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第二章第30話「母さんが帰ってくる……」
しおりを挟む「母さんが帰ってくる……」
フェスティバルが無事に終わったとほぼ同時にパウルは青ざめる。彼は発表にしか興味がなかったようで、懇親会には出ずにさっさと帰り、研究に勤しみ、ウィルはその隣で彼を眺めていた。
この五日間、ずっと彼のそばにいたが、彼が獣人を殺す病原体を作るようになるとは到底思えなかった。それほどまでに彼は争いが苦手で、自分の研究に誇りを持っている。人間は苦手なようで、ウィルといると落ち着く、といつも気を使ってくれていた。
手が繋がれていないのをいい事にぐるぐると考えていると、深夜になりパウルの母が帰ってきた。
無事にフェスティバルを終えた彼女は、後片付けや反省会は明日以降に行うことにして休息を取るために一度家に戻ることにしたらしい。
それを執事から告げられたパウルは研究を中断し、室内をぐるぐると歩き回っている。どうやら余程母が苦手なようだった。
「そんなに怖い人なんですか?」
「うん……、まぁ……。僕の研究の出資者でもあるから……、逆らえないんだ」
肩を落としている。どんな女性が現れるのかと思っていたら、とても二十六歳になる子供がいると思えない美しい女傑が姿を見せた。
パウルとウィルはエントランスに出て母親を出迎える。彼女は疲労を顔いっぱいにこびりつかせていたが、ウィルとパウルを見るとにっこりと笑った。
「あら、その子がパウルの伴侶?」
背筋をピンと伸ばした彼女が近寄ってくる。
「安心したわ。やっぱり、人生には伴侶がいてこそだものね。これで将来アナタが老いても面倒を見てくれる人が出来たのね。一安心だわ」
それでか、とウィルは納得する。子供が必要ない以上、老後の面倒を見てくれる相手がほしいというだけなら確かに男でも女でもいい。
本来、そういう事情ならお金を出して執事やメイドに頼めばいいのだが、彼女は自分が亡くなった後に起こるかもしれない万が一の事を考え、こんな形で息子に保険をかけているらしい。
「はじめまして。ウィルと申します。どうぞよろしくお願いします」
ウィルは会釈をする。彼女はマジマジとウィルの顔を見た。
「あら、大人しそうでかわいい子じゃない。アナタの趣味って本当に変わらないのね」
「い、いいじゃないか、母さん。今、そんな事を言わなくても……」
顔を赤くしてパウルが抗議する。
「じゃあ、式もあげないとね。簡単なものでいいでしょ? 披露宴はその分力を入れないとね。ああ、その前に……」
母親は片手をウィルに差し出してくる。どうしていいのかと首を傾げると、彼女はウィルの手を掴んできた。
何事かと目を瞬かせると、みるみるうちに母の顔が険しくなっていく。
「どういうこと?」
鋭い視線がパウルを睨む。
「……どういうことって?」
パウルは顔面を蒼白にしていた。もしかして、と背筋に冷たい汗が流れる。
「この子は人狼でしょう? 私をごまかせるとでも思ったの? 何故獣人をこの家に入れるのかしら」
何故わかったのかと、掴まれた手を見つめる。パウルと同じで他人の記憶を読み取る能力なのだろうか。
「母さんは直接触れた相手のプロフィールとオーラを読み取るんだよ。それを使って占いをしている」
「今はそんな事を話している時じゃないでしょう?」
ピシャリと冷たい声によって会話が中断される。パウルはガタガタと震えながら母に抗議した。
「いいじゃないか。僕は獣人が好きなんだ! 結婚相手くらい自由に選ばせてくれよ!」
「人間の中でなら自由に選びなさい。獣人が館の中に入るだけでも鳥肌が立つわ! 汚らわしい!」
これみよがしに彼女はウィルから距離を取る。
「ダメよ、ダメ。この縁談は破棄するわ。今すぐ戻してきなさい」
「そんな、ペットみたいな言い方しないでくれよ! 絶対に嫌だ! 僕はウィルと一生一緒にいたいんだ!」
「何を言っているの? 他にもいい人間はたくさんいるでしょう? 考え直しなさい!」
「嫌だ!」
「だったら、アナタにしている研究支援金は全部打ち切りにするわ!」
母の言葉にパウルの顔が固まる。ここが運命の分岐点か。ウィルは出来るだけ殊勝に見えるように俯いた。
「あの……、でしたら、俺は出て行っても構いません」
「え……」
パウルは悲しそうな顔をする。
「俺のせいでパウルさんが研究を続けられないなんて、あってはならないことです。まだ五日程度の付き合いでしかありませんが、研究を大切にするパウルさんの真摯なお心は伝わってきました。ですので……」
「そんなこと出来るわけないだろう!?」
ウィルの両手を掴むとパウルは正面から見つめてくる。慌てて悲しいと思うようにした。
「せっかく好きになれそうな人に出会えたんだ! 僕は君ともっと一緒にいたい!」
「……でも」
「母さん! いくら母さんでもこの愛は引き裂けないよ! 母さんが資金援助をしてくれないと言うなら、僕は自分でスポンサーを見つけてくる」
き、と母親を睨むパウルは随分と本気のようだった。まずい、とウィルは頭を働かせる。ここで別れると言い張ればより意固地になりそうだ。
「……そう。なら、三日の間、時間を与えましょう。その間、どうするべきか自分でよく考えておくのね」
冷たい瞳で二人を睨みつけると彼女は踵を返し食堂へ向かう。パウルは苦しそうな瞳をウィルに向けてきた。
「ごめん……。君にあんな事を言わせてしまって」
「いえ、僕は本当に大丈夫です」
心から告げるが、本気だと捉えてもらえていないようだった。パウルは眉尻を下げ、けれど気丈な笑みを浮かべた。
どんどん気分が重くなっていく。獣人であることであんなに憎悪を向けられたのは久しぶりだった。
「心配しないで! これでも僕にも当てはあるんだ!」
「……その、お金はどれくらいの額あれば大丈夫なのですか?」
パウルはうぅんと腕を組む。
「とりあえず、三年ほどあれば研究に一区切りがつくと思うから、その間の資金が必要かな」
ウィルは頭の中で金の算段をつける。とはいえ、少し前まで学生だったウィルにはそんなお金はない。そっとパウルから手を離し、両手を胸のあたりで組んだ。
「わかりました。僕の方でも故郷の親にお話をつけてみますね」
淡く微笑むと、パウルは目に涙を溜めていた。
「ありがとう……。ごめんね、君に心配をかけるような旦那で」
心の底から告げているであろう言葉に、ウィルは淡くほほえんで返した。
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