1 / 312
序幕 富羅鳥山
しおりを挟むさやかに澄んだ月夜であった。
富羅鳥山の山中は木々がくっきりと黒く影絵のように月の光に照らし出され、二つの長く伸びた影法師が木々の間を見え隠れしながら進んでいた。
「あぁ」
後ろ側の人影が転びかけて木の幹にすがり付いた。
前を進んでいた人影が歩を止めて、
「お方様、この山奥に大膳と申す猟師の小屋がござりまする。そこまで辿り着きさえすれば無事に逃げおおせるというもの。今しばらくのご辛抱を――」
幼君の鳶千代を背負った爺やの雁右衛門は振り返って、お鶴の方を励ました。
「――はぁはぁ、どうか私に構わず、鳶千代を連れて先に逃げておくれ――」
産み月になる身重のお鶴の方に険しい山道はすでに限界であった。
「ははうえぇ――」
鳶千代は爺やの背でしくしくと泣き出した。
この数日の出来事は幼い鳶千代には悪夢のようであった。
父、富羅鳥守鷹也の謎の死。
参勤で富羅鳥藩主、富羅鳥守鷹也は側室のお鶴の方と世継ぎの鳶千代と共に江戸へ登っていたが、
半年の参勤を終えて鷹也が国元の富羅鳥城へ戻った矢先の突然の死であった。
江戸に残されていたお鶴の方には死の詳細も分からなかった。
まだ二十代半ばの若さで前日までまったく健常そのものの鷹也であったのだ。
雁右衛門の話ではすべて何者かの仕組んだ陰謀によって鷹也は急病に見せかけて毒殺されたらしいという。
温厚篤実な鷹也は他人から恨まれるような人柄ではないのだが、将軍様から格別な厚遇を受けていたために他の藩主等から妬みをかっていた。
それというのも鷹也が類い希な美男であったからに他ならぬが、
それ以外にも参勤に登る度に将軍様へ献上する富羅鳥山の鳥の味噌漬けが将軍様の大好物であった。
いずこの藩主も献上品は悩みの種なのだ。
将軍様の厳命によって、この献上鳥の味噌漬けの料理法は富羅鳥藩から藩外不出の秘伝となっていた。
そして、藩外不出の秘宝は他にもある。
それはいったい何であるかは秘宝だけに秘密であった。
鷹也の亡き後、将軍様は鳶千代が元服するまで江戸城で預かり、富羅鳥藩の存続に力添えを惜しまぬ意向であった。
だが、ついには世継ぎの鳶千代の身命をも脅かさんとする陰謀の魔の手が江戸にまで迫っていた。
鳶千代の豆菓子に毒が含まれたのだ。
たまたま運良く鳶千代が庭で鳩に豆菓子をやったのでコロリと死んでしまったのは鳩であった。
お鶴の方と鳶千代は雁右衛門に急き立てられるまま、江戸屋敷を抜け出し、
雁右衛門がどこからか調達してきた旅芸人の通行札を使って鳥追い姿の女芸人に身分をやつし、国元の富羅鳥山まで命からがら逃げてきたのだった。
「――やっ、追っ手がっ」
来た道を振り返って雁右衛門は低く唸った。
後方から松明の明かりが三つ、揺れ動きながら近づいてくる。
「あぁ、追っ手がすぐそこへっ」
狼狽したお鶴の方が弾かれたように身を起こすと、
カラン!
カラン!
いきなり甲高い音が鳴り響いた。
獣除けの鳴子に触れてしまったのだ。
鹿や猪のような獣が村里へ下りて畑を荒らさぬように山中の木のところどころに鳴子が仕掛けられていた。
「射てぃっ」
後方から鋭い声が響くや否《いな》や、
ヒュン!
ヒュン!
ヒュン!
ヒュン!
横なぶりの雨のように無数の矢が降り注ぎ、
カッ!
カッ!
カッ!
カッ!
