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本編第二部
五月晴れの動物園―自立できなくてすみません
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5月5日の子どもの日。
白い雲を端に寄せて青く染まった空は初夏の陽気に包まれていた。
福田さりなは4歳になる娘のえりなを連れて動物園に来ていた。
本当は両親も一緒の予定だったけど、父が風邪をひいてしまい、さりなとえりなの二人きりのお出かけとなってしまった。
子どもたちのはしゃぐ声が四方から聞こえてくる。あっちもこっちも家族連れで大賑わい。お父さんのいる家族連れの姿を避けようとしつつも、どうしても目についてしまう。
さりなは、そっとえりなの顔を伺うが、えりなは気にしていないのか、それとも気にしていない振りをしているのか……普段と変わらず同じ様子でいてくれている。そのことに、さりなはホッと胸をなで下ろす。
夫だった人と別れて1年半近く経つ。
あれから……養育費は再三請求して、去年の4月からようやく振り込みがされるようになった。
ただ元夫は、娘のえりなとの面会は希望しておらず、彼のマンションを出てからは一度も会っていない。
――ま、彼らしいといえば彼らしい。
えりなは乾いた笑みを浮かべる。
――だから、えりなもパパと距離を置いたほうがいい……。
父親として娘にそれほどの執着を見せない彼にある種の冷たさも感じていた。
娘のえりなはパパの話はしない。パパと一緒にいた頃の記憶もあまりないだろう。
でも、ほかの子にはパパがいるのに自分にはいない……そのことを不思議に思っているかもしれない。
それについてはやはり罪悪感もある。
けれど元夫はもう家族ではない。
「ああ、ゾウさんよ~」
えりなはさりなの手を引っ張り、ゾウのいる柵へ近寄る。
柵の前に来ると、えりなは微動だにせず、じっとゾウを見つめる。どうやらゾウさんが気に入ったようだ。さりなもえりなと一緒に、しばらくゾウさんを眺めることにする。
――5分くらい経ったか。
「そろそろ行く?」
「ううん、もうちょっと~」
えりなは首を横に振り、ゾウから目を離そうとしない。
どちらかというと、えりなはあまり活発ではなく内気な子だった。その分、何かを気に入ると、そればかりに集中するような気質を持っていた。
さりなはため息をつくのを堪え、えりなにつきあう。
――そうだ、今日は子どもの日。えりなの好きにさせてあげよう。
さりなは、23歳の時にデキちゃった結婚をした。えりなのパパとなる彼は当時29歳。大手の出版社に勤めていた。
妊娠が分かった時、戸惑いのほうも大きかったけど、彼とはいずれ結婚しようと思っていたし、それがちょっと早まっただけのこと。今時、デキ婚はめずらしくもないし、かえって結婚への踏ん切りがついた。
さりなの両親も初孫ということで喜んでくれ、とんとん拍子に事が運ばれていった。
ちなみに彼のほうは母親はすでに他界しており、父親は新しい家庭を持っていたので、結婚については軽く挨拶するだけで済んだ。彼を取り巻く環境は、嫁のさりなとしてはとても気楽なものだった。
二人の新居となるマンションへ越したものの、思いのほか悪阻も酷く体調もすぐれなかったので、さりなは結婚後もしばらく実家で過ごすことになった。
その頃、彼は漫画雑誌の編集者として忙しく休日も仕事で出ることも多く、さりなとしては心細かった。
そんなさりなを慮ってくれたのだろう、彼も実家へ帰ることを賛成してくれた。
やがて安定期に入り、さりなは夫のもとに戻った。
が、相変わらず彼の仕事は不規則で、夜中や朝帰りもめずらしくなかった。食事を一緒にすることも稀だった。
近所つき合いのないマンションの部屋に独りでいると、寂しさと不安でいっぱいになり、結局、さりなは実家の両親を頼った。
その頃から彼との間に溝が生まれ、徐々に深くなっていったかもしれない。
えりなが生まれる時、彼は仕事を抜けることができず、結局、生まれてから3時間後にやってきた。
けど1時間ほどしたら、また会社へ戻っていった。
それでも、さりなは納得していた。自分は専業主婦なのだから、彼に仕事をがんばってもらいたいと。
それに両親もいろいろと手伝ってくれていた。自分には助けてくれる家族がいる、恵まれている、そう思っていた。
その『助けてくれる家族』に夫が含まれていないことに気づいていなかった。いや、本当は気づいていたけど、そこに触れないようにしていた。
自分の心をごまかし、見て見ぬふりをしたツケは後から支払うことになった。
赤ちゃんの世話は想像以上に大変だった。後片付けと雑事だけで一日が終わる。何かをやり遂げた実感が持てない。寝不足状態が続き、いつもクタクタで疲れていた。
それなのに夫は帰ってきたら寝ているかスマフォをいじっているかのどちらかだ。家事や育児を手伝おうとしない。娘のえりなのこともあまり関心がないみたいだった。
ある時、ついにさりなの口からモンクがこぼれ出た。
