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本編第二部
出しっぱなしの雛人形―そこまでして結婚したい?
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相変わらず寒い日が続いてはいたが、空気に棘がなくなってきた3月初旬の週末。
福田みすずは、郷田浩と会うために再び実家へ戻った。
みすずが泊まる和室の客間には、桃の節句は過ぎたのに古びた段飾りの雛人形が飾られたままだった。
相変わらず、さりなは片付けるのを後回しにしてしまっているようだ。
「ま、片付けって、つい億劫になるけどね」
明日は二回目の交際……というか、みすずが郷田家に行き、浩の母親と妹と会うことになった。
二人だけでデートみたいなことを繰り返しても時間の無駄であり、この際、家族と顔合わせをし、やっていけそうかを決めたほうがいいという話になり、みすずもOKした。
が、この間の郷田浩の様子を思い出すとまるで心が躍らない。
郷田は母親と妹のために義務で結婚しようとしている。情が介在しない条件と打算づくしの結婚だ。
自分はそんな結婚がしたいのか?――みすずはよく分からなかった。
ちょっと前の自分ならば笑って、そんな打算に満ちた見合い話は蹴散らしていただろう。
けれど29歳という年齢が「待った」をかける。
いつの間にか「女は若いほうが価値がある」という呪いに、この自分が侵されている。そして「結婚=家庭を持ってこそ女の幸せ」という呪縛にも。
おそらく四条静也のことが影響しているのかもしれない。
彼は今、世間も認める幸せ道を驀進中だ。うらやましくないと言ったらウソになる。
正月早々に起きた『男女別年賀状事件』で、つい四条静也を責めてしまったが、嫉妬心も混じり込んでいたかもしれない。
それに……もし結婚できたら、あの美人なアラフォー独身の小林主任に勝てる。恋愛を謳歌してきただろうモテ女より、恋愛できなかった自分が上に立つのだ。そんな思いも心の片隅に巣くっていた。
もちろん、頭では分かっている。そんなことで勝ったの負けただのと考えるほうがナンセンス。
未婚か既婚かで人生の勝敗が決まるはずがない。これこそが女性蔑視につながる最たる価値観、女性を息苦しくさせている元凶。社会を覆っている呪いだ。
なのに何ということか――未だ、多くの女たちがかかっているのだろうこの強烈な呪縛に自分も囚われてしまっている。『嫁き遅れ、上等』と啖呵を切っていた自分はどこに行ってしまったのか。
30歳を前に、自分の考えがこれほどぶれるとは……。
それほどに世間の価値観から逃げるのは難しい。
けれど、郷田浩が示してきた条件は思ったほど悪くはなかった。
みすずは介護をしなくていい、夜中も起きなくていい、土日も自由にしていい、それを咎めることはしない。
そのことを書面にし、契約として交してもいいとまで言い切った。ただし、浩の妹が母親の面倒を見られなくなった時は、浩が仕事を辞めて専業主夫になる可能性があるというのだが。
一応メールアドレスも交換していたので、何度かメールのやり取りをし、こうして結婚後の細かいルールを詰めていた。
そう、ラインではなくメール。
会話がしたいのではなく、お互いの条件を突き詰め合うのだから、メールのほうがふさわしい。
それが今の、みすずと浩を表している距離感だった。
メールの内容は儀礼的かつビジネスライクなものだったが、郷田浩が提示した条件はみすずにとって充分に許容範囲内であり、これを逃したらもうこれ以上の条件の男性は現れないだろう。
そして何といっても相手はイケメン。
これは、自身の容姿に過剰な劣等感を持つみすずにとって魅力的な要素でもあった。下らないと頭では分かっているものの、簡単に切って捨てられない。
それが断ることを躊躇させていた。
一生結婚しないと決めているわけでもない。
でもこの自分がこれから先、誰かと自由恋愛して結婚できるとは思えない。
みすずは基本的に男性に不信感を持っている。親族家族が見守る中、身元が担保された相手と安全に交際するという形でしか男性とつきあえないだろう。
結婚したい気持ちが少しでもあるのであれば、ここが妥協点だ。
しかし、迷いは堂々巡りをする。
――自分はここまでして結婚したいのか?
