富羅鳥城の陰謀

薔薇美

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序幕 富羅鳥山

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 さやかに澄んだ月夜であった。

 富羅鳥山とらとりやまの山中は木々がくっきりと黒く影絵のように月の光に照らし出され、二つの長く伸びた影法師が木々の間を見え隠れしながら進んでいた。

「あぁ」

 後ろ側の人影がまろびかけて木の幹にすがり付いた。

 前を進んでいた人影が歩を止めて、

「お方様、この山奥に大膳だいぜんと申す猟師の小屋がござりまする。そこまで辿り着きさえすれば無事に逃げおおせるというもの。今しばらくのご辛抱を――」

 幼君の鳶千代とびちよを背負った爺やの雁右衛門がんえもんは振り返って、お鶴の方を励ました。

「――はぁはぁ、どうか私に構わず、鳶千代を連れて先に逃げておくれ――」

 産み月になる身重のお鶴の方に険しい山道はすでに限界であった。

「ははうえぇ――」

 鳶千代は爺やの背でしくしくと泣き出した。

 
 
 この数日の出来事は幼い鳶千代には悪夢のようであった。

 父、富羅鳥守鷹也とらとりのかみ たかなりの謎の死。   

 参勤で富羅鳥藩主、富羅鳥守鷹也は側室のお鶴の方と世継ぎの鳶千代と共に江戸へあがっていたが、

 半年の参勤を終えて鷹也が国元の富羅鳥城へ戻った矢先の突然の死であった。

 江戸に残されていたお鶴の方には死の詳細も分からなかった。

 まだ二十代半ばの若さで前日までまったく健常そのものの鷹也であったのだ。

 雁右衛門の話ではすべて何者かの仕組んだ陰謀によって鷹也は急病に見せかけて毒殺されたらしいという。

 温厚篤実な鷹也は他人から恨まれるような人柄ではないのだが、将軍様から格別な厚遇を受けていたために他の藩主等から妬みをかっていた。

 それというのも鷹也がたぐまれな美男であったからに他ならぬが、

 それ以外にも参勤に登る度に将軍様へ献上する富羅鳥山の鳥の味噌漬けが将軍様の大好物であった。

 いずこの藩主も献上品は悩みの種なのだ。

 将軍様の厳命によって、この献上鳥の味噌漬けの料理法は富羅鳥藩から藩外不出の秘伝となっていた。

 そして、藩外不出の秘宝は他にもある。

 それはいったい何であるかは秘宝だけに秘密であった。

 鷹也の亡き後、将軍様は鳶千代が元服するまで江戸城で預かり、富羅鳥藩の存続に力添えを惜しまぬ意向であった。

 だが、ついには世継ぎの鳶千代の身命をもおびやかさんとする陰謀の魔の手が江戸にまで迫っていた。

 鳶千代の豆菓子に毒が含まれたのだ。

 たまたま運良く鳶千代が庭で鳩に豆菓子をやったのでコロリと死んでしまったのは鳩であった。

 お鶴の方と鳶千代は雁右衛門に急き立てられるまま、江戸屋敷を抜け出し、

 雁右衛門がどこからか調達してきた旅芸人の通行札を使って鳥追い姿の女芸人に身分をやつし、国元の富羅鳥山まで命からがら逃げてきたのだった。



「――やっ、追っ手がっ」

 来た道を振り返って雁右衛門は低く唸った。

 後方から松明たいまつの明かりが三つ、揺れ動きながら近づいてくる。

「あぁ、追っ手がすぐそこへっ」

 狼狽ろうばいしたお鶴の方が弾かれたように身を起こすと、

 カラン!
 カラン!

 いきなり甲高い音が鳴り響いた。

 獣除けの鳴子に触れてしまったのだ。

 鹿や猪のような獣が村里へ下りて畑を荒らさぬように山中の木のところどころに鳴子が仕掛けられていた。

てぃっ」

 後方から鋭い声が響くや否《いな》や、

 ヒュン!
 ヒュン!
 ヒュン!
 ヒュン!

 横なぶりの雨のように無数の矢が降りそそぎ、

 カッ!
 カッ!
 カッ!
 カッ!

