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#32 魅惑のフォンダンショコラ ⑵
しおりを挟む夜も更け、タワーマンションの最上階に位置するこの部屋から一望できる煌びやかな都会の夜景は、それはもう絶景だった。
それだけ聞くと、世の女性たちはこぞって、やれロマンチックだとか、ドラマチックなシチュエーションだとか言って頬を染め、黄色い声で色めきだつんだろう。
けれどあいにく今の私には、そんなことを思うような余裕も、ましてや夜景を楽しむような余裕なんてものも一切なかった。
何故なら私は、そのオシャレな空間で、人生最大のピンチに見舞われていたからだ。
それは桜小路さんが帰宅して暫くしてのこと。
前もって、口溶けのいいクーベルチュールチョコレートを使用し作ってあったチョコレートソース。
冷凍庫から取り出したそれを生地の中に仕込んで、焼き上がったばかりのフォンダンショコラを桜小路さんにお出ししたところ、事は起こった。
リビングダイニングのソファに座っている桜小路さんが自分の太腿を手でポンポンと軽く叩きつつ、さも当然のことのように驚きの発言を繰り出してきたのだ。
「ここに座って、お前が食べさせてくれ」
「……ええッ!? 私が桜小路さんに食べさせるんですか? しかも足の上で!?」
驚いた私が桜小路さんのことを二度見して、聞き返すのも無理はないだろう。
「あぁ、そうだ。聞こえたなら何度も言わせるな」
「ど、どうしてそんなことしなくちゃいけないんですか?」
「お前に免疫を付けるために決まってるだろう? 分かりきったことを訊くな」
「……で、でも。何も足の上でなくてもいいんじゃ」
「少なくともこの一月で、俺とお前が恋仲であるというのを周囲の者、特に継母に印象づけておかなければならないんだ。ゴチャゴチャ言ってないでさっさとやれ」
けれども私がどんなに反論を試みようとも、頑なな態度を崩す気配のない桜小路さんがやめてくれるはずもなく、結局はお言葉通りに従う他に道はないのだけれど。
いざ、桜小路さんの前に進み出ると、羞恥のせいで、真っ赤に染め上がった全身を竦ませて立ち尽くすことしかできないのだった。
そんな私に向けて、意外にも優しい笑みをふっと零した桜小路さんから、これまた思いの外優しい声音が聞こえてきて。
「そんなに怯えるな。取って食ったりしないから安心しろ」
その声に、羞恥と怖さでいつしか閉ざしていた瞼を上げると、声音同様の柔和な微笑みを浮かべた桜小路さんのイケメンフェイスが待っていた。
いつもは無愛想な桜小路さんの王子様のような優しい笑顔に、思わず魅入ってしまった私の胸が、何故かきゅんと切ない音色を奏でた。
おそらく、驚きすぎたせいだろう。けれどそれも一瞬のことだった。
不躾に凝視したままでいた私の視線が不快だったのか、私の視線とかちあった途端、ハッとしてすぐにいつもの無愛想な表情に戻ってしまった桜小路さんから、
「いつまで突っ立っている気だ? さっさとしろ」
安定の無愛想で不遜な声音でお叱りを賜ってしまった私は、飛び上がるようにして足の上へと飛び乗っていた。
桜小路さんの足の上でちょこんと正座の体勢で座っている私は、まるでペットのようだ。
そして気づいたときには、私は桜小路さんと正面から見つめ合っていて、知らぬ間に腰に回された腕によりしっかりと包み込まれていた。
どうやら私が落ちないようにしてくれているらしいが、正座から跨るような体勢になったお陰で、互いの身体が密着してしまい、恥ずかしくてしょうがない。
命令に従ったまでは良かったが、どうにも不安定で動きにくいし、ちっとも落ち着かない。ちょっとでも動けばバランスを崩してしまいそうだ。
そうなると正面の桜小路さんの身体にぶつかってしまいそうだ。
この場合、ぶつかるというより、自分から抱きつく体勢になるんじゃないだろうか。
ーーそんなの恥ずかしすぎて死ぬ! なんとかそれだけは回避しなければ。
さて、どうしたものか、と思案していた私の眼前に、桜小路さんが片手で器用にフォンダンショコラのお皿を差し出してきて。
「せっかくのフォンダンショコラが冷めてしまう。早くしてくれ」
急かすようにそう言われ、慌てた私はお皿を受け取り、漸く任務に取りかかった。
けれどこれが結構難しい作業だったのだ。
そもそも他人に食べさせたことがない上に、この状況なのだから無理もない。
「あの、もっと大きく口を開けてください」
「あー」
「もうちょっと大きく」
「あー」
「もう一声」
何度かこのやりとりを繰り返していたのだが、どうにもうまく食べさせることのできない私に、とうとう焦れてしまった桜小路さんから、この後、不機嫌極まりない声音が放たれることとなるのだった。
夕食もまだで空腹だろうし、焼きたての芳ばしい香りが立ち込めているのに食べられないんだから、そりゃ機嫌も悪くなるだろう。
「あー、もう。さっきからまどろっこしい。そんなんじゃいつまでたっても食えないだろうが。もういい。代わりにお前が口を開けろ」
桜小路さんの苛立ちに満ちた強い口調にビクッと肩を跳ね上がらせた私には、命令の意図を考えるような猶予などなかった。
言われるがままに口を開け、スプーンを持った桜小路さんの手により器用に納められた、とろりと蕩けた濃厚なチョコレートソースがなんとも美味しいフォンダンショコラは、当たり前だが、私が食べるためじゃない。
私がそのことを察した時には、時既に遅し、後頭部を引き寄せられた私の唇には、桜小路さんの柔らかな唇が隙なく重ねられていた。
驚愕し瞠目してしまっている私の視界一杯には、桜小路さんのイケメンフェイスがデカデカと映し出されている。
だからって、どうすることもできない私はフリーズしたままで、桜小路さんの唇や舌によって、フォンダンショコラが綺麗さっぱり回収されていくのをただただ待っていることしかできないでいた。
咥内で桜小路さんの熱くてざらつく舌が縦横無尽に蠢くたびに、どちらのものかわからない甘ったるい吐息と甘やかな唾液とが溢れてきて、今にも溺れてしまいそうだった。
それは一瞬ではなく、結構な時間をかけて、ご丁寧にも咥内で蕩けたチョコレートソースを舌で、何度も何度も掻き集めるようにして、桜小路さんは私のファーストキスと一緒に掻っ攫っていったのだった。
お陰で、桜小路さんの唇が離れてからも、腰が抜けたような妙な感覚に陥った上に、咥内で蕩けたフォンダンショコラの甘さにすっかり酔わされてしまっていて、未だ放心状態だ。
対して桜小路さんは、昨日と同じで、いつもは無愛想極まりないイケメンフェイスに、なんとも言えない、蕩けてしまいそうなほど幸せそうな表情を湛えて、味を噛みしめるようにして、瞼を閉ざしてしまっている。
そんな桜小路さんは、亀を大事にするだけあって、意外と面倒見がいいようで、茫然自失状態の私のことを落ちないように、自分の胸板へとしっかりと抱き寄せてくれている。
そして私は、あんなに恥ずかしいと思っていた桜小路さんの胸に顔を埋め、全てを委ねるようにして自らしなだれかかっていたのだった。
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