・・・
こうして郷田とのつきあいに気分が乗らないまま、翌日を迎えてしまった。
いい天気だったが、相変わらず空気がひんやりと冷たい。昼近くなればもう少し和らぐだろうか。
みすずは今日も黒いコートを着込み、待ち合わせ場所に向かう。コートの中は黒のパンツスーツ姿だ。こういった色合いが一番無難だし、明るい色の服を身に着ける気になれなかった。
そもそもおしゃれにもさほど興味がなかったし、清潔感さえあればそれでいい。最低限の礼は尽くしている。
それに相手はみすずに女性らしさを求めているのではないのだから、その点は気が楽でもあり、みすずの目指す男女平等精神に叶っていた。
待ち合わせ場所となった駅舎内の待合室に向かうと、すでに郷田浩は来ていた。みすずに気づくと軽く笑みを浮かべたものの、その表情はすぐに消え、彼にとってもこの交際は気乗りしていないことが見て取れた。
要介護の親を抱えている郷田浩は最低条件と言っていい。それは本人もよく分かっているのだろう。
自分は選ぶ立場にないと、あきらめの気持ちが態度に表れているようだ。
みすずも儀礼的に笑みを返し、お互い挨拶は交すものの、その間には空疎な空気が漂う。
駐車場に停めてある郷田浩のクルマに乗り、郷田家を目指す。
今回もビジネスライクにルールを詰めていく作業をし、乾いた時間を過ごすことになるのだろう。
――やはり、この見合いは断る方向でいくほうがいい?
が、こうも思う。
妹のさりなの場合、恋愛結婚だったのに、結婚後は急速に冷え込み離婚に至った。
さりなが言うには 元夫は結婚してから手の平を返したように冷たくなったらしい。
結婚前の優しさなど当てにはならない。恋愛していた時が楽しかった分、結婚後もそれを求めてしまい、しかし、それが叶えられないとなると不満を抱え込み、夫婦間に亀裂を生むこともあるようだ。
――まだ結論を出すのは早い? もっとじっくり考えるべき?
迷いが頭の中を駆け巡っているうちに郷田浩の自宅に着いてしまった。
――そうだ、郷田家の家族がどんな人か、それも見極めなくては。
郷田家は、くすんだ灰色をした古びた賃貸マンションの1階にあった。
通路に並ぶ一番端のドアまで案内される。
浩がそのドアを開けると、玄関に若い女性が出てきた。
「ようこそ、はじめまして郷田浩の妹の薫です」
「あ、はじめまして……福田みすずです」
まだ少し硬い表情のみすずに、郷田浩の妹・薫は親しげな笑みを浮かべ、中へ招く。
「寒かったでしょ。どうぞこちらへ」
郷田薫はクールビューティといった感じで背が高くモデルのような外見をしていた。が、口を開くと気さくな感じで、そのギャップが魅力的だった。
何だか郷田浩よりも妹の薫のほうが気が合いそうだ。歳も近かった。みすずより、ひとつ上の30歳だという。
「あの、母にも会ってもらっていいですか?」
「ええ、もちろん、ご挨拶したいと思って伺ったんですから」
みすずは薫に連れられ奥へと案内された。そこに、台所とつながった食堂兼居間といった感じの部屋で車イスに座った郷田浩の母親が待っていた。
「はじめまして、福田みすずです。お邪魔させていただきます」
みすずは車イスの母親へ近づき、腰を折って挨拶した。
郷田浩の母親は愛好を崩し、みすずの手を取り「よく、おいでくださいました」と歓迎する様子を見せてくれた。心の底から喜んでくれているようで、みすずも嬉しくなり、自然に頬をほころばせる。
「みすずさん、こちらへおかけください」
薫が食卓の椅子を示したので、みすずは軽く頭を下げながら席に着いた。
浩は母親の車イスを移動させる。さっきまでの乾いた表情はどこへやら、母親には本物の笑顔を見せていた。家族には優しい男のようだ。
結婚し家族の縁を結べば、自分にもああいう笑顔を向けてくれるのだろうか――みすずはぼんやりと浩を見つめた。
窓にかかっているレースのカーテン越しに3月のやわらかい日差しが落ちる。
郷田家の雑然とした気取りのない部屋の様子に緊張をせずに済み、リラックスできた。
おしゃれでお高くとまった場所はどうも落ち着かない。こういった雰囲気のほうが落ち着く。
ということは、自分には郷田家が合う、ということなのだろうか?
