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プロローグまたは番外編
あだ名―中秋の名月
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今夜は十五夜。
中秋の名月が周りの星々を霞ませている夜空の下、『ムーン』こと白井月子は重い体を引きずりながら帰途につく。贅肉まみれの頬から思わずため息が漏れる。
今日の合コンも惨敗――今回もこれという男子は見つからなかった。
いや、男子から相手にされなかったと言ったほうが正しい。
もう大学二年生、来年からそろそろ就活の準備に入らないと……。
恋愛はできなくても生活に困らないけど、就職はそんなわけにはいかない。
勝算が低そうな恋活はあきらめて、早めに就活に取り組もうか。
恋愛がダメなら、せめて就職先くらいは友人らより上でいたい。
就活が成功すれば、鬱々と心の底に巣くう劣等感も多少は和らぐだろう。
そう、月子はありていに言えばデブだった。
「ムーン」という愛称がついているけれど、実は『月のようなまん丸い顔』のことを指しているのだと月子は穿った見方をしている。
アフリカ辺りでは太った女性は好まれるようだが、ここは日本。
女は痩せていなければならない。
もちろん「蓼食う虫も好き好き」「デブ専」という言葉もあるけれど、大方の人はデブが嫌いなようだ。そしてデブは美しくないとして下に見る。
だから本当は「ムーン」と呼ばれるのは好きではなかった。
――それでも中学時代よりはマシか……
ふと空を見上げた月子は、そこに浮かぶ白くて丸い月に顔を歪め、視線を地面に戻す。中学の時のあだ名は「白ブ~」だった。
コンプレックスに苛まれていた中学時代。
今まで中学の卒業アルバムだけは開いたことがない。
高校の時も「白ブ~」と呼ばれていた。中学時代からの同級生らの何人かが同じ高校に進学し、彼らが「白ブ~」と呼び続けたからだ。
結局、その呼び名が皆に定着してしまった。
中学時代とは違い、中には親しみを込めてそう呼んでいた子もいたようだけど……。
いえ、親しみを込めているように装っていただけかもしれない?
それでも月子の入った高校は進学校であり――
モテること、センスよくおしゃれであること、美しくあることより、まずは勉強ができることに価値が置かれていた。
そういう空気に月子は少し救われていた。
もちろん太っていることへのコンプレックスを抱え込んではいたが、トップに近い成績をとれば、いくらかその劣等感を紛らわすことができた。
『どんなに勉強ができても、あれじゃあね……』
陰でそんな意地悪い嘲笑をぶつけ、月子を軽く見ようとする子はたいてい勉強ができない生徒だった。
負け犬の遠吠えに聞こえないでもない。
学校内においては、勉強ができる子の価値が高かった。
成績優秀者同士がくっついた。
太い脚を見せたくなくて長めのスカートをはいていたけど、勉強のできる真面目な子たちもそんなにスカートを短くしておらず、ダサく見えていただろう月子の制服姿をガードしてくれた。
クラスでの月子のランクは上位に位置していた。そのことで月子の自尊心は保たれた。
だから高校生活はそこそこ楽しかった。
――でも中学時代は……
いや、もうやめよう。
昔を振り返っても何もいいことはない。
だけど、逃げようとすればするほど『中学時代』が追いかけてくる。
封じ込めようとすればするほど、過去は月子を捉えようとする。
――あの時代は……劣等感というより罪悪感にまみれていた。
ある少女の顔が浮かび上がる。
――ゾウさん……。
そう、彼女のあだ名は「ゾウさん」だ。
ゾウに似た子だったから。
もちろん、クラスの皆はあからさまな侮蔑を込めてそう呼んでいた。
――ゾウさん。
あれは中学二年の初めの頃。
ゾウさんと、あともう一人「モヤシ」と呼ばれていた子と、休み時間は三人で集まり、漫画やアニメの話をしたり、イラストを描いたりして盛り上がっていたっけ。
