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手習い子
しおりを挟む「サギ、遊ぼ」
「あすぼ」
食休みが済むとサギは実之介とお枝に手を引っ張られて広間へ連れていかれた。
日頃、弟妹とは遊びもしないお花も一緒に付いてくる。
中庭に面した広間は三十畳はあった。
実之介とお枝はここで乳母のおタネを相手にいつも鞠投げなどして遊んでいたのだ。
「わあ、広いのう。駆けっこも出来るぞっ」
サギは伸びをして両手を天井に突き上げる。
「駆けっこはダメだ。転んで怪我するといけないっておタネに叱られる」
「うん」
実之介もお枝も乳母のおタネの心配症のために駆けっこを禁じられていた。
「なんぢゃ、転んだらいけないなら、はなっから転がって遊べばええんぢゃっ」
サギはそう言うなり、畳に寝転がると両手を頭の上に伸ばし、筆が転がるようにコロコロと転がり始めた。
「うひゃひゃひゃ、こりゃ、面白い。広いから転がり甲斐あるのう」
コロコロコロコロ――、
凄まじい速さで壁際まで転がって逆回転して襖まで戻ってくる。
「サギは賢いわな。それなら転ぶ心配ないわなっ」
お花も見様見真似で寝転がってコロコロと転がり始めた。
コロコロコロコロ――、
再び転がり始めたサギが速いのでお花も負けん気で後を追い掛けるように速く転がっていく。
「わしもっ」
「あたいもっ」
姉のお花に倣って実之介もお枝も勢い込んで寝転がってコロコロと転がり始めた。
「あれまあ、ほほっ」
お葉は広間を覗いて声を立てて笑った。
四人がコロコロと転がっている様はなかなか可笑しいものであった。
「笑っとらんで一緒に転がらんかっ」
サギは立ち上がって無理くりお葉を寝転がすと海苔巻きでも巻くようにコロコロと転がす。
「あ~れ~ぇ~~」
お葉はコロコロと転がりながら間延びした声を上げた。
「きゃははっ」
「わははっ」
「うきゃっ」
お花、実之介、お枝もコロコロと転がる母の珍しい姿に大喜びする。
「わ、わしが転がっておるのだからおタネもおクキもお倣いっ」
お葉は自分だけ転がっているのが恥ずかしいのでおタネとおクキにも転がるように命じる。
「へ、へえっ」
まさかイヤだとも言えずおタネもおクキも寝転がった。
「あ~れ~ぇ~~」
「あ~れ~ぇ~~」
コロコロと勢い良く転がりながら奥様に倣って声を揃えて叫ぶ。
「うひゃひゃひゃ」
サギも転がりながら大笑いした。
コロコロコロコロ――、
「うひゃひゃ」
サギはいつまでも飽かずに転げ廻ったが、
「あぁ、クタクタ」
「笑い過ぎて喉カラカラだぁ」
みなは日頃の鍛錬が乏しいため、たったの一往復で転がり疲れた。
「おクキ、スイカがあろう?」
お葉は広間の半分まで転がっただけでへばって丸髷の鬢の潰れを手で直しながら小太りの身体をヨッコラサと起こす。
桔梗屋には三十人もいる奉公人の郷里からお中元に作物が山ほど届くので芋でもスイカでも食べ切れぬほどある。
「へえ、井戸に冷やしてござります。ちょうど頃合いにござりましょう」
おクキは広間を出て長い廊下の先の台所へ急いだ。
「わしも行くっ」
サギはスイカが早く食べたいのでおクキの後に付いていく。
お花、実之介、お枝もサギの後に付いていった。
「――おや?」
おクキが足を止めた。
台所の板間では小僧等が文机を四つ並べて手習いをしていた。
「お盆にまで手習いかえ。ご先祖様もさぞやビックリだわいなあ。ほほ」
おクキは暢気そうに言いながら台所の土間へ下りた。
「おいらぁ、いきんでも屁が出んかった。そいだから手習いと算盤をせねばならん」
八十吉はせっせと墨を摺りながら情けない顔をした。
ただ、オヤツのふかし芋が屁になるには時期早々であったのだ。
「まあ、殊勝な心掛けだこと。それなら手代に習わっしゃい」
お葉は手代を呼んでこさせる。
同じ棟に手代、若衆、小僧それぞれの大部屋が三つあり、すぐに一人の手代が出てきた。
「ほう、お盆返上で手習いを?わたしにも覚えがござりまするが宿下がりの後は心機一転、身が引き締まるものにござります」
二十代前半の堅物そうな手代は小僧等に筆遣いを教えてやる。
「手代の銀次郎だわな。手代は小僧に手習いと算盤を教えとるんだわな」
「ふうん」
昨日、サギが店を覗いた時にいた手代二人は金太郎と銅三郎という。
手代になると大人の遊興場への出入りが許されるので、どうやら金太郎と銅三郎は夜遊びへ出掛けているようだ。
「へえ、漢詩を書いとるのか。この手本は達筆ぢゃなあ」
サギは小僧等の背後から手本を覗き込む。
この時代は日常に使うのは崩した草書で手習いでも平仮名の次は草書を習う。
小僧等が習っているのは草書よりさらに進んだ武家の男子しか使わぬ楷書であった。
使い込んだ古い手本に書かれた漢詩は李白の『静夜思』。
『牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷』
「牀前 月光を看る 疑うらくは 是地上の霜かと 頭を挙げて 山月を望み 頭を低れて 故郷を思う」
サギはスラスラと読んだ。
「サギ、漢詩なんぞ分かるの?」
お花は目をパチクリする。
「ハトに習うたんぢゃ」
サギは同じ年頃の子と一緒に学んだことがなく自分の学力がどの程度か分からぬゆえ卑下も自慢もない。
「へええ」
お花は感心した。
お花は嫁入り前の娘の嗜みとして長唄と踊り、お茶とお華の稽古は続けているが、手習いは嫌いで女師匠の女筆指南所で和歌などを草書で習ったきりだ。
「サギも書いてみい」
お花はサギに筆を手渡す。
「うんっ」
一時、サギは真剣な顔をして、墨痕鮮やかに漢詩を書き上げた。
忍びの習いで筆跡を真似ることは容易いので手本そっくりに端正な楷書である。
「おったまげた」
小僧等はまたまたビックリする。
「まあ、てっきり、お頭の具合は芳しくないものと思うていたが、これほどの教養まで備わっておろうとは」
お葉はしげしげとサギの書を見つめて、
突然、ハッと何やら天啓を受けたかのように目を見開いた。
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