それから――お茶を飲みながら郷田浩の母親と妹・薫といろんな話をした。
その間、母親や薫からも「介護はしなくていい」「仕事を続けてほしい」と浩と同じことを言われた。もちろんその辺の条件は浩とも話し合っていたのだろう。
お互い、訊いたり訊かれたり、質問に応えているうちに何気ないおしゃべりに発展した。
楽しかった。
浩本人はともかく、母親と妹とは上手くやっていけそうだ。
昼食は郷田家の家族と一緒に出前のお寿司をいただいた。
「家族が増えると賑やかになって、いいねえ」
郷田の母親がしみじみとお茶を啜る。
「ほら、みすずさん、遠慮しないで食べて食べて」
薫も場を盛り立てる。
「母さんも今日は食が進むじゃない。みすずさんのおかげね」
浩の母と妹・薫の歓迎ぶりに、みすずの硬くなっていた心はほぐれていった。
と同時に結婚を断るほうへ傾いていた心に迷いが生じる。自分を必要としてくれるならと気持ちが揺らぐ。
この家族とだったら一緒にやっていけるかもしれない。郷田浩とも時間をかければ情が育まれ、絆を結べるのではないか。
みすずの思いは結婚に前向きになっていく。
夕方、黄昏ていた空が紺青色へと移ろい、闇が混じる頃、みすずは郷田家をお暇し、帰途に就いた。
今回はさすがにクルマでみすずの家まで送り届けてくれた郷田浩だったが、相変わらず会話が弾むことはく、空気は重くなる。
でもあまり気にしないようにした。
みすずの家の玄関先では、みすずの両親とさりなが顔をそろえたので、浩を紹介し、家族と軽く顔合わせをしてもらった。
浩は「家に上がってほしい」と言うみすずの両親の誘いを丁重に断り、帰っていったが、次回、日を改めて福田家を訪ねることになった。
最初から家族ぐるみのつきあいとなり、二人っきりでデートという機会はなさそうだけど、これはこれでいいかもしれない。
どっちみち、浩と顔を付き合せたところで楽しい時間を過ごせそうにない。浩の母や薫が一緒にいてくれたほうがいい。
結婚はどうしたってお互いの家族も関わってくるのだから、結婚相手が好きかどうかは大した問題ではなく、嫌悪感がなければそれで御の字なのかもしれない。
正直、郷田浩のことは好きとは言えないし、おそらく郷田浩のほうも同じだろう。
それはあまりに寂しいとは思いつつも、恋愛感情が入り込まないからこそ結婚の契約内容を吟味し、生活のルールを決め、冷静に話し合いをして条件をすり合わせることができる。そのほうが失敗のリスクを減らせる。
相手の家族との相性もクリアーしている。
肝心の浩との相性は不明だが、浩が時折見せていた母親や妹への笑顔は優しげで、家族思いであることは分かった。そこは好感が持てた。
恋愛が苦手な自分にはふさわしい結婚の仕方かもしれない、とみすずは少し自嘲しつつ、気持ちは郷田浩との結婚へと向けられていた。
しかし未だ、心の片隅には『そこまでして結婚したいのか?』という問いが燻る。
自宅の客間に戻ったみすずは、出しっぱなしの雛人形を見やる。
旧暦で見るなら、桃の節句はまだ先だ。ならば旧暦の3月3日まで飾っておいてもいいのかもしれない。
今日のお礼とお疲れ様メールを郷田浩に送る。
しばらくして『今日はありがとうございました。お疲れ様でした』と簡素な返事が着た。気持ちはあまり感じられない。いかにも儀礼的。
ま、こういう人なんだろう……と無理に納得させる。
自分のメールだって親しみを表すことなく儀礼的な文章になってしまっている。
一緒になれば、この距離感は徐々に埋まっていくだろう。
それでも若干、心寒さを感じる。
――本当にこれでいいのか?