浮上してくる過去から逃げるように月子は空を見上げた。
月子の目に満月が映る。その怪しく微笑む月に誘われるかのように過去がよみがえってくる。
ついに月子は『中学時代』に捕まってしまった。
・・・
クラス替えがある度に胸がキュウと縮む。
四月は戦いのシーズンだ。自分の居場所を確保することが最優先課題となる。
とにかく独りにならないよう、いつもつるんでくれる友だちを見つけなければならない。
次のクラス替えまでの一年間、快適にそして安全に暮らせるかどうかが、かかっている。友だちは防御壁だ。
程なくして、趣味の合う二人の友人を見つけ、三人グループを結成した。
あの頃、アニメや漫画にはまっていて、私たちは好きな漫画の話をしたり、そのキャラクターを描いたりして遊んでいた。
世間ではオタク文化が認められつつある空気もあったが、学校の中でのオタクグループは何となく見下されている感があった。
ただ、中学ではメジャーな漫画やアニメなら好きな子も多く、仲間で固まっていればイジメられることもなく平和に過ごせた。
――そのはずだった。
なのに中学2年の時のクラスでは『恋愛に励むおしゃれなキラキラ女子たち』が幅を利かせ、たまに私たち冴えないオタクグループをからかった。
「ねえ、それってそんなに楽しい?」
「って、リアルでは相手にされないからってあきらめちゃダメだよ」
私たちはただヘラヘラと笑ってごまかし、キラキラグループが弄り飽きるのを待った。ほかのグループの子は当たらず障らずといった態度だったし、教室の空気を乱すわけにはいかない。
だがそのうち一部の男子生徒からも、からかわれるようになった。
しかも男子生徒らは、私たちの容姿の特徴をあげつらい、あだ名をつけた。
私は「白ブ~」、もう一人は「モヤシ」、そしてもう一人は「ゾウさん」だ。
たしかに『モヤシ』は身体がひょろんとして、顔も細長く、目も鼻も口も小作りで薄い印象の女子生徒で――
『ゾウさん』はどっしりと体が大きく色黒で皮膚が硬そうに見え、蒙古襞が覆う目は小さく、両目が離れていて、本当に動物のゾウに似ていた。
あっという間にその呼び名は定着してしまい、ほかの生徒もそう呼ぶようになり、見下しの空気はクラス全体へ広がっていった。
それでも私たちはクラスメイトらがつけた蔑称を無視し、普通に「さん」づけで苗字で呼び合った。
さすがに下の名前で呼び合うのは遠慮していた。
私たちが下の「女の子らしい名前」で呼び合えば、哂われ、からかわれる気がしたからだ。
そう、口の悪い男子は吐く真似をしながら、きっとこう言うだろう。
――オエ~。似合ってねえ。気持ち悪っ。鏡をよく見ろ。
私たちは分をわきまえ、振る舞いに注意した。ただでさえ、気分が悪いあだ名をつけられ、哂われているのだ。これ以上は傷つきたくなかった。
そんなある日の昼休み時間。
男子生徒らは「オタク三人組の中で誰が一番ブスか」という話をし始めた。わざと私たちに聞こえるように大声で。
私たち三人は固まった。何か話題を探そうとするも上滑りになる。耳は完全に男子生徒らのほうへ向いていた。
「やっぱり、ゾウさんだよなあ」「僅差でゾウさんに決定だな」「ブスの王者」
男子生徒らの笑い声が届いた。
その時、私はホッとしてしまった。
――私は最下位ではない。最下位を免れた。最下位はゾウさん……。
けれど、ゾウさんと視線を合わせることができず、思わず顔を床に落とした。
どうしていいか分からなかった。
モヤシも居心地悪そうに押し黙り、私たち三人の中に微妙な空気が覆った。
するとゾウさんはその場から逃げるように「トイレ行ってくる」と席を立った。
私とモヤシは追いかけることはせず、そのまま動かなかった。
それが今まで仲良しだった三人が、二対一になった瞬間だった。
教室から出ていくゾウさんに男子生徒らの嘲笑がうずまいた。
さすがに真面目グループの女子生徒らが「やめなよ」と抗議の声を上げてくれた。
が、そこにキラキラグループの女の子の「ひどーい」「ゾウさん、かわいそ~」とおどけたような声が被さり、真面目グループの子らを封じた。