「ねえ、少しは手伝おうという気はないの? こっちは夜もあまり寝られないし、もうヘトヘトなんだけど」
「じゃあ、さりなも僕の仕事、手伝える? 手伝えないよね? それはフェアじゃないよね」
彼はそんな返し方をしてきた。
「家族のために助けようという気はないの?」
「家族のためにちゃんと生活費、渡しているだろ」
「そんなの当然じゃない」
「じゃ、さりなが家事育児をするのも当たり前でしょ。あるいはさりなも稼いでくれる?」
彼は、専業主婦がどれくらい稼げるんだ? と言いたげだった。何だかバカにされた気がした。
次第にさりなはこう思うようになった。
――もしかして私って彼の家政婦? いえ、家政婦のほうがまだマシ。仕事をした分だけの報酬をもらえるのだから。
さりなは、給料の全額ではなく月々の決まった生活費しか渡されていなかった。そう、結婚当初、夫はさりなにこのような選択をさせた。
給料全額渡す代わりに家計簿をきちんとつけるか――
それとも月々決まった額を渡すので、その範囲内でさりなの自由にやり繰りをしてもらうか――この場合は家計簿もつけなくていいし、どうしても足りない時や病気の治療費など想定外の出費、3万円を超えるような大きな買い物の時は相談してくれればいいと。
さりなは迷ったものの、月々決まった額を渡してもらうほうを選んだ。
夫名義の口座のキャッシュカードを渡された。口座に毎月18万円入れてもらい、そこから光熱費・水道料金含め生活費全般をまかなうようにと言われた。
家賃、NHK受信料など変動しない出費は、夫が管理する口座から引き落とされるようになっており、さりなはノータッチ。
資産運用をやるからと、ボーナスも夫が握った。
資産運用って何をするのか質問してみたけど、専門用語を並べられ、さりなにはちんぷんかんぷんだった。
詳しい説明を求めると面倒臭そうに「それくらい自分で勉強してよ」「分からないんだったら口出ししないで」と言われた。
乾いていく心を抱えながら、さりなは子どもの世話をしながら日々を過ごした。
思えば妊娠時、長期の間、実家へ帰ることを勧めてくれたのは、さりなを慮ってくれたからではなかった。ただ、悪阻や精神不安定で苦しんでいる妻を支えるのが面倒だったから、わずらわしかったから。さりなはそう夫を捉えるようになった。
娘のえりなはよく泣いた。お乳もやりオムツも替え、熱もなく、体の調子も悪そうなところはないのに、なかなか泣き止まない。
甲高く泣くえりなにイライラした。寝不足もあって頭が割れるように痛い。
ああ、気が狂いそう……。
「いい加減、黙ってよ。私はあんたの奴隷じゃない」
赤ちゃんのえりなに分かるはずないのに怒鳴ったこともあった。
キンキンと声を発するえりなの口に枕を押し当てそうになり、寸でのところで止めた。
何かが爆発しそうだった。
思わず枕を壁に投げつける。
壁にはずむ枕が、えりなの姿に見えた。
いけない、このままじゃ、自分はえりなを傷つけてしまう。
そう思ったさりなは、キッチンに行って、お皿を手にし、床に向けて、思いっきり投げつけた。
――パリンっ
えりなの泣き声に、皿の割れる音が重なった。
少し、イライラが晴れる。
もう一枚。
――パリンっ
えりなの声を掻き消してほしい。じゃないと、どうにかなりそう。
割れた皿の上にスリッパ履いた足で踏みつけた。
どうせ後で掃除するんだからと、足でどんどん床を踏みつけ、お皿を粉々にしていく。
破壊衝動が止まらない。
もう一枚お皿を手にしたところで、やっと気分が落ち着いた。
まだベビーベッドで泣いているえりなのことは無視し続け、お皿を戻し、床の上に散らばった皿の破片を注意しながら拾い、ノロノロと片付けを始めた。
――泣きたいのは私のほうなのに……。
さりなの目からも涙があふれてきた。
一体、自分は何をやっているんだろう。
粉々になったお皿がまるで自分の姿のように思えた。えりなが傍にいるのに孤独だった。
そんなことを繰り返していた毎日。
彼は相変わらず仕事で忙しかった。
お皿が減っていることにも、もちろん気づかない。
助けてくれと言いづらかった。夫はまたギブ&テイクを持ち出すのだろう。
けど、専業主婦のさりなにできるのは結局、家事と育児。
愚痴もこぼせる雰囲気じゃなかった。夫は「僕も職場の愚痴をこぼしたいよ」と皮肉を言い「専業主婦なのにそれくらいのことも満足にできないのか」とため息を吐くだろう。冷たく突き放されるのが落ちだ。
おつきあいしていた時、彼のクールさをカッコいいと思ったけど、単に冷たい人間なのかもしれない。
恋愛中は、さりなのわがままも笑いながら聞いてくれた夫。
けれど、それは恋心という特別な気持ちが許していたに過ぎない。
夫婦という関係になると、彼はもう甘えさせてくれなかった。常に対等であることを求めた。
結婚する時、彼から言われた言葉が甦る。
『僕は仕事をがんばる。さりなは家のことをがんばってほしい。お互い、責任を持ってやっていこう』『負担が偏らないように、公平を心がけよう』と。
その時は「ええ、もちろん」と思っていた。助け合っていこうと。
けれど……あの人の考える責任って何だろう? 公平って何だろう?