その時「お姉ちゃん、ご飯だって」とさりなの声が廊下からふすま越し届いた。
「はい、今行く」
我に返ったみすずは返事をしながら立ち上がる。
居間に入ると、すでに夕飯が整えられ、座卓には母が作ってくれたちらし寿司が置かれていた。ほか煮物や焼いた鰆など、おかずが盛りだくさん。
さっそく家族との夕食が始まった。久しぶりの母の料理はおいしかった。
話題の中心はやはり郷田浩のことであり、賑やかな晩餐となった。
久しぶりの家族団らんに心が和む。
父と母ははやけに嬉しそうだった。みすずが結婚に前向きだからだろう。
当初、介護が必要な相手の親との同居が条件の結婚にさすがに勧めはしなかったが、みすずが望んで結婚する分には賛成のようだった。さりなも応援してくれている。
家族は皆、みすずの幸せを心の底から願ってくれていた。
そんな両親やさりなも「結婚こそ・家庭を持ってこそ女の幸せ」という世間の呪縛にかかっているとも言えるが、自分のことを思ってくれている家族の気持ちを否定する気にはなれなかった。
みすずのフェミニズム魂が揺れる。
世間の価値観と対峙するというのは、ことのほか厳しい。
夕飯を食べ終わり、みすずは自分のマンションへと帰る。明日から仕事だ。
実家を出ると、外はやわらかい空気に包まれ、春の気配を漂わせていた。
頬を撫でていく風はもう冷たくなかった。
福田みすずは、郷田浩と会うために再び実家へ戻った。
みすずが泊まる和室の客間には、桃の節句は過ぎたのに古びた段飾りの雛人形が飾られたままだった。
相変わらず、さりなは片付けるのを後回しにしてしまっているようだ。
「ま、片付けって、つい億劫になるけどね」
明日は二回目の交際……というか、みすずが郷田家に行き、浩の母親と妹と会うことになった。
二人だけでデートみたいなことを繰り返しても時間の無駄であり、この際、家族と顔合わせをし、やっていけそうかを決めたほうがいいという話になり、みすずもOKした。
が、この間の郷田浩の様子を思い出すとまるで心が躍らない。
郷田は母親と妹のために義務で結婚しようとしている。情が介在しない条件と打算づくしの結婚だ。
自分はそんな結婚がしたいのか?――みすずはよく分からなかった。
ちょっと前の自分ならば笑って、そんな打算に満ちた見合い話は蹴散らしていただろう。
けれど29歳という年齢が「待った」をかける。
いつの間にか「女は若いほうが価値がある」という呪いに、この自分が侵されている。そして「結婚=家庭を持ってこそ女の幸せ」という呪縛にも。
おそらく四条静也のことが影響しているのかもしれない。
彼は今、世間も認める幸せ道を驀進中だ。うらやましくないと言ったらウソになる。
正月早々に起きた『男女別年賀状事件』で、つい四条静也を責めてしまったが、嫉妬心も混じり込んでいたかもしれない。
それに……もし結婚できたら、あの美人なアラフォー独身の小林主任に勝てる。恋愛を謳歌してきただろうモテ女より、恋愛できなかった自分が上に立つのだ。そんな思いも心の片隅に巣くっていた。
もちろん、頭では分かっている。そんなことで勝ったの負けただのと考えるほうがナンセンス。
未婚か既婚かで人生の勝敗が決まるはずがない。これこそが女性蔑視につながる最たる価値観、女性を息苦しくさせている元凶。社会を覆っている呪いだ。
なのに何ということか――未だ、多くの女たちがかかっているのだろうこの強烈な呪縛に自分も囚われてしまっている。『嫁き遅れ、上等』と啖呵を切っていた自分はどこに行ってしまったのか。
30歳を前に、自分の考えがこれほどぶれるとは……。