こうして私たち三人の仲は、一部のクラスメイトらの悪ふざけによって壊された。
……いいえ、本当は……
壊したのは私だ。
ゾウさんと一緒にいると皆から哂われる。
最下位のゾウさんから離れることで、私は自分の心を守ろうとした。
これ以上、劣等感を刺激されたくなかった。
私はゾウさんから距離を置き、壁を作った。
ゾウさんから話しかけられても、視線を合わせず、適当に返事をし、トイレへ逃げた。
モヤシも私に倣った。
それでも近づいてくるゾウさん。
――いい加減、空気を読んでよ。最下位に引きずり込まないで。
ブスの王者であるゾウさんと同類・同ランクに思われたくなかった。
そこで休日に、画材店に行こうと三人で約束をした。
だけど、私はモヤシと示し合わせて、待ち合わせ場所に行かなかった。
ゾウさんもこれで悟ってくれたはず。
――お願い、離れて。
――だって、私たちはランクが違うのだから。
翌日、ゾウさんはもう私たちに近づこうとはしなかった。挨拶も交さない。
ゾウさんとは完全に縁を切った。
私たちオタクグループ三人組が分裂したことは、クラスメイトたちにもすぐに分かったようだ。
おしゃれキラキラグループの子たちが、たまに私とモヤシを相手するようになった。
相変わらず見下しの空気は漂っていたけど表だってからかうことはなく、ゾウさん一人だけを標的にした。
そのうち、ゾウさんはクラスの誰とも視線を合わせなくなった。
いつも俯いていた。
すると――
今度はゾウさんにこんな声が投げかけられるようになった。
「地面とお友だち」「友だちは地面。お似合いじゃん」
男子生徒らはゾウさんをそう揶揄し、おしゃれグループのキラキラ女子たちが「うま~い」「うける~」と手を叩く。
ほかのクラスメイトらは無視するか、同調して笑っていた。
もう誰も抗議の声を上げようとしなかった。
一緒に笑わないとイジメられる……。
私とモヤシは彼らに媚びを売るように口角を上げた。
そのうちゾウさんへの本格的なイジメが始まった。
カバンや机の中にゴミを入れられたり、モノが隠されたり、ノートに悪口書かれたり、足を引っかけられたりされていたようだ。
誰も助けない。
私たちも助けなかった。助けたら、最下層ゾウさんの仲間入りだ。
けれど二学期に入り、ゾウさんへのイジメは止んだ。
担任が説教をし、学年主任と共に「イジメは決して許さない」「今後、長山に手を出した者は内申書にそのことを書く」「高校への推薦はしない」と宣言し、断固たる姿勢を示した。
休み時間は先生らがしょっちゅう見回りに来た。
本気でイジメを止めようとしている先生らに、さすがのクラスメイトらも従った。
ペナルティを科せられてまでイジメを続ける子はいなかった。
……ああ、そうだ、今思い出した。
ゾウさんの名前は――長山春香だ。
長山春香へのイジメにさすがに担任も気づいたのだろうか、あるいは誰かが担任に話したのかもしれない。
この世にも多少の救いはあるんだな……私はそう思い、少しホッとした。
やはり長山春香がイジメられている姿は見たくなかった。彼女と離れたのは自己防衛のためであり、嫌いになったからじゃない。
こうして長山春香への直接的なイジメはなくなったけど、無視は相変わらず続いた。
いえ、長山春香のほうも、クラスメイトらを無視していたのだ。
もう私たち三人の溝は埋まりようがなかった。
この時になって私の中に罪悪感が芽生え始めた。
けどこの罪悪感が私を不快にさせた。
長山春香の姿を見る度に、この不快な罪悪感が襲ってくる。自分が卑怯で醜い人間であることを突きつけられる。
長山春香のことはもう忘れたい。
外見も醜いのに、中身まで醜い自分に反吐が出る。
私の劣等感はマックスになった。
それからの私はひたすら勉学に励んだ。
漫画やアニメからも足を洗った。それらは長山春香を思い出させるから。
三年生になってクラス替えがあった。
モヤシとは離れたけど長山春香とはまた同じクラスになってしまった。
