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七色唐辛子売り
しおりを挟む「――やはり。シメ、ハト、急げっ」
往来の中に何者かを認めた我蛇丸は慌てて二人に指図した。
「お、おうっ」
シメとハトは焦って調理場へ戻ると、棚の奥から普段は使わぬ上等な箱膳やら皿小鉢やらを取り出している。
「なんぢゃ?なんぢゃ?」
サギは忙しげに立ち働く三人を訳も分からずキョロキョロと目で追っていたが、
「サギ、訳を訊かしとる暇はない。大事なお方がお出ましぢゃ。粗相のないよう奥へ引っ込んどれ」
シメに襟首を掴まれ、調理場の先の廊下へ引っ張られてポイッと奥の座敷へ放り込まれた。
その僅かの間に、
「ご免っ」
すでに暖簾を仕舞っているにも構わず、二人連れの男が錦庵の戸口をくぐってきた。
その滑稽な出で立ちを見た限りでは巷に珍しくもない七色唐辛子売り。
年の頃は四十前後と五十半ばといったところ。
七色唐辛子売りは山伏のような装束で、大きな赤い唐辛子の張りぼてを小脇に抱えているので一目でそれと分かる。
そのうえ年寄りのほうは『とうがらし』と書かれた登り旗も掲げていた。
「つつがなくお出まし、まことに持って祝着至極に存じ上げ奉りまする」
我蛇丸もシメもハトも奇妙なほど平身低頭して唐辛子売りを出迎えた。
蕎麦に七色唐辛子は付き物だから大事には違いないが、どうも様子が怪しい。
(――抜き足、差し足、忍び足――)
サギは忍びの基本どおりにススススと廊下をすり抜けて調理場の暖簾口から店の中を窺った。
「畏れれながら、あいにく卵焼きがござりませぬが――」
我蛇丸が恐縮して告げると、
「是非もない。余は盛り蕎麦を所望であるぞ」
四十男のほうの唐辛子売りがやけに間延びした口調で答えた。
(――よ?)
サギは初めて聞く言葉遣いに耳をそばだてる。
さて、たしか蕎麦も売り切れのはずであったが、
我蛇丸は迷うことなく六段に重なった空の生舟の四段目を引き抜くと、箱にビッシリと並んだ蕎麦を取り出した。
実は、先ほどサギが蕎麦の入った一箱をこっそり空箱と入れ替えておいたのだ。
(あ~、わしが身の丈の高さの分を数えよう思うて隠しておいた蕎麦。兄様にはお見通しか。無念ぢゃあ)
年端もいかぬ頃からサギは忍びの修行の一貫として大人の目を盗んでは食べ物をくすねるのだが、ハトやシメは騙せても我蛇丸にはすぐに見抜かれてしまう。
(後ろ頭にも目が付いとるんぢゃ。兄様は)
サギは蕎麦を茹でている我蛇丸の後ろ頭を恨めしく睨んだ。
(腹ペコぢゃあ)
まだ昼飯前であったのだ。
菜っぱ飯の握り飯は唐辛子売りが来たがためにシメが鼠入らずの中へ片付けてしまった。
その時、
ジュジュ。
パチパチ。
火鉢の焼き網の上の鳥の味噌漬けから香ばしい煙が立ち上がった。
焼きかけて放ったらかしの味噌漬けが焦げる寸前。
「あいやっ」
ハトは素早く味噌漬けを皿に移す。
すると、
「――この香りっ」
唐突に四十男のほうの唐辛子売りが香りに引き寄せられたかのように調理場へ入り込むが早いか、
いきなり味噌漬けを箸に取って口元へ持ち上げた。
だが、
「アチッ、アチッ」
よほどの猫舌と見えて口に入れることは出来ぬらしい。
「なんぢゃっ。他人の味噌漬けを断りもなくっ」
すこぶる腹減りのサギは思わず怒声を上げる。
「控えおろうっ」
とたんに年寄りのしゃがれ声の叱責が頭の上に落ちてきた。
「これ、無礼者っ。此方におわす御方をどなたと心得るっ。畏れ多くも――っ」
年寄りは言いかけてハッと連子格子の表の人通りを気にして言葉を切った。
「ぼんぼぉん~♪」
通っていくのは手習い所帰りの娘子等ばかり。
それでも、用心深く我蛇丸が声を潜め、サギにコソッと耳打ちする。
「え、ええっ?う、うえっ、うえっ、うえっ、うえっ――」
驚きのあまりサギはしゃっくりのように「うえっ」を繰り返す。
意外や意外、
七色唐辛子売りの正体は市中へお忍び歩きの将軍様であった。
「うえっ、うえっ、うえっさま――」
やっと「上様」が口から出たが、
「しっ、声が高いっ」
シメが乱暴にサギの口を塞ぐ。
「これは手前の身内の者でサギと申します。存ぜぬ事とは申しながら重ね重ねのご無礼、何卒、ご容赦のほどを――」
かしこまった口調で我蛇丸が将軍様の前に膝を突いた。
「苦しゅうない。苦しゅうない」
将軍様は鷹揚に頷き、ようやく鳥の味噌漬けをパクリと頬張った。
この将軍様がお忍びで出歩くのは珍しいことではなかった。
なにしろ市中の者は誰一人として将軍様の顔を見知らぬのだ。
将軍様は卵に目鼻というような癖のない温和しい顔立ちで、派手で目立つ物売りの装束で変装すれば、なおのこと中身は印象薄く見えた。
今日はお三日の十五日。
お三日は諸大名の登城日で朝から家来を従えた諸大名が続々と江戸城へ馳せ参ずる。
そして、江戸見物へ来た人々は大名の登城行列を見るために下馬所へ詰め掛ける。
登り旗を指差して国元の藩が登城していたら大喜びだ。
その見物人目当てに甘酒や麦湯や水菓子の物売りまで集まって、人、人、人でごった返す。
このように人の出入りが多いのに紛れて城を抜け出すのにお三日はまことに具合が良かった。
登城で将軍様に謁見の出来る大名といえど将軍様の御前ではひれ伏して顔を上げることも許されない。
それを幸い、将軍様は謁見には替え玉を座らせ、自身は物売りに変装し、ウキウキと躍り足で江戸の町へ繰り出すのであった。
この将軍様、とっくのとうに政は老中の田貫兼次に丸投げしていた。
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