それほどに世間の価値観から逃げるのは難しい。
けれど、郷田浩が示してきた条件は思ったほど悪くはなかった。
みすずは介護をしなくていい、夜中も起きなくていい、土日も自由にしていい、それを咎めることはしない。
そのことを書面にし、契約として交してもいいとまで言い切った。ただし、浩の妹が母親の面倒を見られなくなった時は、浩が仕事を辞めて専業主夫になる可能性があるというのだが。
一応メールアドレスも交換していたので、何度かメールのやり取りをし、こうして結婚後の細かいルールを詰めていた。
そう、ラインではなくメール。
会話がしたいのではなく、お互いの条件を突き詰め合うのだから、メールのほうがふさわしい。
それが今の、みすずと浩を表している距離感だった。
メールの内容は儀礼的かつビジネスライクなものだったが、郷田浩が提示した条件はみすずにとって充分に許容範囲内であり、これを逃したらもうこれ以上の条件の男性は現れないだろう。
そして何といっても相手はイケメン。
これは、自身の容姿に過剰な劣等感を持つみすずにとって魅力的な要素でもあった。下らないと頭では分かっているものの、簡単に切って捨てられない。
それが断ることを躊躇させていた。
一生結婚しないと決めているわけでもない。
でもこの自分がこれから先、誰かと自由恋愛して結婚できるとは思えない。
みすずは基本的に男性に不信感を持っている。親族家族が見守る中、身元が担保された相手と安全に交際するという形でしか男性とつきあえないだろう。
結婚したい気持ちが少しでもあるのであれば、ここが妥協点だ。
しかし、迷いは堂々巡りをする。
――自分はここまでして結婚したいのか?
・・・
こうして郷田とのつきあいに気分が乗らないまま、翌日を迎えてしまった。
いい天気だったが、相変わらず空気がひんやりと冷たい。昼近くなればもう少し和らぐだろうか。
みすずは今日も黒いコートを着込み、待ち合わせ場所に向かう。コートの中は黒のパンツスーツ姿だ。こういった色合いが一番無難だし、明るい色の服を身に着ける気になれなかった。
そもそもおしゃれにもさほど興味がなかったし、清潔感さえあればそれでいい。最低限の礼は尽くしている。
それに相手はみすずに女性らしさを求めているのではないのだから、その点は気が楽でもあり、みすずの目指す男女平等精神に叶っていた。
待ち合わせ場所となった駅舎内の待合室に向かうと、すでに郷田浩は来ていた。みすずに気づくと軽く笑みを浮かべたものの、その表情はすぐに消え、彼にとってもこの交際は気乗りしていないことが見て取れた。
要介護の親を抱えている郷田浩は最低条件と言っていい。それは本人もよく分かっているのだろう。
自分は選ぶ立場にないと、あきらめの気持ちが態度に表れているようだ。
みすずも儀礼的に笑みを返し、お互い挨拶は交すものの、その間には空疎な空気が漂う。
駐車場に停めてある郷田浩のクルマに乗り、郷田家を目指す。
今回もビジネスライクにルールを詰めていく作業をし、乾いた時間を過ごすことになるのだろう。
――やはり、この見合いは断る方向でいくほうがいい?
が、こうも思う。
妹のさりなの場合、恋愛結婚だったのに、結婚後は急速に冷え込み離婚に至った。
さりなが言うには 元夫は結婚してから手の平を返したように冷たくなったらしい。
結婚前の優しさなど当てにはならない。恋愛していた時が楽しかった分、結婚後もそれを求めてしまい、しかし、それが叶えられないとなると不満を抱え込み、夫婦間に亀裂を生むこともあるようだ。
――まだ結論を出すのは早い? もっとじっくり考えるべき?