 雁右衛門の頭上やお鶴の方の鼻先をかすめて木の幹に矢が突き刺さった。

「逃げてっ。鳶千代を連れて、早ようっ」

 喉から振り絞るようにお鶴の方が叫んだ。

 お鶴の方の必死の懇願に雁右衛門は背負った鳶千代を前に抱き直し、

「お方様っ、のがれて無事、大膳の元で落ち合いましょうぞっ」

 そう告げて老人とは思えぬ俊敏な動作で鳶千代を抱えて駆け出した。

「ははうえぇっ」

 雁右衛門の肩越しに鳶千代がお鶴の方のほうへ小さな手を伸ばして泣き叫ぶ。

「鳶千代っ。鳶千代ぉっ」

 お鶴の方も我が子の名を泣き叫んだ。

 そして、

 涙に曇ったお鶴の方のまなこには無数に飛ぶ矢と、

 木々の間を見え隠れしながら駆け去る黒い影から白煙が湧き上がり、

 白煙の向こうの薄ぼんやりとした黒い影に矢が突き刺さるのが映った。

 これが絶望というものか。

 お鶴の方は全身を張り詰めて微動だにしなかった。

 みるみるうちに白煙が広がっていった。

 火薬の臭いがツンと鼻孔を突き、

 やがて、視界は真っ暗闇になった。

「――」

 お鶴の方は声も無く、気を失って、そのまま草むらの中へ沈んでいった。

「仕留めたかっ」

「崖から落ちたぞ。若君も一緒ぢゃっ」

「雁右衛門、あの裏切り者の爺めがっ」

「崖下へ下りよ。雁右衛門の首を持ち帰るのぢゃっ」

 膝ほどの高さまで茂った草むらに埋もれたお鶴の方には気付くこともなく追っ手が駆け抜ける足音が遠ざかっていった。



「何事も無さそうぢゃがのう」

「う~ん、村のタキが山菜採りの帰りしな怪しい人影を見掛けたと言うておったんぢゃがなあ」

 山中を行くのは富羅鳥山の猟師、大膳だいぜんと数え五歳になるせがれの我蛇丸《がじゃまる》であった。

 話し口調で爺むさく思えるが大膳はまだ二十五歳である。

 山の夜廻りは父子ちちこの日課であった。

「山賊なんぞから富羅鳥山を護るのが、わし等の務めぢゃけぇのう」

「けど、父っつぁん。わし等はれっきとした富羅鳥の忍びの者。山の警護ばかりが務めぢゃ形無しぢゃあ」

 我蛇丸は無念そうに口を尖らせた。

「そうは言うても、とうに戦国の世は過ぎ去った。天下泰平ぢゃ。泰平の世に忍びは無用の者ぢゃでのう。殊に今の富羅鳥守鷹也様は真っ当正直なまつりごとを尊ぶ精錬潔癖なお人柄、忍びを使うた裏工作などとは無縁なのぢゃ」