さりなが何かお願いすれば、それと同等の何かを夫は要求しようとする。そんなギブ&テイクの家庭生活がずっと続くのかと思うと、何だかゾッとしてしまった。
えりなはおとなしい時はとてもかわいかった。
だけど、またいつ突然泣き出すかと思うと恐怖の存在でもあった。
――娘が怖くてたまらない。このままじゃ、虐待してしまうかも……。
心身ともに疲弊していたさりなは一杯一杯だった。
母性が足りない、忍耐が足りない、甘えていると責められても、さりなにはこれが限界だった。
だから、また両親を頼ってしまった。最後の頼みの綱だった。
さりなが発するヘルプを両親は受け止めてくれた。両親は夫と違い、ギブ&テイクなど持ち出さない。無償の愛をさりなに捧げてくれる。見返りなんて求めない。
母がさりなの住むマンションに度々来るようになり、えりなの世話を手伝ってくれた。その間にさりなは寝かせてもらい、体力を回復させた。母が傍にいてくれていることが心強かった。
父もたまにやって来ては、えりなの相手をしてくれた。
次第に、えりなの癇の強さは収まっていき、ガン泣きすることも少なくなっていき、さりなにも余裕ができ、落ち着きを取り戻していった。えりなを愛せるようになった。
さりなとえりなは、さりなの両親に救われた。
だが……
両親への感謝の念が深くなるにつれ、夫への愛情は薄れていった。
夫は一緒に家庭を営む人ではなく、単にお金を運んでくる人。助けてもらいたい時は両親へ相談すればいい。
考えてみれば、夫は家で食事をとることも少なく、さりなに世話をかけない。面倒の少ない夫だ。それだけでも御の字かもしれない。
さりなは淡々と家事育児をこなし、夫に何かを期待することはなくなった。
連絡事項以外、夫との会話も減った。そもそも会話をしたところで話題が合わない。
夫はさりなを無知だとして何かと見下す。もう、夫とのコミュニケーションに積極的になれなかった。
誕生日も結婚記念日も祝うことはなくなった。
それら家族行事は、さりなにとっても面倒だった。育児と家事だけで精一杯。しなくて済むなら、それに越したことはない。
夫は空気のような存在になっていった。
そのうち、夫に家に居られるほうが自分のペースが乱れ、わずらわしく思うようになった。『亭主元気で留守がいい』というヤツだ。
そして3年近く経った頃、夫の浮気が発覚した。
夫の上着のポケットにコンドームやホテルの領収書が入っていた。わざとさりなに見つかるようにしたようだった。
とりあえず問い質すと、夫は浮気を隠そうともせず、すんなり白状した。さりなから訊かれるのを待っていたかのように。
彼にとっても、家族は自分のペースを乱すだけの存在だったのだろう。家庭に自分の居場所を見い出せなかったようだ。
――でも……浮気相手にかけるお金と時間があるなら、その分、家族にかけてほしかった。
さりなは、夫から渡されるお金の範囲内で家計をやりくりをしていた。節約を心がけていたけど……娘のえりなにももっといいものを与えたかった。さりなだってもっと贅沢したかった。浮気相手と遊ぶ時間があったなら、えりなと遊んでほしかった。家事や育児の手伝いをしてほしかった。
――この結婚は失敗だ。リセットしたほうがいい。
その後、すったもんだすることなく淡々と離婚が成立し、えりなはさりなが引き取り、今も両親に助けられながら生活を送っている。
そういえば彼は以前こう言ったことがあった。
『さりなは親から自立できていないんだな』
いや、彼だけではなく、世間もそう思うのかもしれない。
けど親の助けを借りて、親に助けを求めて何が悪いの?
自立って何? 一人で背負い込むことがそんなに偉い?
