放蕩事情譚

ゴんざェもん

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第一章

午前2時54分

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眠過ぎる。

何百回目の寝返りを打つと、布団から放り出された足が何かを蹴飛ばした。足の下に冷たいものが広がる。1度目を瞑り、なんとか体を起こすと昼間食べた鯖缶が逆様になっている。

薄汚れた黄色の遮光カーテンの外は暗闇で満ちていた。部屋の隅には深夜になると、ズオンズオンと音を立てるワンドアの冷蔵庫がある。今日は静かである。缶を横目に、立ちくらみを堪えながら、窓を開けて煙草に火を点ける。窓の外の桜の木の蝉は息を潜め、秋を告げる虫の声と窓の下の街頭のLEDが眩しい。冷蔵庫から取り出しておいた茶を啜ると、右手に持ち替えた煙草の煙が湿っぽい空気に溶けてなくなってゆく。


青い箱に金で銘された”平和”の文字。この煙草は東京に越してきてから吸い始めたものだ。黄花荘の坂を下りて、川沿いを進むと、老夫婦が営んでいる煙草屋がある。和服姿の主人が鎮座するその場所は事務所のような佇まいであり、禁煙化の進む東京では珍しい空間が広がっている。終始、細目でテレビを見ている主人は咥え煙草を潰し、懐から出したそれにまた火を点けた。

店に入ると主人は私に問う。

「何にするんだい。」

ポケットに入った安煙草を取り出すことにした。

「これ、ありますか。」
「これは、置いてないねぇ。」

吸い慣れたとはいえ、銘柄を日々変えていたこの頃、新しい物を探していた私は主人の煙草に目をやる。

「これにするかい。この煙草は良い。俺はこの煙草しか吸わない。」

主人はそこで黙り込んで、テレビにまた目を向ける。

「それじゃあ、これと同じ物をください。」

視線を移さず、主人は机の下から同じ箱を取り出し、私は小銭と引き換えに机の上に置かれた煙草を受け取る。四月の川沿いを埋める桜と浮かれ調子で黄花荘への帰路を急ぐ。東京での生活が始める最初の風景であった。


煙草という物は、肺を酷使し、血管を縮小させる。確実に死への近道を進む道楽である。そんなことはどうでもいい。今は煙草が運んでくる刹那的な快楽と静寂こそが私の求める物であることに違いない。

すっかり2本目も灰になり、窓を閉めると部屋に入り込んだ熱気の中、缶を拾い上げ、床に広がった汁を足で拭う。その足で草履を履き、部屋を出ると、共用のゴミ箱に投げ込む。汚れた草履を投げ出して、部屋の戸を閉めると、冷蔵庫から冷や飯を取り出して残りの茶をかけて胃に流し込む。ノートパソコンの上に置かれたカップから錠剤を8つ取り出し、口に残った茶で飲み込む。

不眠症。それも慢性の不眠に取り憑かれている。東京に来た頃は一時治っていたこの幽霊はまた私に取り憑いた。

錠剤は暴力的に私の意識を奪ってゆく。トドメの睡眠導入剤2錠は喉元を通り過ぎ、胃に落ちてゆく。横になれば完全に意識を持っていかれる。そのはずだった。

空っぽな意識を携えた魂は直上に鮮明に浮かび上がって、私を見下ろしている。また追加の寝返りを何回繰り返すのだろうか。直上の魂は左手の煙草から紫煙を吐き出し、薄めで身体を監視する態勢に入った。
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