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かしましい
しおりを挟む「もぉ、サギ、そのようにいっぺんに、喉に詰まるわな」
お花が口いっぱいにカスティラの耳を頬張るサギを案じるや否や、
「――んぐっ」
案の定、サギは咽せた。
実は江戸時代のカスティラはしっとり感がないので水などに浸して食べるのが通常であった。
「ほれ、言わんこっちゃない。おクキぃ、麦湯をおくれな」
お花が作業場から板間を挟んだ横の台所へ声を掛ける。
そうこうして、
「ほお、そいぢゃ、お前さんが錦庵さんの妹御にござりまするかえ。ほんに噂をすれば影と申しますわいのう。わしゃ、シメさんとは同い年で、いつも仲良うさせて貰うておりますわいなあ」
麦湯を持ってきた女中のおクキがサギの顔をつくづくと見ながら湯呑みを差し出した。
「わしゃ、まことの妹じゃのうて、妹のようなものぢゃ」
冷えた麦湯をゴクゴクと飲みつつ、サギは一応、これだけは念を押す。
噂好きと聞いたとおり、おクキはペラペラとよくしゃべる女子であった。
「わしゃ、シメさんと同い年ですが決して嫁き遅れという訳ではござりませんわいのう。二度ほど近くのお店の番頭と夫婦となりましたが、どっちも気が合わず、すぐに別れて桔梗屋へ戻ったんでござりますわいのう。ですから、今は独り者でござりますわいなあ。きっかり人別改めの間のことで人別帳も綺麗なままでござりますわいのう」
おクキはサギが麦湯をガブガブと飲む湯呑みへ親切に新しく注ぎ足しながら話し続ける。
サギには何のことやら分からぬおクキの話を解説すると、
この頃、江戸の人口は男が女の約三倍であった。
独身男が非常に多く甚だしい嫁不足のため幕府が女は婚姻を二度以上することが望ましいと通達まで出したほどなので江戸で出戻りは女の恥でも何でもなかった。
人別帳(戸籍のこと)を改めるのが子年と午年の六年ごとと決まっていたので、改めの年までの間なら幾度くっ付いたり離れたりしても人別帳は未婚のままとなったのである。
無事に届けを出せる人別帳の改めの年までは夫婦のお試し期間のようなものか、
とにかく庶民は幾度でも伴侶をとっかえひっかえするのが珍しくなかった。
「たしか、錦庵の我蛇丸さんもまだ独り身と伺っておりますわいのう。わしのほうが年上でござりまするが、なに、二つ三つ四つの差など大した違いではござりませんわいなあ」
おクキは意味有りげにサギに流し目を送り、科を作ってネットリと笑う。
(――ひいぃ――)
サギの背筋にゾクッと悪寒が走った。
(こ、この女子、兄様を狙うとるっ)
サギは恐ろしげにおクキを見た。
大店の上女中らしく、それなりの身なりで十人並み以上の器量はしているが、どこか狐が化けたような女子だ。
(イヤぢゃ、イヤぢゃ、イヤぢゃ――)
サギはブンブンと首を振る。
ちなみに上女中は奥で主人の用をする女中で、下女中は掃除、洗濯、炊事などをする女中である。
桔梗屋は奉公人が三十人いるので、台所ではもう五人の下女中が忙しげに晩ご飯の支度をしていた。
「まあ、わしゃ、神田生まれの江戸っ子でござりまするゆえ、根っからの蕎麦っ食いでござりますわいのう。ほんに蕎麦屋の女房には打ってつけかと。あたかも縁結びの神様のお引き合わせのようでござりますわいなあ」
上女中のおクキはおしゃべりにかまけるほどに暇らしい。
そこへ、
頭の上からドコドコと大きな音が響いてきた。
それは著しく肥えた男が階段を下りてくる音であった。
「そいぢゃ、草さん、大事にしゅろよ」
巻き舌の熊五郎の声が聞こえる。