ふと気づくと、えりなが心配そうに、さりなの顔を伺っていた。いつの間にか険しい表情になってしまったようだ。
――いけない。
過去を憂えるのは終わりだ。さりなは笑顔を取り戻す。
「ゾウさんはもういい? あっち行こうか」
「うん」
えりなはホッとしたように頷いた。
「じゃあ、次、キリンさんにしようか?」
さりなはゾウに背を向け、えりなの手を握り直す。
「帰ったら、おじいちゃんとおばあちゃんとおいしいもの食べに行こうね。そうそう、あとでみすずちゃんも来るよ」
ふと姉のみすずのことが思い起こされる。
郷田浩との縁談は上手くいかなかったらしい。一時は結婚に前向きになっていただけに、姉の破談はさりなとしても残念であった。
だけど――みすずが「男はこりごり」「恋愛とか結婚とか私には向かないみたい」と言った時、そんなことないよと慰めようとしたが、思いとどまった。姉が、吹っ切れた様子で晴々とした表情になっていたからだ。
姉にとって恋愛や結婚は重荷なのかもしれない……。
そうだ、別に恋愛や結婚をしなくてもいい、いろんな生き方があっていい。
「そんなことないよ」と慰めるのは、「恋愛や結婚をしたほうがいい。するべきだ」「恋愛や結婚ができないのはかわいそう」と言っているのと同じことになる。
それは何だかとても傲慢なことのように、さりなは思えた。
少なくとも欠点だらけの生き方をしている自分がそれを言う資格はない。
自分だって、人から「経済力を身に着け、親に頼らずに自立したほうがいい」と言われたくない。自分にとって苦手なことを押しつけられるのは窮屈で息苦しい。
もちろん、自立できる人は偉い。
でも、それだけの話だ。
そもそも、正しい生き方なんてないのかもしれない。親に助けてもらいながら生きていいように、恋愛や結婚をせずに生きてもいいはずだ。
もちろん、助けてもらった両親にはそのうちちゃんと恩返しをしたい。
よく夜泣きをしたえりなの育児も何とか乗り切った。本当に大変だった。出産も大変だったけど、育児はその比ではなく、ちょっと口では言い表せない。
子どもを育てている人はもっと尊敬されてもいいんじゃないかしら。
そういえば、もうすぐ母の日。
――恩返しの一部として、ここはひとつ、ゴージャスにお祝いしたい。お姉ちゃんと相談しなくちゃ。
母の顔を思い浮かべ、どんなお祝いにするか、あれこれ計画を練る。そういったことは、さりなの得意とするところである。
ちなみに母の日の由来は――アメリカ南北戦争時、負傷兵のために尽くした亡き母の命日(1907年5月12日)に、娘がウェストバージニアの教会で記念会を開き、参列者に母が好きだった白いカーネーションを配ったのが始まりとされている。
その記念会を開いた日は5月第二日曜日だった――。
それをきっかけに『母を祝う風習』が広まり、1914年にウィルソン大統領の提唱もあって、アメリカでは正式に5月第二日曜日が『母の日』となり、日本にも伝わったのだ。
また「十字架に架けられるキリストに、聖母マリアのこぼした涙が地面に落ちたその場所からカーネーションが咲いた」という伝説があり、カーネーションは母性愛の象徴とされ、母の日の贈り物となったという。
さりなは娘のえりなを見やる。
――いつか私も、えりなからお祝いされるにふさわしいママになれるといいのだけど……。
そして元夫についてはこう思っている。
――彼はもう過去の人。
ただ憎しみ合って別れたわけでもない……。いや、憎んだり、嫌いになったりするほどの関係も築けなかったとも言えるのだけど。
振り返ってみれば、自分たちは寂しい家族だった。
――私にできるのは、娘の前ではいつも笑顔で明るくいることだけ。えりなに楽しく毎日を送ってほしい。寂しい思いをさせたくない。パパがいないえりなだけど、おじいちゃん、おばあちゃんがいる。それが救いだ。
さりなは娘の手をつなぎ直し、キリンのところへ向かう。
相変わらず周りはパパとママと子どもの家族連れで一杯だ。その間を縫いながら、ようやくお目当ての場所にたどり着く。
自分は頼りないママだけど、両親に助けてもらいながら何とか娘と幸せな日々を過ごしている。
今晩の夕食は、母がえりなのために、えりなの大好きなハンバーグを作ってくれるという。お腹を空かせて帰ろう。
「あ、見て~、キリンさんっ」
えりなが思いっきり顔を上に向けていた。
「高いねえ」
さりなもえりなに釣られ、キリンを見上げる。
――眩しい。
パパのいる家族連れが視界の外に流れ、優しげな瞳をしたキリンの顔と五月晴れの空がさりなを迎えてくれた。
白い雲を端に寄せて青く染まった空は初夏の陽気に包まれていた。
福田さりなは4歳になる娘のえりなを連れて動物園に来ていた。
本当は両親も一緒の予定だったけど、父が風邪をひいてしまい、さりなとえりなの二人きりのお出かけとなってしまった。