雁右衛門の頭上やお鶴の方の鼻先をかすめて木の幹に矢が突き刺さった。
「逃げてっ。鳶千代を連れて、早ようっ」
喉から振り絞るようにお鶴の方が叫んだ。
お鶴の方の必死の懇願に雁右衛門は背負った鳶千代を前に抱き直し、
「お方様っ、逃れて無事、大膳の元で落ち合いましょうぞっ」
そう告げて老人とは思えぬ俊敏な動作で鳶千代を抱えて駆け出した。
「ははうえぇっ」
雁右衛門の肩越しに鳶千代がお鶴の方のほうへ小さな手を伸ばして泣き叫ぶ。
「鳶千代っ。鳶千代ぉっ」
お鶴の方も我が子の名を泣き叫んだ。
そして、
涙に曇ったお鶴の方の目には無数に飛ぶ矢と、
木々の間を見え隠れしながら駆け去る黒い影から白煙が湧き上がり、
白煙の向こうの薄ぼんやりとした黒い影に矢が突き刺さるのが映った。
これが絶望というものか。
お鶴の方は全身を張り詰めて微動だにしなかった。
みるみるうちに白煙が広がっていった。
火薬の臭いがツンと鼻孔を突き、
やがて、視界は真っ暗闇になった。
「――」
お鶴の方は声も無く、気を失って、そのまま草むらの中へ沈んでいった。
「仕留めたかっ」
「崖から落ちたぞ。若君も一緒ぢゃっ」
「雁右衛門、あの裏切り者の爺めがっ」
「崖下へ下りよ。雁右衛門の首を持ち帰るのぢゃっ」
膝ほどの高さまで茂った草むらに埋もれたお鶴の方には気付くこともなく追っ手が駆け抜ける足音が遠ざかっていった。
「何事も無さそうぢゃがのう」
「う~ん、村のタキが山菜採りの帰りしな怪しい人影を見掛けたと言うておったんぢゃがなあ」
山中を行くのは富羅鳥山の猟師、大膳と数え五歳になる倅の我蛇丸《がじゃまる》であった。
話し口調で爺むさく思えるが大膳はまだ二十五歳である。
山の夜廻りは父子の日課であった。
「山賊なんぞから富羅鳥山を護るのが、わし等の務めぢゃけぇのう」
「けど、父っつぁん。わし等はれっきとした富羅鳥の忍びの者。山の警護ばかりが務めぢゃ形無しぢゃあ」
我蛇丸は無念そうに口を尖らせた。
「そうは言うても、とうに戦国の世は過ぎ去った。天下泰平ぢゃ。泰平の世に忍びは無用の者ぢゃでのう。殊に今の富羅鳥守鷹也様は真っ当正直な政を尊ぶ精錬潔癖なお人柄、忍びを使うた裏工作などとは無縁なのぢゃ」
大膳は鷹也に親しみを込めて言った。
まだ鷹也の急死は人里離れた山奥までは伝わっていなかった。
「うん。お殿様は鷹狩りのたんびに富羅鳥山においでなさるが、お優しいお方ぢゃなあ。――あ、父っつぁん。あれっ」
我蛇丸が指差した先には木の幹に突き刺さった無数の矢。
「密猟の者ぢゃろうか?」
矢を抜いて巖灯の明かりに近づけて見る。
「――あ、何かにつまずいた。おっかしいな。富羅鳥山は目をつぶってたって歩けるものを」
見ると紐が切れた鳴子が木の枝に垂れ下がっている。
その時、
大膳が我蛇丸の足元へ明かりを翳すよりも早く、雲の切れ間から月が現れた。
草むらに身を横たえた青白い面が月の光に浮かび上がる。
「女子ぢゃ。見たこともない女子《おなご》ぢゃ」
「――うぅ――ん」
「しっかりしろ。――や?この女子は身重ぢゃ」
「赤子が産まれるのか?」
「我蛇丸っ。すぐに小屋へ戻って若い衆を呼んで来い。戸板へ乗せて女子を運ぶんぢゃ」
「おいきた。ひとっ飛びぢゃっ」
我蛇丸は木の枝に飛び上がると、枝から枝へと飛び移って山の奥深くへ消えていった。
「――だいぶ血の気が戻ったようぢゃなぁ」
大膳の小屋で足湯に浸かり、温かい葛湯を飲まされたお鶴の方の頬にようやく赤みが差してきた。
まだ二十歳を一つ二つ過ぎただけのうら若いお鶴の方なので身体の回復は早かった。
「このように白く柔い手をして、何不自由なく暮らしていた女子のようぢゃが」
大膳の母のお鴇は濡れ手拭いでお鶴の方の手足を拭いてやりながら、三味線の撥ダコもない白魚のような細い指とちぐはぐな鳥追い姿を訝しんだ。
「――」
お鶴の方は放心した表情でされるままに人形のように力無く土間の柱に寄り掛かって座っている。
「帯に下げとった通行札を見るとお前さんは江戸から来たお鴨という女芸人ぢゃのう?連れがおるはずぢゃが」
大膳が訊ねてもお鶴の方はぼんやりとして何も見えず聞こえずといった風。
「おそらく密猟の者に鹿と間違われて矢で射られかけたんぢゃ。正気を失うのも無理はないのう」
大膳はお鶴の方にそう思い込ませるように言った。
富羅鳥の忍びの頭領がすっかり泰平ボケしてそう思った訳では無論なかった。
その丑三つ時。
「う――うぅ――」
座敷に寝かされていたお鶴の方がにわかに下腹を押さえ痛みに息を乱し始めた。