迷いが頭の中を駆け巡っているうちに郷田浩の自宅に着いてしまった。
――そうだ、郷田家の家族がどんな人か、それも見極めなくては。
郷田家は、くすんだ灰色をした古びた賃貸マンションの1階にあった。
通路に並ぶ一番端のドアまで案内される。
浩がそのドアを開けると、玄関に若い女性が出てきた。
「ようこそ、はじめまして郷田浩の妹の薫です」
「あ、はじめまして……福田みすずです」
まだ少し硬い表情のみすずに、郷田浩の妹・薫は親しげな笑みを浮かべ、中へ招く。
「寒かったでしょ。どうぞこちらへ」
郷田薫はクールビューティといった感じで背が高くモデルのような外見をしていた。が、口を開くと気さくな感じで、そのギャップが魅力的だった。
何だか郷田浩よりも妹の薫のほうが気が合いそうだ。歳も近かった。みすずより、ひとつ上の30歳だという。
「あの、母にも会ってもらっていいですか?」
「ええ、もちろん、ご挨拶したいと思って伺ったんですから」
みすずは薫に連れられ奥へと案内された。そこに、台所とつながった食堂兼居間といった感じの部屋で車イスに座った郷田浩の母親が待っていた。
「はじめまして、福田みすずです。お邪魔させていただきます」
みすずは車イスの母親へ近づき、腰を折って挨拶した。
郷田浩の母親は愛好を崩し、みすずの手を取り「よく、おいでくださいました」と歓迎する様子を見せてくれた。心の底から喜んでくれているようで、みすずも嬉しくなり、自然に頬をほころばせる。
「みすずさん、こちらへおかけください」
薫が食卓の椅子を示したので、みすずは軽く頭を下げながら席に着いた。
浩は母親の車イスを移動させる。さっきまでの乾いた表情はどこへやら、母親には本物の笑顔を見せていた。家族には優しい男のようだ。
結婚し家族の縁を結べば、自分にもああいう笑顔を向けてくれるのだろうか――みすずはぼんやりと浩を見つめた。
窓にかかっているレースのカーテン越しに3月のやわらかい日差しが落ちる。
郷田家の雑然とした気取りのない部屋の様子に緊張をせずに済み、リラックスできた。
おしゃれでお高くとまった場所はどうも落ち着かない。こういった雰囲気のほうが落ち着く。
ということは、自分には郷田家が合う、ということなのだろうか?
それから――お茶を飲みながら郷田浩の母親と妹・薫といろんな話をした。
その間、母親や薫からも「介護はしなくていい」「仕事を続けてほしい」と浩と同じことを言われた。もちろんその辺の条件は浩とも話し合っていたのだろう。
お互い、訊いたり訊かれたり、質問に応えているうちに何気ないおしゃべりに発展した。
楽しかった。
浩本人はともかく、母親と妹とは上手くやっていけそうだ。
昼食は郷田家の家族と一緒に出前のお寿司をいただいた。
「家族が増えると賑やかになって、いいねえ」
郷田の母親がしみじみとお茶を啜る。
「ほら、みすずさん、遠慮しないで食べて食べて」
薫も場を盛り立てる。
「母さんも今日は食が進むじゃない。みすずさんのおかげね」
浩の母と妹・薫の歓迎ぶりに、みすずの硬くなっていた心はほぐれていった。
と同時に結婚を断るほうへ傾いていた心に迷いが生じる。自分を必要としてくれるならと気持ちが揺らぐ。
この家族とだったら一緒にやっていけるかもしれない。郷田浩とも時間をかければ情が育まれ、絆を結べるのではないか。
みすずの思いは結婚に前向きになっていく。
夕方、黄昏ていた空が紺青色へと移ろい、闇が混じる頃、みすずは郷田家をお暇し、帰途に就いた。
今回はさすがにクルマでみすずの家まで送り届けてくれた郷田浩だったが、相変わらず会話が弾むことはく、空気は重くなる。