長山春香の姿なんて見たくないのに――ああ、そうか、これは天罰なんだ。
そう悟った。
三年のクラスでも長山春香はずっと独りだった。誰とも視線を合わせないし、誰ともしゃべらない。挨拶すらしない。
皆が無視をするのではなく、長山春香のほうがバリアを張り、誰も近づけなかった。
長山春香のその姿は、私へのあてつけのようにも感じ、長山春香への嫌悪感が生まれた。
でも実はそれは自己嫌悪の裏返しだった。
私は勉学へ癒しを求めた。成績が上がると先生や親が褒めてくれる。その時だけ自己嫌悪から解き放たれた。
その微かな救いにしがみつきながら、自己嫌悪と劣等感、罪悪感にまみれた中学生活を終えた。
結局、長山春香とは和解することもなく、一言も言葉を交すことなく卒業式を迎えた。
高校はさすがに彼女とは別々になった。
彼女はこの地区で一番偏差値が低い公立高校へ進んだようだ。
長山春香の姿を目にしなくなり、時の流れが徐々に彼女の存在をうすめてくれた。
けれど、それは罪悪感から解き放たれたのではなく、心の底に深く沈んでいっただけだった。
・・・
何か事が上手くいかない時、この中学時代に刻まれた罪悪感がひょっこり顔を出す。
月子はこう思う。
そうか、上手くいかないのは罰なんだと。
どうすればあの時の贖罪になるのか、月子には分からない。
だから罰を受けることが贖罪につながるのならば、それでいい。
でも、結局これって自分を救うためにそう思い込もうとしているだけなのかもしれない。
その後、長山春香がどうなったのかは知らない。
月子は再び夜空を見上げ、罪悪感を癒すように煌々と輝く満月に長山春香の幸せを願った。
今の自分はこれくらいしかできない。
月光に見守られながら、月子の罪悪感が心の海に沈んでいく。そう、決してなくならない、ただ奥深く沈むだけだ。そして封じ込めたつもりでもまたひょっこり浮き出てくるのだろう
――就職活動、がんばろう……。
月子は下を向き、二度と満月へ目をやることなく、家へ向かう。
社会人になったら普通に「白井さん」と呼ばれるだろう。
それでいい。あだ名はもうたくさんだ。
中秋の名月が周りの星々を霞ませている夜空の下、『ムーン』こと白井月子は重い体を引きずりながら帰途につく。贅肉まみれの頬から思わずため息が漏れる。
今日の合コンも惨敗――今回もこれという男子は見つからなかった。
いや、男子から相手にされなかったと言ったほうが正しい。
もう大学二年生、来年からそろそろ就活の準備に入らないと……。
恋愛はできなくても生活に困らないけど、就職はそんなわけにはいかない。
勝算が低そうな恋活はあきらめて、早めに就活に取り組もうか。
恋愛がダメなら、せめて就職先くらいは友人らより上でいたい。
就活が成功すれば、鬱々と心の底に巣くう劣等感も多少は和らぐだろう。
そう、月子はありていに言えばデブだった。
「ムーン」という愛称がついているけれど、実は『月のようなまん丸い顔』のことを指しているのだと月子は穿った見方をしている。
アフリカ辺りでは太った女性は好まれるようだが、ここは日本。
女は痩せていなければならない。
もちろん「蓼食う虫も好き好き」「デブ専」という言葉もあるけれど、大方の人はデブが嫌いなようだ。そしてデブは美しくないとして下に見る。
だから本当は「ムーン」と呼ばれるのは好きではなかった。
――それでも中学時代よりはマシか……
ふと空を見上げた月子は、そこに浮かぶ白くて丸い月に顔を歪め、視線を地面に戻す。中学の時のあだ名は「白ブ~」だった。
コンプレックスに苛まれていた中学時代。
今まで中学の卒業アルバムだけは開いたことがない。
高校の時も「白ブ~」と呼ばれていた。中学時代からの同級生らの何人かが同じ高校に進学し、彼らが「白ブ~」と呼び続けたからだ。
結局、その呼び名が皆に定着してしまった。
中学時代とは違い、中には親しみを込めてそう呼んでいた子もいたようだけど……。
いえ、親しみを込めているように装っていただけかもしれない?
