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芳町芸妓
しおりを挟む「ご免なさいよ」
日の照りつける表から藍染めの暖簾をパッと振り分け、薄暗い店の土間へスッと女の影が射した。
黒い絽の単衣に白い長襦袢が透けて白博多帯も涼しげな若い芸妓である。
「ああ、熊さん、やっぱり、いたねえ。今日みたいに照る日はどっおせ蕎麦だろうと思ったら案の定だよ」
伝法な口振りで土間を黒塗り下駄のカラコロと早足で小上がりの熊五郎へ近付きながらチラッとサギの顔を見やる。
その伏せ目がなんとも艶かしい。
つい手を合わせて拝みたくなる観音様のような美人だ。
白と黒の無彩色に緋色の裾よけがチラリと覗いて見えるだけの身装。
島田髷には櫛と小さな翡翠玉の簪一本きり。
これぞ江戸の粋といった趣。
昨日、見世物小屋で見掛けた煌やかな豪商の娘等は派手を好む上方風である。
江戸の大店は上方からの出店ばかりで豪商の娘等はおのずと国元の上方風であった。
だが、こうして見ると無彩色の装いの美人のほうが圧倒的に美しいではないか。
「はぁ~」
サギは溜め息混じりに見惚れていたが、
「これっ」
シメの叱責に慌てて立ち上がり、芸妓にペコリとして奥の暖簾口へ引っ込んだ。
「――あれは蜂蜜姐さんって売れっ子の芳町芸妓ぢゃ」
調理場の洗い場で器を洗いながらハトがヒソヒソ声でサギに教える。
「ふうん」
サギはまた調理場の暖簾口から店の様子を窺った。
忍びの習い性か、はたまた野次馬根性か、熊五郎と蜂蜜の話に聞き耳を立てる。
座敷は満席で賑やかだが熊五郎は調理場側の壁を背に座っていたので声は聞き取りやすかった。
「綺麗な子だこと。ねえ?」
蜂蜜はサギの入った奥の暖簾口に目をやってから探るように熊五郎を見た。
「うん?サギちゃんかい?あっしゃ、よく顔見てねぇや。だってよ、卵焼きが目の前にあんだからぁ食ってりゃそっちぃ見んだろ?」
熊五郎はそう言うと蕎麦をスルスルと啜り、ほぼ噛まずに飲み込んだ。
蕎麦が目の前にあるせいか蜂蜜の顔さえも見てはいない。
「熊さんときたら、これだから」
蜂蜜はニッコリして左褄を取ると小上がりに斜めに腰を下ろした。
座敷へ上がる気はないらしい。
「蜂蜜、おめぇ、真っ昼間っから何でぇ?」
「何って、お参りの帰りさ。今日はお三日の十五日ぢゃないか」
蜂蜜は帯に挟んだ扇子を取ってパタパタと扇ぐ。
江戸では月の朔日、十五日、二十八日はお三日といってお参りする日である。
お参りといったら午前中の早いうちと決まっている。
しきたりに煩い花柳界ではお三日のお参りは欠かさない。
「――おや?これ」
蜂蜜は熊五郎の傍らにある児雷也の読売を手に取った。
「え~、児雷也の生国と発しまするは――」
蜂蜜は面白尽く(興味本位)の児雷也の生い立ちを愉快げに読み出す。
手習い所での習い癖でどうしても声に出して読んでしまう。
「あたしゃ、明日、見に行くんさ。近江屋の旦那がうちの妓みんなに通り札をくれなすったから」
通り札とは木戸銭なしで見られるご優待のようなもの。
「近江屋だあ?」
熊五郎はとたんに口をへの字に曲げた。
近江屋は京が本店の呉服商で日本橋に江戸店がある。
近江屋の旦那は江戸の濃口醤油は口に合わぬと国元から淡口醤油を取り寄せているというので熊五郎は日頃から近江屋を目の敵に思っていた。
『しゃらくせぇ。べらぼうめ』
『丸正屋の濃口醤油は杉桶三年仕込みの自慢の一品でぃ』
『蕎麦でぇ鰻でぇ天麩羅でぇ寿司でぇ濃口醤油があってこそでぃ』
『江戸っ子の身体を流れてんなぁ血ぢゃあねぇ。濃口醤油なんでぃ』
江戸っ子の代表でもあるまいに熊五郎は常々そう息巻いていた。
実際、熊五郎が汗ばむと毛穴からほのかに醤油の芳香が立つ。
真ん丸顔で色黒の熊五郎がいきり立つと、まさしく焼き団子のようであった。