でもあまり気にしないようにした。
みすずの家の玄関先では、みすずの両親とさりなが顔をそろえたので、浩を紹介し、家族と軽く顔合わせをしてもらった。
浩は「家に上がってほしい」と言うみすずの両親の誘いを丁重に断り、帰っていったが、次回、日を改めて福田家を訪ねることになった。
最初から家族ぐるみのつきあいとなり、二人っきりでデートという機会はなさそうだけど、これはこれでいいかもしれない。
どっちみち、浩と顔を付き合せたところで楽しい時間を過ごせそうにない。浩の母や薫が一緒にいてくれたほうがいい。
結婚はどうしたってお互いの家族も関わってくるのだから、結婚相手が好きかどうかは大した問題ではなく、嫌悪感がなければそれで御の字なのかもしれない。
正直、郷田浩のことは好きとは言えないし、おそらく郷田浩のほうも同じだろう。
それはあまりに寂しいとは思いつつも、恋愛感情が入り込まないからこそ結婚の契約内容を吟味し、生活のルールを決め、冷静に話し合いをして条件をすり合わせることができる。そのほうが失敗のリスクを減らせる。
相手の家族との相性もクリアーしている。
肝心の浩との相性は不明だが、浩が時折見せていた母親や妹への笑顔は優しげで、家族思いであることは分かった。そこは好感が持てた。
恋愛が苦手な自分にはふさわしい結婚の仕方かもしれない、とみすずは少し自嘲しつつ、気持ちは郷田浩との結婚へと向けられていた。
しかし未だ、心の片隅には『そこまでして結婚したいのか?』という問いが燻る。
自宅の客間に戻ったみすずは、出しっぱなしの雛人形を見やる。
旧暦で見るなら、桃の節句はまだ先だ。ならば旧暦の3月3日まで飾っておいてもいいのかもしれない。
今日のお礼とお疲れ様メールを郷田浩に送る。
しばらくして『今日はありがとうございました。お疲れ様でした』と簡素な返事が着た。気持ちはあまり感じられない。いかにも儀礼的。
ま、こういう人なんだろう……と無理に納得させる。
自分のメールだって親しみを表すことなく儀礼的な文章になってしまっている。
一緒になれば、この距離感は徐々に埋まっていくだろう。
それでも若干、心寒さを感じる。
――本当にこれでいいのか?
その時「お姉ちゃん、ご飯だって」とさりなの声が廊下からふすま越し届いた。
「はい、今行く」
我に返ったみすずは返事をしながら立ち上がる。
居間に入ると、すでに夕飯が整えられ、座卓には母が作ってくれたちらし寿司が置かれていた。ほか煮物や焼いた鰆など、おかずが盛りだくさん。
さっそく家族との夕食が始まった。久しぶりの母の料理はおいしかった。
話題の中心はやはり郷田浩のことであり、賑やかな晩餐となった。
久しぶりの家族団らんに心が和む。
父と母ははやけに嬉しそうだった。みすずが結婚に前向きだからだろう。
当初、介護が必要な相手の親との同居が条件の結婚にさすがに勧めはしなかったが、みすずが望んで結婚する分には賛成のようだった。さりなも応援してくれている。
家族は皆、みすずの幸せを心の底から願ってくれていた。
そんな両親やさりなも「結婚こそ・家庭を持ってこそ女の幸せ」という世間の呪縛にかかっているとも言えるが、自分のことを思ってくれている家族の気持ちを否定する気にはなれなかった。
みすずのフェミニズム魂が揺れる。
世間の価値観と対峙するというのは、ことのほか厳しい。
夕飯を食べ終わり、みすずは自分のマンションへと帰る。明日から仕事だ。
実家を出ると、外はやわらかい空気に包まれ、春の気配を漂わせていた。
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