それでも月子の入った高校は進学校であり――
モテること、センスよくおしゃれであること、美しくあることより、まずは勉強ができることに価値が置かれていた。
そういう空気に月子は少し救われていた。
もちろん太っていることへのコンプレックスを抱え込んではいたが、トップに近い成績をとれば、いくらかその劣等感を紛らわすことができた。
『どんなに勉強ができても、あれじゃあね……』
陰でそんな意地悪い嘲笑をぶつけ、月子を軽く見ようとする子はたいてい勉強ができない生徒だった。
負け犬の遠吠えに聞こえないでもない。
学校内においては、勉強ができる子の価値が高かった。
成績優秀者同士がくっついた。
太い脚を見せたくなくて長めのスカートをはいていたけど、勉強のできる真面目な子たちもそんなにスカートを短くしておらず、ダサく見えていただろう月子の制服姿をガードしてくれた。
クラスでの月子のランクは上位に位置していた。そのことで月子の自尊心は保たれた。
だから高校生活はそこそこ楽しかった。
――でも中学時代は……
いや、もうやめよう。
昔を振り返っても何もいいことはない。
だけど、逃げようとすればするほど『中学時代』が追いかけてくる。
封じ込めようとすればするほど、過去は月子を捉えようとする。
――あの時代は……劣等感というより罪悪感にまみれていた。
ある少女の顔が浮かび上がる。
――ゾウさん……。
そう、彼女のあだ名は「ゾウさん」だ。
ゾウに似た子だったから。
もちろん、クラスの皆はあからさまな侮蔑を込めてそう呼んでいた。
――ゾウさん。
あれは中学二年の初めの頃。
ゾウさんと、あともう一人「モヤシ」と呼ばれていた子と、休み時間は三人で集まり、漫画やアニメの話をしたり、イラストを描いたりして盛り上がっていたっけ。
浮上してくる過去から逃げるように月子は空を見上げた。
月子の目に満月が映る。その怪しく微笑む月に誘われるかのように過去がよみがえってくる。
ついに月子は『中学時代』に捕まってしまった。
・・・
クラス替えがある度に胸がキュウと縮む。
四月は戦いのシーズンだ。自分の居場所を確保することが最優先課題となる。
とにかく独りにならないよう、いつもつるんでくれる友だちを見つけなければならない。
次のクラス替えまでの一年間、快適にそして安全に暮らせるかどうかが、かかっている。友だちは防御壁だ。
程なくして、趣味の合う二人の友人を見つけ、三人グループを結成した。
あの頃、アニメや漫画にはまっていて、私たちは好きな漫画の話をしたり、そのキャラクターを描いたりして遊んでいた。
世間ではオタク文化が認められつつある空気もあったが、学校の中でのオタクグループは何となく見下されている感があった。
ただ、中学ではメジャーな漫画やアニメなら好きな子も多く、仲間で固まっていればイジメられることもなく平和に過ごせた。
――そのはずだった。
なのに中学2年の時のクラスでは『恋愛に励むおしゃれなキラキラ女子たち』が幅を利かせ、たまに私たち冴えないオタクグループをからかった。
「ねえ、それってそんなに楽しい?」
「って、リアルでは相手にされないからってあきらめちゃダメだよ」
私たちはただヘラヘラと笑ってごまかし、キラキラグループが弄り飽きるのを待った。ほかのグループの子は当たらず障らずといった態度だったし、教室の空気を乱すわけにはいかない。
だがそのうち一部の男子生徒からも、からかわれるようになった。
しかも男子生徒らは、私たちの容姿の特徴をあげつらい、あだ名をつけた。
私は「白ブ~」、もう一人は「モヤシ」、そしてもう一人は「ゾウさん」だ。
たしかに『モヤシ』は身体がひょろんとして、顔も細長く、目も鼻も口も小作りで薄い印象の女子生徒で――
『ゾウさん』はどっしりと体が大きく色黒で皮膚が硬そうに見え、蒙古襞が覆う目は小さく、両目が離れていて、本当に動物のゾウに似ていた。
あっという間にその呼び名は定着してしまい、ほかの生徒もそう呼ぶようになり、見下しの空気はクラス全体へ広がっていった。
それでも私たちはクラスメイトらがつけた蔑称を無視し、普通に「さん」づけで苗字で呼び合った。
さすがに下の名前で呼び合うのは遠慮していた。
私たちが下の「女の子らしい名前」で呼び合えば、哂われ、からかわれる気がしたからだ。
そう、口の悪い男子は吐く真似をしながら、きっとこう言うだろう。
――オエ~。似合ってねえ。気持ち悪っ。鏡をよく見ろ。
私たちは分をわきまえ、振る舞いに注意した。ただでさえ、気分が悪いあだ名をつけられ、哂われているのだ。これ以上は傷つきたくなかった。
そんなある日の昼休み時間。
男子生徒らは「オタク三人組の中で誰が一番ブスか」という話をし始めた。わざと私たちに聞こえるように大声で。
私たち三人は固まった。何か話題を探そうとするも上滑りになる。耳は完全に男子生徒らのほうへ向いていた。
「やっぱり、ゾウさんだよなあ」「僅差でゾウさんに決定だな」「ブスの王者」
男子生徒らの笑い声が届いた。
その時、私はホッとしてしまった。
――私は最下位ではない。最下位を免れた。最下位はゾウさん……。
けれど、ゾウさんと視線を合わせることができず、思わず顔を床に落とした。
どうしていいか分からなかった。
モヤシも居心地悪そうに押し黙り、私たち三人の中に微妙な空気が覆った。
するとゾウさんはその場から逃げるように「トイレ行ってくる」と席を立った。
私とモヤシは追いかけることはせず、そのまま動かなかった。
それが今まで仲良しだった三人が、二対一になった瞬間だった。
教室から出ていくゾウさんに男子生徒らの嘲笑がうずまいた。
さすがに真面目グループの女子生徒らが「やめなよ」と抗議の声を上げてくれた。
が、そこにキラキラグループの女の子の「ひどーい」「ゾウさん、かわいそ~」とおどけたような声が被さり、真面目グループの子らを封じた。
こうして私たち三人の仲は、一部のクラスメイトらの悪ふざけによって壊された。
……いいえ、本当は……
壊したのは私だ。
ゾウさんと一緒にいると皆から哂われる。
最下位のゾウさんから離れることで、私は自分の心を守ろうとした。
これ以上、劣等感を刺激されたくなかった。
私はゾウさんから距離を置き、壁を作った。
ゾウさんから話しかけられても、視線を合わせず、適当に返事をし、トイレへ逃げた。
モヤシも私に倣った。
それでも近づいてくるゾウさん。
――いい加減、空気を読んでよ。最下位に引きずり込まないで。
ブスの王者であるゾウさんと同類・同ランクに思われたくなかった。
そこで休日に、画材店に行こうと三人で約束をした。
だけど、私はモヤシと示し合わせて、待ち合わせ場所に行かなかった。
ゾウさんもこれで悟ってくれたはず。
――お願い、離れて。
――だって、私たちはランクが違うのだから。
翌日、ゾウさんはもう私たちに近づこうとはしなかった。挨拶も交さない。
ゾウさんとは完全に縁を切った。
私たちオタクグループ三人組が分裂したことは、クラスメイトたちにもすぐに分かったようだ。
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相変わらず見下しの空気は漂っていたけど表だってからかうことはなく、ゾウさん一人だけを標的にした。
そのうち、ゾウさんはクラスの誰とも視線を合わせなくなった。
いつも俯いていた。
すると――
今度はゾウさんにこんな声が投げかけられるようになった。
「地面とお友だち」「友だちは地面。お似合いじゃん」
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ほかのクラスメイトらは無視するか、同調して笑っていた。
もう誰も抗議の声を上げようとしなかった。
一緒に笑わないとイジメられる……。
私とモヤシは彼らに媚びを売るように口角を上げた。
そのうちゾウさんへの本格的なイジメが始まった。
カバンや机の中にゴミを入れられたり、モノが隠されたり、ノートに悪口書かれたり、足を引っかけられたりされていたようだ。