子どもたちのはしゃぐ声が四方から聞こえてくる。あっちもこっちも家族連れで大賑わい。お父さんのいる家族連れの姿を避けようとしつつも、どうしても目についてしまう。
さりなは、そっとえりなの顔を伺うが、えりなは気にしていないのか、それとも気にしていない振りをしているのか……普段と変わらず同じ様子でいてくれている。そのことに、さりなはホッと胸をなで下ろす。
夫だった人と別れて1年半近く経つ。
あれから……養育費は再三請求して、去年の4月からようやく振り込みがされるようになった。
ただ元夫は、娘のえりなとの面会は希望しておらず、彼のマンションを出てからは一度も会っていない。
――ま、彼らしいといえば彼らしい。
えりなは乾いた笑みを浮かべる。
――だから、えりなもパパと距離を置いたほうがいい……。
父親として娘にそれほどの執着を見せない彼にある種の冷たさも感じていた。
娘のえりなはパパの話はしない。パパと一緒にいた頃の記憶もあまりないだろう。
でも、ほかの子にはパパがいるのに自分にはいない……そのことを不思議に思っているかもしれない。
それについてはやはり罪悪感もある。
けれど元夫はもう家族ではない。
「ああ、ゾウさんよ~」
えりなはさりなの手を引っ張り、ゾウのいる柵へ近寄る。
柵の前に来ると、えりなは微動だにせず、じっとゾウを見つめる。どうやらゾウさんが気に入ったようだ。さりなもえりなと一緒に、しばらくゾウさんを眺めることにする。
――5分くらい経ったか。
「そろそろ行く?」
「ううん、もうちょっと~」
えりなは首を横に振り、ゾウから目を離そうとしない。
どちらかというと、えりなはあまり活発ではなく内気な子だった。その分、何かを気に入ると、そればかりに集中するような気質を持っていた。
さりなはため息をつくのを堪え、えりなにつきあう。
――そうだ、今日は子どもの日。えりなの好きにさせてあげよう。
さりなは、23歳の時にデキちゃった結婚をした。えりなのパパとなる彼は当時29歳。大手の出版社に勤めていた。
妊娠が分かった時、戸惑いのほうも大きかったけど、彼とはいずれ結婚しようと思っていたし、それがちょっと早まっただけのこと。今時、デキ婚はめずらしくもないし、かえって結婚への踏ん切りがついた。
さりなの両親も初孫ということで喜んでくれ、とんとん拍子に事が運ばれていった。
ちなみに彼のほうは母親はすでに他界しており、父親は新しい家庭を持っていたので、結婚については軽く挨拶するだけで済んだ。彼を取り巻く環境は、嫁のさりなとしてはとても気楽なものだった。
二人の新居となるマンションへ越したものの、思いのほか悪阻も酷く体調もすぐれなかったので、さりなは結婚後もしばらく実家で過ごすことになった。
その頃、彼は漫画雑誌の編集者として忙しく休日も仕事で出ることも多く、さりなとしては心細かった。
そんなさりなを慮ってくれたのだろう、彼も実家へ帰ることを賛成してくれた。
やがて安定期に入り、さりなは夫のもとに戻った。
が、相変わらず彼の仕事は不規則で、夜中や朝帰りもめずらしくなかった。食事を一緒にすることも稀だった。
近所つき合いのないマンションの部屋に独りでいると、寂しさと不安でいっぱいになり、結局、さりなは実家の両親を頼った。
その頃から彼との間に溝が生まれ、徐々に深くなっていったかもしれない。
えりなが生まれる時、彼は仕事を抜けることができず、結局、生まれてから3時間後にやってきた。
けど1時間ほどしたら、また会社へ戻っていった。
それでも、さりなは納得していた。自分は専業主婦なのだから、彼に仕事をがんばってもらいたいと。
それに両親もいろいろと手伝ってくれていた。自分には助けてくれる家族がいる、恵まれている、そう思っていた。
その『助けてくれる家族』に夫が含まれていないことに気づいていなかった。いや、本当は気づいていたけど、そこに触れないようにしていた。
自分の心をごまかし、見て見ぬふりをしたツケは後から支払うことになった。
赤ちゃんの世話は想像以上に大変だった。後片付けと雑事だけで一日が終わる。何かをやり遂げた実感が持てない。寝不足状態が続き、いつもクタクタで疲れていた。
それなのに夫は帰ってきたら寝ているかスマフォをいじっているかのどちらかだ。家事や育児を手伝おうとしない。娘のえりなのこともあまり関心がないみたいだった。
ある時、ついにさりなの口からモンクがこぼれ出た。
「ねえ、少しは手伝おうという気はないの? こっちは夜もあまり寝られないし、もうヘトヘトなんだけど」
「じゃあ、さりなも僕の仕事、手伝える? 手伝えないよね? それはフェアじゃないよね」
彼はそんな返し方をしてきた。
「家族のために助けようという気はないの?」
「家族のためにちゃんと生活費、渡しているだろ」