江戸から富羅鳥までニ日も歩きづめだったために赤子が早めに下りてきたらしい。
「――や、これは直に産まれそうぢゃ。ハト、馬屋の梁へ縄を吊せ。シメ、湯をたっぷりと沸かせっ」
「ははぁっ」
お鴇の指示でハトとシメはキビキビと立ち働いた。
二人共、富羅鳥の忍びの者の子で我蛇丸より四つ五つ年上である。
お産は不浄とされた時代ゆえに馬屋に支度が整えられた。
「この富羅鳥の子等はみな、婆様が取り上げて産まれたんぢゃ。婆様に任せておけば心配いらん」
そう言いながらも大膳は落ち着きなく馬屋の前を行ったり来たりした。
「あの女子がこのまま小屋に留ればええんぢゃがなあ」
我蛇丸は馬屋を追い出された馬の鼻筋を撫でながらポツリと言った。
「のう?ホントはあの矢は密猟の者じゃないんぢゃろ?あの女子はきっと悪者から逃げてきたんぢゃ。わしにだってそれくらい分かろうものぢゃ。のう?父っつぁん」
数え五歳にしては頭の巡りの良い我蛇丸は熱心に言った。
「それに、わしはずっと、あんな美しい母様が欲しかったんぢゃ」
我蛇丸を産んだ母は物心つく前にとうに亡くなっていた。
「それに、わしは弟か妹も欲しかったんぢゃもの。渡りに船とはこのことぢゃ」
「……」
童の戯言と大膳は黙って聞き流していたが、実のところ、大膳も何故だか初めて見た時からあの女子とずっと共に暮らしていくような直感があった。
「湯が沸いたぞぉ」
湯殿からシメの声がする。
「おうよっ」
我蛇丸は張り切って湯殿へ駆け込んで、ハト、シメと手桶を順繰りに繋いで湯を馬屋の前に置かれた盥に移した。
ほどなくして、
「うぅああああ――っ」
馬屋の中から女子の絶叫が聞こえた。
「産まれた、産まれた。おお、器量のええ赤子ぢゃあ」
お鴇の嬉しげな声のすぐ後に、
「おんぎゃあ、おぎゃあっ」
力強い赤子の泣き声が聞こえてきた。
「あぁ、産まれた――」
我蛇丸はホッとして盥に湯をザバーッと流し込んだ。
湯の中に我蛇丸の顔と天上の月が映って揺れている。
振り返って天を仰ぐ。
雲一つ無い。
さやかに澄んだ月夜であった。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
矛先を折る!【完結】
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
三国志を題材にしています。劉備玄徳は乱世の中、複数の群雄のもとを上手に渡り歩いていきます。
当然、本人の魅力ありきだと思いますが、それだけではなく事前交渉をまとめる人間がいたはずです。
そう考えて、スポットを当てたのが簡雍でした。
旗揚げ当初からいる簡雍を交渉役として主人公にした物語です。
つたない文章ですが、よろしくお願いいたします。
この小説は『カクヨム』にも投稿しています。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
倭国女王・日御子の波乱万丈の生涯
古代雅之
歴史・時代
A.D.2世紀中頃、古代イト国女王にして、神の御技を持つ超絶的予知能力者がいた。
女王は、崩御・昇天する1ヶ月前に、【天壌無窮の神勅】を発令した。
つまり、『この豊葦原瑞穂国 (日本の古称)全土は本来、女王の子孫が治めるべき土地である。』との空前絶後の大号令である。
この女王〔2世紀の日輪の御子〕の子孫の中から、邦国史上、空前絶後の【女性英雄神】となる【日御子〔日輪の御子〕】が誕生した。
この作品は3世紀の【倭国女王・日御子】の波乱万丈の生涯の物語である。
ちなみに、【卑弥呼】【邪馬台国】は3世紀の【文字】を持つ超大国が、【文字】を持たない辺境の弱小蛮国を蔑んで、勝手に名付けた【蔑称文字】であるので、この作品では【日御子〔卑弥呼〕】【ヤマト〔邪馬台〕国】と記している。
言い換えれば、我ら日本民族の始祖であり、古代の女性英雄神【天照大御神】は、当時の中国から【卑弥呼】と蔑まされていたのである。
卑弥呼【蔑称固有名詞】ではなく、日御子【尊称複数普通名詞】である。
【古代史】は、その遺跡や遺物が未発見であるが故に、多種多様の【説】が百花繚乱の如く、乱舞している。それはそれで良いと思う。
【自説】に固執する余り、【他説】を批判するのは如何なものであろうか!?
この作品でも、多くの【自説】を網羅しているので、【フィクション小説】として、御笑読いただければ幸いである。
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる