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桔梗屋のお花
しおりを挟むゴォン。
「お、昼七つ(午後四時頃)か。そろそろ桔梗屋へ出前の器を下げてこんとのう――」
シメが腰を浮かすと、
「わしっ、わしが行くっ」
サギが自分の鼻の頭を差しながら顔を突き出した。
錦庵のある浮世小路を抜け、通りに出て、右手へ曲がるとすぐに桔梗の紋を染め抜いた藍染めの日除け暖簾が見えてきた。
間口が十間もある大店で戸口の両側の軒下いっぱいに日除け暖簾が六枚も重石を付けて地面へ斜めに下がっている。
「あの店ぢゃなっ」
サギは桔梗屋が何を商う店かも訊かずにすっ飛んできたが、近付くとすぐに分かった。
(あぁ、美味そうなニオイ)
サギは日除け暖簾の陰で鼻をヒコヒコさせた。
甘ったるい菓子が焼ける香ばしいニオイが漂っている。
桔梗屋の看板には『菓子司』とあった。
店の中を覗くと、菓子は上等なご進物らしく注文を受けた手代二人が熨斗を付け、紅白の水引を掛けた桐箱を客へ渡している。
よくよく見ればサギも見慣れた金平糖の紙袋も並んでいた。
(なぁんぢゃ。兄様のお土産の金平糖はここで買うたんぢゃ)
金平糖の他は『ボーロ』だの『カスティラ』だのサギには初めて目にする菓子ばかり。
サギは物珍しく店を見廻していたが、帳場に座っている番頭がチラとこちらを見たので慌てて日除け暖簾から飛び退き、
(そうぢゃ。シメに裏へ廻るよう言われたんぢゃ)
クルッと曲がって店の裏木戸へ入っていった。
「あははっ」
店の横には土蔵があり、裏庭から小僧の笑い声が響いてくる。
宿下がりしない小僧もお盆休みに遊ばせているところを見ると桔梗屋の主の良い人柄が窺えた。
「ちんちんもがもが、おひゃりこひゃーりこ」
意味の分からぬ声を上げながら小僧は駆け比べをしている。
四人の小僧の中には昼時に錦庵へ出前を頼みに来た千吉の姿もあった。
駆け比べは当たり前の駆け足ではなくケンケンの片足飛びで土蔵まで往復の競争らしい。
なるほど短い距離での駆け比べなら片足飛びが面白いに違いない。
それも「ちんちんもがもが、おひゃりこひゃーりこ」などと言いながら片足飛びするのだ。
江戸の童にはお決まりの『ちんちんもがもが』という遊びだが山育ちのサギは初めて目にした。
「最後に勝った者にはお花様がご褒美を下さるぞっ」
一番年長らしい小僧が高らかに言って、
「わあっ」
小僧等が手を叩いて歓声を上げた。
「ちんちんもがもが、おひゃりこひゃーりこっ」
ご褒美が掛かっているせいか小僧は片足飛びの競争に真剣そのものだ。
「む、むむ――」
サギは竹垣越しに見ているうちに足がムズムズしてきた。
富羅鳥山では歩くよりも飛び跳ねているほうが多いサギなのだ。
「あ、八十吉どん、片足が地べたに着いた。失格っ」
「あぁ、負けたぁ。こん次は一吉どんと十吉どんの勝ち抜き戦だ」
「ちんちんもがもが、おひゃりこひゃーりこっ」
一吉と十吉が同時に片足飛びで土蔵を目指すと、
「わしもぢゃっ」
サギは竹垣をピョンと飛び越え、
「ちんちんもがもが、おひゃりこひゃーりこっ」
遊び言葉を口真似して一吉と十吉を片足飛びでひとっ飛びに追い越した。
そして、ほんの三歩の片足飛びで土蔵の壁を手で触ってから、また三歩で戻ってきた。
「おったまげたっ」
小僧四人はサギの人離れした跳躍に天狗でも見たかのようにビックリと目を見開く。
「……」
裏庭の縁側に面した座敷には簾越しに目を丸くしてサギを見ている桔梗屋の娘、お花の姿があった。
「ああ、面白いのう。わしゃ、犬の摩訶不思議丸とばかりで人と駆けっこしたのは初めてぢゃっ」
富羅鳥山の忍びの隠れ里には童がいないのでサギはこんな遊びも楽しくて仕方ない。
「誰だえ?」
「知らん」
「初めて見る」
「んだんだ」
小僧はお互いに顔を見合わせたが誰もサギを知る者はいない。
千吉が錦庵に来た時もサギは調理場に隠れて店を覗き見していたので千吉のほうではサギを見ていないのだ。
「あのう、どちら様にござりましょう?ご用がござりましたらお取り次ぎ致しますが――」
一番年長の一吉が躾の行き届いた口調でサギに訊ねる。
年長といっても小僧は元服前の十五歳以下だ。
「あっ、いかん。わしゃ、出前の器を下げに来たんぢゃ」
サギはすっかり忘れていた本来の目的を思い出した。
「あ、錦庵さんでござりましたか。ただいま器を持って参ります」
十吉と千吉が出前の器を取りに台所の水口から中へ入っていく。
「あのう、せいろ五十枚もお持ちになれましょうか?」
千吉は十吉と二人でせいろの角盆を運んできて自分等と背丈の変わらぬ小柄なサギを心配そうに見やったが、
「空のせいろぢゃ。軽い、軽い」
サギは二十五枚ずつ二列にせいろの重なった角盆をぐらつかせもせずヒョイと肩に担いだ。
「そいぢゃ、えっと、まいどぉ」
適当な挨拶をして歩き出すと、
「ちょ、ちょいとお待ちっ」
お花が慌てたように簾をパッと捲ってサギを呼び止めた。
「――へ?」
サギが振り返って、縁側に立っているお花を見やる。
簾の向こうの座敷にお花がいたとは気付かなかった。
今日のお花は水色の麻の葉模様の浴衣に桜色の帯を締めている。
昨日の絢爛豪華な振り袖姿より、だいぶ幼く見えた。
「何ぢゃろ?」
サギはいったん角盆を縁側に下ろす。
「何って、駆けっこの褒美を渡してないもの」
お花はそう言うとサギの手を引っ張って縁側へ上がらせた。
「みんなも一緒においでな」
お花は小僧にも声を掛ける。
「へいぃっ」
小僧はお嬢様のお花を崇拝しているらしく小犬が尻尾を振るように嬉しげに後に駆け寄っていく。
お花に手を引っ張られて縁側から奥へ曲がって長い廊下をズンズンと進みながら、
「のう?のう?褒美って何ぢゃ?」
サギはワクワクして訊ねた。
お花はクルッとサギに顔を向けて、
「カスティラの耳」
にんまりとして答える。
「うわぁっ」
小僧四人は飛び上がって大喜びした。
「カスティラの耳?」
サギは首を傾げる。
「ほら、直に焼き上がるわな」
お花は菓子職人がカスティラを焼いている作業場へサギを連れて入った。
(あ、この美味そうなニオイ)
サギはまた鼻をヒコヒコさせる。
店先まで漂っていた甘ったるい菓子の焼けるニオイはカスティラなるものだったのか。
「焼き上がるまで座って待とう」
お花が壁際に二つ並んだ空き樽を指して、サギもその一つに腰を下ろした。
「なあ?お前さ、昨日、浅草奥山で児雷也を見たろ?あたしも見たから知っとる」
お花は何故だか照れ臭いように足をブラブラさせながら訊ねた。
「うんっ。わしもお前、知っとる。ハトが桔梗屋のお花って小町娘ぢゃって言うとった」
「そう?あたしもお前がサギというの知っとる。あのな、さっき女中のおクキと錦庵のシメさんが台所で話すの、こっそり聞いてたんだわな」
「こっそり?」
サギは意外そうにお花を見返す。
「うん。あたし、いっつも盗み聞きするんだわな」
お花はケロッとして頷く。
そのとたん、
(気が合うっ)
サギはお花と自分との距離が一気に縮まったように思えた。
「おクキは噂好きなんだわな。夕べ、近所の料理屋の女中から錦庵の妹が田舎から来とるって聞いたものだから、今日はさっそくシメさんにお前のことを根ほり葉ほり訊いとったわな」
夕べは近所の料理屋から出前のご馳走を取ったので、もうサギが来たことがこの辺りの噂になっているらしい。
「あ、わし、まことの妹ぢゃのうて、妹のようなものぢゃ」
サギは嘘をつくのはイヤなので、きちんと訂正しておく。
「ふうん」
貰い子や連れ子などが珍しくもない時代なのでお花は気にも掛けない。
「サギも十五だってな。あたしと同じ酉年の。生まれ月は?」
「わしは長月」
「あたしゃ弥生の生まれだから、あたしのほうが姉さんだわな」
自分のほうが早く生まれたと分かるとお花はちょっと姉さんぶる。
「あのな、あたしな、昨日から児雷也に片惚れなんだわな。今朝は夢にも見るほど。サギ、お前は?」
お花はまたも足をブラブラさせた。
どうやら児雷也の話をするのが照れ臭いらしい。
「へえ?夢にも?ええなあ。わしも児雷也と大蝦蟇に乗って一緒に投剣をしたいんぢゃっ」
サギは得意げに短剣を投げる手振りをしてみせた。
「大蝦蟇に乗って?イヤだ。あたしの夢はそんなぢゃない。サギはまだ童だわな。小僧等とちっとも変わりゃしない」
お花は作業場の土間で芋虫ゴロゴロをしている小僧四人を見やった。
『芋虫ゴロゴロ』は数人が雪隠の体勢で前の者の帯を掴んで連結して屈んだまま歩くという遊びである。
「芋虫ゴ~ロゴロ~♪」と唄いながら屈み歩きをする。
『ちんちんもがもが』の片足飛びといい、江戸の童の遊びは脚力を鍛えるのに適していた。
「あのな、あたしゃ夢で児雷也と逢い引きしたんだわな。あぁ、夢でなくホントに児雷也と相惚れになりたい」
お花は胸に両手を当てて吐息した。
やはり同い年でも江戸の娘はマセている。
「へえ~」
サギはお花の夢の話より小僧の芋虫ゴロゴロに興味津々である。
「芋虫ゴ~ロゴロ~♪」
小僧は唄いながら串団子のように四人連なって屈み歩きで行ったり来たりしている。
(面白そうぢゃなあ)
サギも芋虫ゴロゴロに混ざりたい。
だが、
「あのな、夢の中であたしと児雷也は二人で屋形船に乗っとるんだわな。月夜の晩でな――」
お花はカスティラが焼き上がるまで児雷也と逢い引きしたという夢の話を続けるようであった。
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