「そんなの当然じゃない」
「じゃ、さりなが家事育児をするのも当たり前でしょ。あるいはさりなも稼いでくれる?」
彼は、専業主婦がどれくらい稼げるんだ? と言いたげだった。何だかバカにされた気がした。
次第にさりなはこう思うようになった。
――もしかして私って彼の家政婦? いえ、家政婦のほうがまだマシ。仕事をした分だけの報酬をもらえるのだから。
さりなは、給料の全額ではなく月々の決まった生活費しか渡されていなかった。そう、結婚当初、夫はさりなにこのような選択をさせた。
給料全額渡す代わりに家計簿をきちんとつけるか――
それとも月々決まった額を渡すので、その範囲内でさりなの自由にやり繰りをしてもらうか――この場合は家計簿もつけなくていいし、どうしても足りない時や病気の治療費など想定外の出費、3万円を超えるような大きな買い物の時は相談してくれればいいと。
さりなは迷ったものの、月々決まった額を渡してもらうほうを選んだ。
夫名義の口座のキャッシュカードを渡された。口座に毎月18万円入れてもらい、そこから光熱費・水道料金含め生活費全般をまかなうようにと言われた。
家賃、NHK受信料など変動しない出費は、夫が管理する口座から引き落とされるようになっており、さりなはノータッチ。
資産運用をやるからと、ボーナスも夫が握った。
資産運用って何をするのか質問してみたけど、専門用語を並べられ、さりなにはちんぷんかんぷんだった。
詳しい説明を求めると面倒臭そうに「それくらい自分で勉強してよ」「分からないんだったら口出ししないで」と言われた。
乾いていく心を抱えながら、さりなは子どもの世話をしながら日々を過ごした。
思えば妊娠時、長期の間、実家へ帰ることを勧めてくれたのは、さりなを慮ってくれたからではなかった。ただ、悪阻や精神不安定で苦しんでいる妻を支えるのが面倒だったから、わずらわしかったから。さりなはそう夫を捉えるようになった。
娘のえりなはよく泣いた。お乳もやりオムツも替え、熱もなく、体の調子も悪そうなところはないのに、なかなか泣き止まない。
甲高く泣くえりなにイライラした。寝不足もあって頭が割れるように痛い。
ああ、気が狂いそう……。
「いい加減、黙ってよ。私はあんたの奴隷じゃない」
赤ちゃんのえりなに分かるはずないのに怒鳴ったこともあった。
キンキンと声を発するえりなの口に枕を押し当てそうになり、寸でのところで止めた。
何かが爆発しそうだった。
思わず枕を壁に投げつける。
壁にはずむ枕が、えりなの姿に見えた。
いけない、このままじゃ、自分はえりなを傷つけてしまう。
そう思ったさりなは、キッチンに行って、お皿を手にし、床に向けて、思いっきり投げつけた。
――パリンっ
えりなの泣き声に、皿の割れる音が重なった。
少し、イライラが晴れる。
もう一枚。
――パリンっ
えりなの声を掻き消してほしい。じゃないと、どうにかなりそう。
割れた皿の上にスリッパ履いた足で踏みつけた。
どうせ後で掃除するんだからと、足でどんどん床を踏みつけ、お皿を粉々にしていく。
破壊衝動が止まらない。
もう一枚お皿を手にしたところで、やっと気分が落ち着いた。
まだベビーベッドで泣いているえりなのことは無視し続け、お皿を戻し、床の上に散らばった皿の破片を注意しながら拾い、ノロノロと片付けを始めた。
――泣きたいのは私のほうなのに……。
さりなの目からも涙があふれてきた。
一体、自分は何をやっているんだろう。
粉々になったお皿がまるで自分の姿のように思えた。えりなが傍にいるのに孤独だった。
そんなことを繰り返していた毎日。
彼は相変わらず仕事で忙しかった。
お皿が減っていることにも、もちろん気づかない。
助けてくれと言いづらかった。夫はまたギブ&テイクを持ち出すのだろう。
けど、専業主婦のさりなにできるのは結局、家事と育児。
愚痴もこぼせる雰囲気じゃなかった。夫は「僕も職場の愚痴をこぼしたいよ」と皮肉を言い「専業主婦なのにそれくらいのことも満足にできないのか」とため息を吐くだろう。冷たく突き放されるのが落ちだ。
おつきあいしていた時、彼のクールさをカッコいいと思ったけど、単に冷たい人間なのかもしれない。
恋愛中は、さりなのわがままも笑いながら聞いてくれた夫。
けれど、それは恋心という特別な気持ちが許していたに過ぎない。
夫婦という関係になると、彼はもう甘えさせてくれなかった。常に対等であることを求めた。
結婚する時、彼から言われた言葉が甦る。
『僕は仕事をがんばる。さりなは家のことをがんばってほしい。お互い、責任を持ってやっていこう』『負担が偏らないように、公平を心がけよう』と。
その時は「ええ、もちろん」と思っていた。助け合っていこうと。
けれど……あの人の考える責任って何だろう? 公平って何だろう?
さりなが何かお願いすれば、それと同等の何かを夫は要求しようとする。そんなギブ&テイクの家庭生活がずっと続くのかと思うと、何だかゾッとしてしまった。
えりなはおとなしい時はとてもかわいかった。
だけど、またいつ突然泣き出すかと思うと恐怖の存在でもあった。
――娘が怖くてたまらない。このままじゃ、虐待してしまうかも……。
心身ともに疲弊していたさりなは一杯一杯だった。
母性が足りない、忍耐が足りない、甘えていると責められても、さりなにはこれが限界だった。
だから、また両親を頼ってしまった。最後の頼みの綱だった。
さりなが発するヘルプを両親は受け止めてくれた。両親は夫と違い、ギブ&テイクなど持ち出さない。無償の愛をさりなに捧げてくれる。見返りなんて求めない。
母がさりなの住むマンションに度々来るようになり、えりなの世話を手伝ってくれた。その間にさりなは寝かせてもらい、体力を回復させた。母が傍にいてくれていることが心強かった。
父もたまにやって来ては、えりなの相手をしてくれた。
次第に、えりなの癇の強さは収まっていき、ガン泣きすることも少なくなっていき、さりなにも余裕ができ、落ち着きを取り戻していった。えりなを愛せるようになった。
さりなとえりなは、さりなの両親に救われた。
だが……
両親への感謝の念が深くなるにつれ、夫への愛情は薄れていった。
夫は一緒に家庭を営む人ではなく、単にお金を運んでくる人。助けてもらいたい時は両親へ相談すればいい。
考えてみれば、夫は家で食事をとることも少なく、さりなに世話をかけない。面倒の少ない夫だ。それだけでも御の字かもしれない。
さりなは淡々と家事育児をこなし、夫に何かを期待することはなくなった。
連絡事項以外、夫との会話も減った。そもそも会話をしたところで話題が合わない。
夫はさりなを無知だとして何かと見下す。もう、夫とのコミュニケーションに積極的になれなかった。
誕生日も結婚記念日も祝うことはなくなった。
それら家族行事は、さりなにとっても面倒だった。育児と家事だけで精一杯。しなくて済むなら、それに越したことはない。
夫は空気のような存在になっていった。
そのうち、夫に家に居られるほうが自分のペースが乱れ、わずらわしく思うようになった。『亭主元気で留守がいい』というヤツだ。
そして3年近く経った頃、夫の浮気が発覚した。
夫の上着のポケットにコンドームやホテルの領収書が入っていた。わざとさりなに見つかるようにしたようだった。
とりあえず問い質すと、夫は浮気を隠そうともせず、すんなり白状した。さりなから訊かれるのを待っていたかのように。
彼にとっても、家族は自分のペースを乱すだけの存在だったのだろう。家庭に自分の居場所を見い出せなかったようだ。
――でも……浮気相手にかけるお金と時間があるなら、その分、家族にかけてほしかった。
さりなは、夫から渡されるお金の範囲内で家計をやりくりをしていた。節約を心がけていたけど……娘のえりなにももっといいものを与えたかった。さりなだってもっと贅沢したかった。浮気相手と遊ぶ時間があったなら、えりなと遊んでほしかった。家事や育児の手伝いをしてほしかった。
――この結婚は失敗だ。リセットしたほうがいい。
その後、すったもんだすることなく淡々と離婚が成立し、えりなはさりなが引き取り、今も両親に助けられながら生活を送っている。
そういえば彼は以前こう言ったことがあった。
『さりなは親から自立できていないんだな』
いや、彼だけではなく、世間もそう思うのかもしれない。
けど親の助けを借りて、親に助けを求めて何が悪いの?
自立って何? 一人で背負い込むことがそんなに偉い?
ふと気づくと、えりなが心配そうに、さりなの顔を伺っていた。いつの間にか険しい表情になってしまったようだ。
――いけない。
過去を憂えるのは終わりだ。さりなは笑顔を取り戻す。
「ゾウさんはもういい? あっち行こうか」
「うん」
えりなはホッとしたように頷いた。
「じゃあ、次、キリンさんにしようか?」
さりなはゾウに背を向け、えりなの手を握り直す。
「帰ったら、おじいちゃんとおばあちゃんとおいしいもの食べに行こうね。そうそう、あとでみすずちゃんも来るよ」
ふと姉のみすずのことが思い起こされる。
郷田浩との縁談は上手くいかなかったらしい。一時は結婚に前向きになっていただけに、姉の破談はさりなとしても残念であった。
だけど――みすずが「男はこりごり」「恋愛とか結婚とか私には向かないみたい」と言った時、そんなことないよと慰めようとしたが、思いとどまった。姉が、吹っ切れた様子で晴々とした表情になっていたからだ。
姉にとって恋愛や結婚は重荷なのかもしれない……。
そうだ、別に恋愛や結婚をしなくてもいい、いろんな生き方があっていい。
「そんなことないよ」と慰めるのは、「恋愛や結婚をしたほうがいい。するべきだ」「恋愛や結婚ができないのはかわいそう」と言っているのと同じことになる。
それは何だかとても傲慢なことのように、さりなは思えた。
少なくとも欠点だらけの生き方をしている自分がそれを言う資格はない。
自分だって、人から「経済力を身に着け、親に頼らずに自立したほうがいい」と言われたくない。自分にとって苦手なことを押しつけられるのは窮屈で息苦しい。
もちろん、自立できる人は偉い。
でも、それだけの話だ。
そもそも、正しい生き方なんてないのかもしれない。親に助けてもらいながら生きていいように、恋愛や結婚をせずに生きてもいいはずだ。
もちろん、助けてもらった両親にはそのうちちゃんと恩返しをしたい。
よく夜泣きをしたえりなの育児も何とか乗り切った。本当に大変だった。出産も大変だったけど、育児はその比ではなく、ちょっと口では言い表せない。
子どもを育てている人はもっと尊敬されてもいいんじゃないかしら。
そういえば、もうすぐ母の日。
――恩返しの一部として、ここはひとつ、ゴージャスにお祝いしたい。お姉ちゃんと相談しなくちゃ。
母の顔を思い浮かべ、どんなお祝いにするか、あれこれ計画を練る。そういったことは、さりなの得意とするところである。
ちなみに母の日の由来は――アメリカ南北戦争時、負傷兵のために尽くした亡き母の命日(1907年5月12日)に、娘がウェストバージニアの教会で記念会を開き、参列者に母が好きだった白いカーネーションを配ったのが始まりとされている。
その記念会を開いた日は5月第二日曜日だった――。
それをきっかけに『母を祝う風習』が広まり、1914年にウィルソン大統領の提唱もあって、アメリカでは正式に5月第二日曜日が『母の日』となり、日本にも伝わったのだ。
また「十字架に架けられるキリストに、聖母マリアのこぼした涙が地面に落ちたその場所からカーネーションが咲いた」という伝説があり、カーネーションは母性愛の象徴とされ、母の日の贈り物となったという。
さりなは娘のえりなを見やる。
――いつか私も、えりなからお祝いされるにふさわしいママになれるといいのだけど……。
そして元夫についてはこう思っている。
――彼はもう過去の人。
ただ憎しみ合って別れたわけでもない……。いや、憎んだり、嫌いになったりするほどの関係も築けなかったとも言えるのだけど。
振り返ってみれば、自分たちは寂しい家族だった。
――私にできるのは、娘の前ではいつも笑顔で明るくいることだけ。えりなに楽しく毎日を送ってほしい。寂しい思いをさせたくない。パパがいないえりなだけど、おじいちゃん、おばあちゃんがいる。それが救いだ。
さりなは娘の手をつなぎ直し、キリンのところへ向かう。
相変わらず周りはパパとママと子どもの家族連れで一杯だ。その間を縫いながら、ようやくお目当ての場所にたどり着く。
自分は頼りないママだけど、両親に助けてもらいながら何とか娘と幸せな日々を過ごしている。
今晩の夕食は、母がえりなのために、えりなの大好きなハンバーグを作ってくれるという。お腹を空かせて帰ろう。
「あ、見て~、キリンさんっ」
えりなが思いっきり顔を上に向けていた。
「高いねえ」
さりなもえりなに釣られ、キリンを見上げる。
――眩しい。
パパのいる家族連れが視界の外に流れ、優しげな瞳をしたキリンの顔と五月晴れの空がさりなを迎えてくれた。
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