメの意味ありげな眼差しには気付かなかった。
ゴォン。
夜四つ。(午後十時頃)
「吹けよ川風 あがれよ簾 中の小唄の顔見たや~♪」
我蛇丸は月明かりの井戸端でザバザバと水浴びしながら唄の稽古を繰り返している。
「兄様は吹けよ川風ぇ♪のほうを唄うんぢゃな?」
縁側の座敷の寝床で腹這いになったサギが蚊帳越しに訊ねる。
「おう、鳴かぬ蛍が~♪は辛気臭くての。大の男が恋の唄なんぞ気色悪うてゾッとする」
我蛇丸は何を照れているのか。
「中の小唄の顔見たや~♪も恋の唄ぢゃないのか?」
サギが突っつく。
「いや、とてつもなく下手っぴいな小唄を聞いて、顔見たや~♪ということもあろうが。わしはそういうつもりで唄うっ」
我蛇丸は言い切って、物干し竿に掛けた浴衣をサッと取って羽織った。
濡れた身体は浴衣で拭くものなのだ。
「ふうん、やっぱり恋の唄なんぞ娘っ子が唄うものぢゃな。お花はな、恋の唄ばっかり唄うんぢゃ。児雷也に片惚れでな、夢にも見るほどなんぢゃと」
サギはゴロッと仰向けになって壁に貼った一枚刷りを眺めた。
忍びの習いで夜目が利く。
熊五郎から貰った大蝦蟇に乗った児雷也の絵のある読売だ。
「ほお、わしも夢で児雷也を見たような気がする。いや、見た。たぶん、そうぢゃ」
我蛇丸は何を張り合っているのか。
「へえ?何でわしは見ないんぢゃろ?わしゃ、児雷也と大蝦蟇に乗る夢が見たいんぢゃがなあ」
サギは口を尖らす。
「念じつつ寝れば見られよう。一念、天に通ずぢゃ」
我蛇丸は洗った三尺をパンパンとはたく。
すでに物干し竿には二枚の三尺が夜風にハタハタと吹かれている。
「念じつつ寝るんぢゃな?よし、今夜は見るぞ。そうぢゃ、夢でお花も乗せてやろう。兄様も一緒に大蝦蟇に乗ってもええぞ」
夢とはいえサギは大蝦蟇に四人も乗せる気だ。
「おう、夢の中でな」
我蛇丸は何故だか、ほろ苦い笑みを浮かべた。
同じ頃、
「そもそも恋をするならばぁ 文の二百も三百も 千四五百も遣ってみて それで叶わぬものならばぁ ひとりで寝るがましぢゃもの~♪」
桔梗屋では蚊帳の中でお花も唄っていた。
『そもそも恋を』は烏丸光広卿(一五七九年~一六三八年)の作といわれる小唄。
そもそも今日はこれを唄おうと思ったのだが寝床に入るまですっかり忘れていたお花であった。
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