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偽りの婚約者
④
しおりを挟む秀の両親のスケジュールに合わせて挨拶は来週末に決まり、恋の父親は入院中のため病室でということになって、打ち合わせは終了した。
恋はモヤモヤした不可思議な感情を払拭するべく、残っていた紅茶を一息に飲み干し、退席しようとしたのだが。思いがけず足止めを喰らうこととなってしまっている。
「じゃあ、また」
「はっ!? このまま帰るつもりなのか?」
足元の床に置いていたバッグを手に取り立ち上がった恋のことを、慌てた様子の秀がガタンッと大きな音を立てて立ち上がり、すぐ傍まで駆け寄ってきた。
ーー私、何かおかしなこと言ったかな? それとも、何か言い忘れたことでもあったとか?
秀の慌てように、驚いた恋はポカンとしつつも、問い返す。
「うん。だって、話は終わったんだよね? それとも言い忘れたことでもあるの?」
恋の問いに、一瞬、柄にもなく窮する様子を見せた秀だったが、俺様らしく、やけに強気な発言を繰り出してくる。
「否、そういう訳じゃないが。俺たち、偽りだとはいえ婚約者なんだぞ。話が終わったからって帰ったりしないだろ、普通」
さも、当然であるかのように。
これには、さすがに唖然とさせられた。
確かに間違ってはいない。だがそれは本物の婚約者であるならばの話だ。
「そりゃ、普通はそうかもだけど、本物じゃないんだし」
恋の主張は至極当然なことだと思う。
だが秀にとっては、そうではなかったらしい。
「じゃあ、さっきの言葉は嘘だったのか? 俺のことをもっと知りたいと思ったから、出た言葉じゃなかったのか? 違うのか?」
しかも、婚約者うんぬんの話にではなく、数分前に交わしたやり取りについて言及してくる。
ーーはて。さっき、何て言ったんだっけ?
逡巡する時間を要したが、何とか答えることができた。
「……へ? あっ、ああ、うん。もちろん、嘘じゃないよ」
そのことに安堵している間もなく、秀にバッグを持っていない方の手首を掴まれ、今度はしっかりとした命令口調で言い切られてしまう。
「だったら、帰るな」
ーーそれはどういう意味? どう捉えたらいいの?
恋の胸の内で疑問と戸惑い、ずっと燻っていた期待感とが綯い交ぜとなってどんどん膨張していく。
「……え?」
恋の複雑な心情が、裏返ってしまった声音にも如実に表れていた。
そんな恋に秀は、恋人にでも向けるような、やけに熱のこもった眼差しを向けてくる。
ーー嫌だ、そんな風に見ないで! そんな風に切実に、熱っぽく見つめられたら何も言えなくなってしまうでしょう。
恋の心の声は秀に届くことはかった。
秀の切れ長の双眸と、初めて夜を共にしたあのとき目にした、雄を彷彿とさせる色香を纏った妖艶な相貌とに、魅入られてしまった恋は、身動きも、瞬きでさえも叶わない。
今にも吸い込まれてしまいそう。そんな錯覚に陥ってしまいそうだ。
そこに、手にしていたバッグが床へと落下するドサリという無粋な音がやけに大きく響き渡った。
その音で、我に戻ることができたのだが、その音が部屋の静けさに吸い込まれる寸前。
「俺のことを知りたいんだろ。だったら帰るな。俺たち、婚約者だろ。もうすぐ結婚するんだろ」
言葉は相変わらず俺様仕様の命令口調だが、切なく聞こえてしまうのはなぜだろう。
おそらくそれは、言葉の裏に何かが秘められているんじゃないかという、身勝手な期待感がそうさせているに違いない。
そう思うと、偽りの婚約者を演じる上で、互いのことを知る必要はあっても、本物の婚約者のように一緒に過ごす必要などないのではーーという言葉を再度口にすることはできなかった。
怖かったからだ。
もしもそうじゃなかったとき、秀との関係性が壊れてしまうんじゃないかって。
幾度となく浮上してくるこの期待感通り、秀が恋に対して稀有で特別な存在だという言葉の裏に、恋に対する恋愛感情が秘められていなかった場合のことを思うと。
つまり、後継者をもうけるために、恋の男性恐怖症を克服しようとしているだけだったとしたらーー。
先走った恋が余計なことを口走ってしまったら最後、大きなダメージを負った上に、これまで築き上げてきた親友としての関係性にまで亀裂が入ってしまうのではないか、と。
だとしたら、いつの間にか芽生えてしまっていた、この不可解な感情が親友にではなく、異性に抱くものだったのだと、今さらながらに確信してしまったからといって、認める訳にはいかない。
恋は全力で気づかないふりを決め込んで、猛スピードで胸の奥底に仕舞い込んだ。
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