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お忍びの上様
しおりを挟む「実はお忍びで度々お出で下さるんぢゃ。こちらは御側用人の木常どん兵衛様ぢゃ」
我蛇丸はずいぶんと前から将軍様とも、どん兵衛とも馴染みらしい。
「うむ――」
どん兵衛は狐というよりは古狸といったずんぐりとした容貌で、唐辛子売りの滑稽な装束ながらも威厳を保ってサギに頷いてみせた。
だが、
「お蕎麦用人?上様には蕎麦をお召しの時に蕎麦用のお付きがおるのか?」
サギは幕府の役職にも疎い。
御側用人は将軍様の側近中の側近で老中へ将軍様の命を伝える役目のなんやかやと権限を持つ偉い役職である。
「ほほほ、面白い娘であるの。我蛇丸の妹というたか」
将軍様は優しげに笑うと改めてサギの顔を見直した。
「ははあ、まことの妹ではござりませぬ。妹のようなものにござります。サギと申しまする」
サギは澄まし顔して、滅多にないほど上品な所作でお辞儀をした。
「ううむ、さすがに富羅鳥の忍びの娘。ガラリと顔付きも口調も変わったの。身なりも高島田に打ち掛けと変われば誰しも武家の娘と信じて疑わぬであろう。そちの面差しには得も言われぬ気品がある」
将軍様はしげしげとサギの顔を見つめると、
「ううむ、その黒目がちな目。遠い昔にどこかで逢うたような懐かしさを覚える――」
そう呟いて目を閉じ、瞼の奥に遠い昔が浮かんだかのように追想していた。
ややあって、
「無礼講ぢゃ。相席を許す。サギ、近こう、近こう。それへ座って共に蕎麦を食したもい」
パチッと目を開いた将軍様は気安げにサギに手招きした。
「ははあっ」
サギはニコニコ顔で即答して、たちまちスルッと将軍様の向かい側に座る。
「わしな、上様ってもっとお年寄りかと思うとったんぢゃ。けど、うちの父様と変わらないんぢゃのう。ズルズル――」
無礼講と言われるまま無遠慮に将軍様に話し掛け、サギは蕎麦のご相伴に預かった。
「やれ、お邪魔のようでござりまするのう」
どん兵衛は気を利かせて一人離れて反対側の小上がりの座敷へ移った。
「ほほほ」
「うひゃひゃ」
将軍様とサギは他愛ない戯れ話に興じながらも十段重ねの蕎麦せいろを一枚また一枚と空けていく。
「大層、お寛ぎのご様子。ご城外で蕎麦でもたぐっておられたほうが上様にはよほど心安いのでござろう」
どん兵衛も蕎麦をたぐりつつ、いかにも馴染みの唐辛子売りが蕎麦屋と世間話という体で我蛇丸を相手に話し始めた。
しかし、その内容は尋常ならざるものであった。
「我蛇丸、おぬしも予々、聞き及んでおろうが、この十数年のうちにお毒見係が三人も毒に当たってしもうた。ただの毒ではない。一見して身体はピンシャン頑健な働きぶり。ところが、だしぬけにゲラゲラと笑い出し、幾日も食べも眠りもせず精根尽き果てるまで笑い転げ廻る。そして、笑い止んだら呆けたようにボンヤリ虚ろなまま。いまだ三人共、正気に戻らぬ。ああ、恐ろしや、恐ろしや」
どん兵衛は口ほどは恐ろしく思ってなさそうな顔で蕎麦をスルスルと啜り込む。
「――どん兵衛殿、その毒につきましては長崎で諜報中の蟒蛇の忍びの者の報せでは南蛮渡来の幻薬でなかろうかと――」
長崎で諜報中の蟒蛇の忍びの者とは大膳の伯父の錦太郎一家のこと。
「おお、やはり南蛮渡来のものであったか。お城の典薬頭にも万策尽き果て、治療の手立ても見つからぬ。――ただ、『アレ』さえあればのう」
典薬頭とは将軍家の医療を司さどる役職。
「実は、すでに『アレ』の在処におおよその見当は――」
「何?それはまことか?」
我蛇丸とどん兵衛は額を突き合わせてヒソヒソと何やら密談を続けた。
彼等が口にすることも憚る『アレ』とはいったい何ぞや?
そもそも我蛇丸は将軍様から、ある密命を賜って富羅鳥山から江戸へ出てきたのだった。
「ふうむ、これも美味であったが、やはり、富羅鳥藩の献上鳥とは似て非なるもの」
将軍様は鳥の味噌漬けをペロリと平らげておいて残念そうに皿を置いた。
富羅鳥藩の献上鳥は将軍様の大好物。
その鳥の味噌漬けの調合を藩外不出にと厳命したばかりに富羅鳥藩主の鷹也の亡き後は幻の味になってしまった。
鷹也はとてつもなく律儀な性分で藩外不出を厳戒に守らんと自らの手で味噌漬けの調合を行っていたのだ。
その秘伝の調合は巻物などに書き残されている訳でもなく、そらんじていたのは鷹也と爺やの雁右衛門、それと、お鶴の方のみであった。
「――いや、あの献上鳥は鷹也がわしのためにこしらえてくれたゆえに、殊更に美味に思うただけであったかも知れぬ。鷹也と過ごした二度と戻らぬ若き日々の至福の味であったのだ。鷹也の亡き後にあの味はもう――」
将軍様は声を詰まらせ、涙の滲んだ目を袂で押さえた。
「――鷹也?富羅鳥藩のお殿様のことか?亡き後ということは――」
サギは国元の富羅鳥藩のことさえ疎い。
忍びの隠れ里の者が誰も敢えて口にしない事は当然、サギが知る由もなかったのだ。
「――そう、あれは十四年前の秋、鷹也がまだ二十五歳の若さで急な病いに倒れたと報せを受けた時には江戸中の寺社に回復を祈祷させ、わしも明日にも病床へ見舞いに駆け付けんと富羅鳥へ向かう心積もりでおったのだが、間に合わず、鷹也は――、鷹也は――ぅ、うぅ――」
将軍様は身も世もなくヨヨヨと泣き崩れた。
「将軍様が大名の藩主にそうまでも?」
調理場でシメが不可解そうに首を捻ると、
「女子には分からぬ。武家の男子の高尚な世界のことぢゃ」
ハトが知ったかぶりで言った。
「上様は富羅鳥のお殿様とさぞかし仲良しぢゃったんぢゃのう――」
サギは思わず貰い泣きする。
まさか富羅鳥藩主の鷹也が血を分けた実の父とも知らず、ただ亡き友を想う将軍様の心に深く感じ入ったのである。
「――はぁ、まだこれほどに涙が出ようとは。若返った気がするのう」
将軍様は泣きやんでスッキリした顔で笑むと、また機嫌良く蕎麦を啜った。
「――ん?その唐辛子、ええなあ」
サギは将軍様の脇に置かれた唐辛子の張りぼてに興味を引かれた。
張りぼては長さが畳の半畳ほどもある。
「ほほ、これかえ?」
将軍様は得意げに笑んで、
「ほれ」
唐辛子のヘタの部分を握ると少しだけ引き抜いて見せた。
チラッと白刃が光る。
なんと、唐辛子の張りぼてには刀が仕込まれていたのだ。
仕込み唐辛子。
「ほお~」
サギは目を輝かせた。
「まだあるぞ」
さらに、将軍様は『とうがらし』の登り旗の竿の節目を引き抜いた。
なんと、竿の先は槍になっている。
仕込み登り旗。
「ほお~」
サギは羨ましげに唐辛子売りの道具の隠し武器を見つめた。
お忍び歩きの将軍様の持ち物のほうがよほど忍びらしいではないか。
サギの隠し武器はといえば田楽の竹串である。
いざという時の武器として田楽の竹串はお粗末にもほどがあるように思える。
サギは常々、不満であった。
「――さて、そろそろ戻りませぬと田貫が煩そうござりましょう」
どん兵衛がそう促すと、
「もう時分か。愉しい時は過ぎるのが早い」
将軍様はしぶしぶと腰を上げた。
「にゃん影」
我蛇丸が奥へ呼ぶと、にゃん影がヒュッと風に吹かれた黒煙のように現れた。
「これはにゃん影と申す忍びの猫にござります。どうぞお連れ願わしゅう存じまする」
「ニャッ」
にゃん影は将軍様の御前でもペコリともせず挨拶代わりに一声鳴いた。
「おお、これが話に聞く忍びの猫。なるほど射干玉の闇のように見事な黒猫であるのう」
将軍様はこれを待ち兼ねたというように喜んでにゃん影を抱き上げた。
にゃん影のお役目のことは前もって我蛇丸が伝えていたらしい。
(むむ、にゃん影めが、上様からお褒めの言葉を頂戴しおって)
サギはにゃん影を睨んだ。
どうしても忍びの猫のほうがサギよりもはるかに役に立つ。
分かっているだけにサギは悔しい。
「では、また参るぞ」
将軍様とどん兵衛は人通りの多い往来へ出ると、
「と~ん、とと~ん、とんがらし~♪」
また調子外れな売り声を上げながら去っていく。
その後ろに黒い影のように忍びの猫にゃん影が付き添っていた。
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