 大膳は鷹也に親しみを込めて言った。

 まだ鷹也の急死は人里離れた山奥までは伝わっていなかった。

「うん。お殿様は鷹狩りのたんびに富羅鳥山においでなさるが、お優しいお方ぢゃなあ。――あ、父っつぁん。あれっ」

 我蛇丸が指差した先には木の幹に突き刺さった無数の矢。

「密猟の者ぢゃろうか?」

 矢を抜いて巖灯がんとうの明かりに近づけて見る。

「――あ、何かにつまずいた。おっかしいな。富羅鳥山は目をつぶってたって歩けるものを」

 見ると紐が切れた鳴子が木の枝に垂れ下がっている。

 その時、

 大膳が我蛇丸の足元へ明かりをかざすよりも早く、雲の切れ間から月が現れた。

 草むらに身を横たえた青白いおもてが月の光に浮かび上がる。

女子おなごぢゃ。見たこともない女子《おなご》ぢゃ」

「――うぅ――ん」

「しっかりしろ。――や?この女子おなごは身重ぢゃ」

赤子あかごが産まれるのか?」

「我蛇丸っ。すぐに小屋へ戻って若い衆を呼んで来い。戸板へ乗せて女子おなごを運ぶんぢゃ」

「おいきた。ひとっ飛びぢゃっ」

 我蛇丸は木の枝に飛び上がると、枝から枝へと飛び移って山の奥深くへ消えていった。



「――だいぶ血の気が戻ったようぢゃなぁ」

 大膳の小屋で足湯に浸かり、温かい葛湯くずゆを飲まされたお鶴の方の頬にようやく赤みが差してきた。

 まだ二十歳を一つ二つ過ぎただけのうら若いお鶴の方なので身体の回復は早かった。

「このように白くやわい手をして、何不自由なく暮らしていた女子おなごのようぢゃが」

 大膳の母のおときは濡れ手拭いでお鶴の方の手足を拭いてやりながら、三味線のばちダコもない白魚のような細い指とちぐはぐな鳥追い姿をいぶかしんだ。

「――」

 お鶴の方は放心した表情でされるままに人形のように力無く土間の柱に寄り掛かって座っている。

「帯に下げとった通行札を見るとお前さんは江戸から来たおかもという女芸人ぢゃのう?連れがおるはずぢゃが」

 大膳が訊ねてもお鶴の方はぼんやりとして何も見えず聞こえずといった風。

「おそらく密猟の者に鹿と間違われて矢で射られかけたんぢゃ。正気を失うのも無理はないのう」

 大膳はお鶴の方にそう思い込ませるように言った。 

 富羅鳥の忍びの頭領がすっかり泰平ボケしてそう思った訳では無論なかった。


 
 その丑三つ時。

「う――うぅ――」

 座敷に寝かされていたお鶴の方がにわかに下腹を押さえ痛みに息を乱し始めた。

 江戸から富羅鳥までニ日も歩きづめだったために赤子が早めに下りてきたらしい。

「――や、これは直に産まれそうぢゃ。ハト、馬屋のはりへ縄を吊せ。シメ、湯をたっぷりと沸かせっ」

「ははぁっ」

 おときの指示でハトとシメはキビキビと立ち働いた。

 二人共、富羅鳥の忍びの者の子で我蛇丸より四つ五つ年上である。

 お産は不浄とされた時代ゆえに馬屋に支度が整えられた。

「この富羅鳥の子等はみな、婆様ばばさまが取り上げて産まれたんぢゃ。婆様ばばさまに任せておけば心配いらん」

 そう言いながらも大膳は落ち着きなく馬屋の前を行ったり来たりした。

「あの女子おなごがこのまま小屋にとどまればええんぢゃがなあ」

 我蛇丸は馬屋を追い出された馬の鼻筋を撫でながらポツリと言った。

「のう?ホントはあの矢は密猟の者じゃないんぢゃろ?あの女子おなごはきっと悪者から逃げてきたんぢゃ。わしにだってそれくらい分かろうものぢゃ。のう?父っつぁん」

 数え五歳にしては頭の巡りの良い我蛇丸は熱心に言った。

「それに、わしはずっと、あんな美しい母様かかさまが欲しかったんぢゃ」

 我蛇丸を産んだ母は物心つく前にとうに亡くなっていた。

「それに、わしは弟か妹も欲しかったんぢゃもの。渡りに船とはこのことぢゃ」

「……」

 わらし戯言ざれごとと大膳は黙って聞き流していたが、実のところ、大膳も何故だか初めて見た時からあの女子おなごとずっと共に暮らしていくような直感があった。

「湯が沸いたぞぉ」

 湯殿からシメの声がする。

「おうよっ」

 我蛇丸は張り切って湯殿へ駆け込んで、ハト、シメと手桶を順繰りに繋いで湯を馬屋の前に置かれたたらいに移した。

 
 ほどなくして、

「うぅああああ――っ」

 馬屋の中から女子おなごの絶叫が聞こえた。

「産まれた、産まれた。おお、器量のええ赤子あかごぢゃあ」

 おときの嬉しげな声のすぐ後に、

「おんぎゃあ、おぎゃあっ」

 力強い赤子の泣き声が聞こえてきた。

「あぁ、産まれた――」

 我蛇丸はホッとしてたらいに湯をザバーッと流し込んだ。

 湯の中に我蛇丸の顔と天上の月が映って揺れている。

 振り返って天を仰ぐ。

 雲一つ無い。

 さやかに澄んだ月夜であった。
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