この「しろよ」が「しゅろよ」になる発音がまさしく江戸下町言葉である。
「あれ、熊さんがお帰りだわな。見舞いだなんて、兄さんの具合が悪いものか。店を怠けるための仮病に決まっとる。どっおせ舟遊びの相談をしにおいでなんだわな。あたしを除け者にして兄さんばかり舟遊びだなんてズルいったらありゃしない」
お花は廊下をドスドスと行く熊五郎の背に向かってアカンベをした。
「がはは、芸妓遊びに妹御を連れていく若旦那などおらんでしょうな」
「がはは」
熟練の菓子職人の四人はざっくばらんに笑う。
「ええ、笑うな。あたしだって舟遊びしたいと言うたら、おっ母さんが『それなら船を借りてやるからおタネとお行き』などとお言いなんだわな。乳母と舟遊びして何が面白いものかっ」
お花はプンプンと袖を振り廻す。
「へえ?わしも舟遊びがしとうて兄様に言うたんぢゃ。そいで、渡し舟でならええってことになってな。みんなで渡し舟に乗って遊びに行くんぢゃ」
サギはちょっと得意げに言った。
「えっ?みんな?サギと錦庵のみんなで?そしたら、あたしも一緒に行きたいっ。サギと錦庵のみんなと渡し舟に乗りたいっ」
お花はいつもの我が儘っぷりを発揮した。
裕福で善人の親兄弟で器量良しと恵まれて育ったお花は意地悪な根性など微塵も持たぬが、とにかく我が儘であった。
「うんっ、わし等と一緒に行こう」
サギは気軽に応じたが、
「お花様、渡し舟などなりませぬっ」
お花の我が儘を聞きつけたのか、いきなり奥から乳母のおタネがでしゃばってきた。
「だって、あたし、行きたいものっ。サギやみんなと一緒に行かなければイヤだわなっ」
お花は頑として譲らない。
「では、奥様に伺って参りましょう」
おタネはすんなりと奥へ行った。
桔梗屋の旦那は入り婿なので奥様の権限が強いカカア天下のようである。
「家族は奥におるのか?こう家がだだっ広いと分からんのう」
サギは廊下へ首を伸ばした。
おタネがしずしずと進んでいく長い廊下を挟んで左右に座敷が六つもある。
おタネは突き当たりを左へ曲がったので、その先にも座敷があるのだろう。
「うん。おっ母さんは、ずず、ずうっと奥の間。あたしの下に弟の実之介と妹のお枝がおるの。まだ九つと五つだから、おっ母さんは掛かりっきりだわな」
「ふうん、弟と妹か。ええなあ」
サギは忍びの隠れ里ではにゃん影よりも年下の一番下っ端なので羨ましかった。
ハトとシメの子の雉丸はまだ赤子なので忍びのうちに数えないのだ。
ほどなくして、
おタネが奥の間から戻ってきた。
「まことに奥様はご寛大なお方で、ご奮発を遊ばして屋形船を借りて下さるそうにござります。その屋形船に錦庵のみなさんをお招きして一緒に行くというのならばお許し下さるとのこと。勿論、このタネにおクキ、店の男衆もお花様に付き添って参ります。それでよろしゅうござりましょう」
おタネは上手く相談をまとめてきた。
実のところ乳母のおタネも女中のおクキもお花に便乗して舟遊びに行きたいのである。
「まあ、お花様、ようござりました。クキもお福分けに与りまして、ほんに嬉しゅうござりまする」
おクキは我蛇丸に接近して口説く機会を窺っていたので、これぞ『渡りに船』とばかりに嬉々とした。
「わいのう」はくだけた口調なので主人であるお花には使わないのだ。
「うわぁ、一緒に舟遊びだわなっ」
「うわぃ、舟遊びぢゃあっ」
サギとお花は手を取り合って飛び跳ねて喜んだ。
つい半時前に初めて口を聞いたとは思えぬほど二人は仲良しになっていた。
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