「だって、ほら、近江屋は鬼武一座の後援なのさ。そいで、児雷也の衣装は近江屋の誂えだってぇのさ。旦那、大威張りでさ。どうだった?衣装、さぞかし立派だろうねぇ」
蜂蜜は一枚刷りをヒラヒラさせておひゃらかす。
よくよく見ると読売の児雷也の絵の扇子にそれとなく近江屋の屋号が描いてある。
近江屋が作らせた読売だったのだ。
ほとんどの大店は芸人や役者、絵師などを後援し出資して店の宣伝に利用していた。
「ふん、どうりでキンキンだと思ったらよぉ。近江屋かい。けっ、どうりでキンキンだと――」
熊五郎はしつこく繰り返す。
昨日からずっと児雷也がお気に入りだっただけに敵方の贔屓だと知ると無性に癪に障る。
百貫デブの熊五郎がカッカし出すと暑苦しい。
「おっと、それよか、こん次の舟遊びの相談だけどさ」
蜂蜜はさっさと話題を変えた。
「熊さんと桔梗屋の草さんとあたしと他に芸妓二人。熊さんが一人で目方が二人分だろ?二人と三人で座りゃあ舟が安定すっから五人にしようって草さんがお言いでさ。熊さんにどの妓、呼ぶんだか決めとくれって」
桔梗屋の若旦那は草之介といって熊五郎とは幼馴染みの遊び仲間である。
小町娘といわれる桔梗屋のお花の兄だけあって草之介もまた評判の美男であった。
「う~ん、そうさなぁ。草さんは蜂蜜と並んで座りてぇに決まってらぁな。あっしゃ、アレだな、松千代、いや、竹奴、う~ん――」
熊五郎はすぐに機嫌を良くして舟遊びの芸妓選びに熱中した。
「スルスル――」
熊五郎が二十五枚目の蕎麦をたぐり始めた頃、
「お頼ぅ申しぁす。桔梗屋にござりぁす。盛り蕎麦を五十枚、願いますぅ」
紺色の前垂れ姿の小僧が出前を頼みにやってきた。
「五十枚?ひぃ、ふぅ、みぃ、よ、いつ――。ちょうど終いぢゃ。シメ、すぐに表の暖簾、入れとくれぃ」
ハトが桐の生舟(麺を入れておく箱)に並んだ蕎麦を数えて慌てて言った。
まだ昼八つ(午後二時頃)にもならぬうちに店仕舞いだ。
大食らいの熊五郎が来たせいにしても早い。
「今日はやけに早う蕎麦が減ったのう」
我蛇丸が疑わしげにサギを見やる。
「……」
サギはキョロキョロと目を泳がせた。
「おう、千吉どん。おめぇ、もう三年目だろ?宿下がりぢゃねぇんかい?」
熊五郎が桔梗屋の小僧に訊ねた。
江戸が本店の奉公人は入店三年目になるとお盆に里帰りすることが出来るのだ。
「うちぁ川向こうで近いんでござりぁす。今朝、奥様に戴いた手土産を持って帰って、すぐに戻りぁした」
川の内側が江戸という考えなので江戸に近い田舎は川向こうと言い表す。
「うちぁ狭いのに小さい弟が三人もいて騒がしいのなんの一日だっていられぁしない。桔梗屋のほうが他の小僧と一緒の大部屋でもずうっと広々としてええんでござりぁす」
千吉は熊五郎とは気安いらしくペラペラとしゃべる。
「それに明日は番頭さんが残った小僧を両国へ連れてって下さるんでござりぁす。やっと屁放男が見られると思うと嬉しゅうて嬉しゅうて」
千吉は手を合わせて目を輝かせた。
屁放男とは両国の見世物小屋で大評判の思うままに屁を放って、屁の音階で曲を奏でるという芸人である。
千吉も他の小僧もまだ十二歳から十四歳の童なのでこんな見世物が楽しみらしい。
「ときに千吉どん。今日は草さん、ずっとお店かえ?」
やにわに蜂蜜が何か心配げに訊ねる。
「いえ。若旦那様は今朝は寝床から出てまいりぁせん。何でもゼツボーのフチにおいでとかで。けど、蕎麦は召し上がれるそうなので」
千吉は素直にペラペラと聞いたままをしゃべった。
「おや、絶望の淵にって?草さん、何があったんだろ?」
蜂蜜は熊五郎と顔を見合わせる。
「よっしゃ。あっしゃ、ちょっくら桔梗屋へ寄って、草さんの具合を見てやらぁ」
ペロリと蕎麦三十枚を平らげた熊五郎はようやく長っ尻を持ち上げた。
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