誰も助けない。
私たちも助けなかった。助けたら、最下層ゾウさんの仲間入りだ。
けれど二学期に入り、ゾウさんへのイジメは止んだ。
担任が説教をし、学年主任と共に「イジメは決して許さない」「今後、長山に手を出した者は内申書にそのことを書く」「高校への推薦はしない」と宣言し、断固たる姿勢を示した。
休み時間は先生らがしょっちゅう見回りに来た。
本気でイジメを止めようとしている先生らに、さすがのクラスメイトらも従った。
ペナルティを科せられてまでイジメを続ける子はいなかった。
……ああ、そうだ、今思い出した。
ゾウさんの名前は――長山春香だ。
長山春香へのイジメにさすがに担任も気づいたのだろうか、あるいは誰かが担任に話したのかもしれない。
この世にも多少の救いはあるんだな……私はそう思い、少しホッとした。
やはり長山春香がイジメられている姿は見たくなかった。彼女と離れたのは自己防衛のためであり、嫌いになったからじゃない。
こうして長山春香への直接的なイジメはなくなったけど、無視は相変わらず続いた。
いえ、長山春香のほうも、クラスメイトらを無視していたのだ。
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三年生になってクラス替えがあった。
モヤシとは離れたけど長山春香とはまた同じクラスになってしまった。
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そう悟った。
三年のクラスでも長山春香はずっと独りだった。誰とも視線を合わせないし、誰ともしゃべらない。挨拶すらしない。
皆が無視をするのではなく、長山春香のほうがバリアを張り、誰も近づけなかった。
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でも実はそれは自己嫌悪の裏返しだった。
私は勉学へ癒しを求めた。成績が上がると先生や親が褒めてくれる。その時だけ自己嫌悪から解き放たれた。
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結局、長山春香とは和解することもなく、一言も言葉を交すことなく卒業式を迎えた。
高校はさすがに彼女とは別々になった。
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けれど、それは罪悪感から解き放たれたのではなく、心の底に深く沈んでいっただけだった。
・・・
何か事が上手くいかない時、この中学時代に刻まれた罪悪感がひょっこり顔を出す。
月子はこう思う。
そうか、上手くいかないのは罰なんだと。
どうすればあの時の贖罪になるのか、月子には分からない。
だから罰を受けることが贖罪につながるのならば、それでいい。
でも、結局これって自分を救うためにそう思い込もうとしているだけなのかもしれない。
その後、長山春香がどうなったのかは知らない。
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今の自分はこれくらいしかできない。
月光に見守られながら、月子の罪悪感が心の海に沈んでいく。そう、決してなくならない、ただ奥深く沈むだけだ。そして封じ込めたつもりでもまたひょっこり浮き出てくるのだろう
――就職活動、がんばろう……。
月子は下を向き、二度と満月へ目をやることなく、家へ向かう。
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それでいい。あだ名はもうたくさんだ。
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大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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